実質的な創業者は三井銀行から阪鶴鉄道に入り、阪鶴鉄道国有化後、その清算人となった小林一三(いちぞう)であった。路線は郊外の田園地帯を走り、通常の乗客数は少ないと予想されたため、小林は過密化や工場の公害で住環境が悪化している大阪都心部に住むより、郊外の自然豊かな自社沿線に住宅を建てて住み、電車で都心へと通うのが理想的だと宣伝し、沿線開発に力を入れた。明治43年6月には、日本初の住宅ローンを活用した戸建て住宅の分譲販売も行った。また、明治44年5月に宝塚新温泉(後の宝塚ファミリーランド)を開業、大正2年7月には宝塚唱歌隊(現・宝塚歌劇団)を結成するなどレジャー事業による集客にも力を入れた。後には、大正9年11月に梅田に阪急ビル(旧館)を建て、食堂を開業し、大正14年6月には、同ビルに直営マーケット(阪急百貨店の前身)も開業している。小林は現在では当たり前になっている鉄道会社が沿線開発を行って、自ら鉄道需要の創出を行うという私鉄ビジネスモデルの基礎を作り上げたという点で特筆される。




右の写真は阪急嵐山線の先頭車両から筆者が撮影した写真である。嵐山線は現在は単線であるが、戦前までは複線だった。戦時下の金属供出で単線化されたが、戦後も輸送能力に不足をきたすことがなかったので、単線のまま運行されている。写真を見ると分かるように、複線の名残で、路盤や架線柱は複線分の幅がある。橋台や橋桁が複線分の幅のままで、残っている部分もある。




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