ワルディーの京都案内

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2026/06/15
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テーマ: 鉄道(27154)
カテゴリ: 京都市の鉄道史
京都市の鉄道史
~その8~


9.私鉄電車の興隆
1)京阪電気鉄道
① 京阪電気鉄道本線開通

 官設鉄道だけでは、将来急増するであろう大阪/京都間の交通量に対応しきれず、官設鉄道の対岸の淀川左岸を走る電鉄が必要であるとの考えから、明治30年代に複数のグループから鉄道敷設の計画が出された。1つが渋沢栄一らの関東グループ、もう1つが村野山人らの関西グループである。数回の話し合いを経て一本化することになり、社名を「畿内電気鉄道(株)」とした。ようやく明治39年8月、特許が下り、社名を「京阪電気鉄道(株)」とした。申請した路線の起点は「天満橋南詰」、終点は「五条大橋東詰」であった。予定路線上の塩小路通から五条通間は人家が多く、用地買収に困難を極めたが、幸いにも、京都市から「鴨川/琵琶湖疏水(鴨川運河)間の堤防を拡幅して、そこに線路を敷設したらどうか。これに加え、市電の三条/塩小路間の特許を有償譲渡する。」という提案があり、これを受け入れ用地買収不調問題を解決した。しかも将来の三条への延伸も可能となった。そして、明治43年4月15日に天満橋/五条間の営業が開始された。右図のように七条駅手前に急なカーブがあるのはこのような経緯によるものである。淀川左岸の交通は、それまで前述の「淀川汽船」に頼っていたが、これを機に淀川汽船は衰退していく。しかし、淀川汽船は昭和37年までの長きにわたり、淀川の水上交通を担った。
 京阪は開業の年の秋に、香里園遊園地で第1回菊人形展を開催し、大正元年には枚方公園を開業し、第3回菊人形展を開催、以降、一部の時期を除きこの枚方公園で「開催されることになった。この枚方公園が現・枚方パークへと繋がっていく。
 また、大正2年、五条/三条間の敷設特許が下付され、大正4年10月、三条駅まで延伸開業した。
 京阪電鉄は、軌道条例適用のため、路線の3分の1が道路併用軌道であった。京街道を縫うように線路が敷設され、「京阪カーブ式会社」と揶揄された。
 明治38年7月18日に京都で帝国陸軍第16師団が編成された。第16師団は深草地域に駐屯し、京阪電鉄と交差する位置に、第一、第二、第三軍道を建設した。踏切があっては活動に支障が出るとのことで、第16師団は京阪電鉄は立体交差化することを強制された。今も、京阪本線は3つの旧軍道の下を通るかたちで立体交差している。

② 京阪宇治線開通
 中書島/宇治間の特許は宇治電気軌道が持っていたが、京阪電鉄はこれを明治43年11月に買収し、京都府への路線敷設申請を明治45年7月30日に行った。偶然この日に明治天皇が崩御され、8月6日になって御陵の場所は伏見桃山にするとの発表があった。翌大正2年7月30日には明治天皇御一年祭が行われ、多くの参拝者が見込まれる。この地と申請中の宇治線は近い。何とか間に合わせたい。宇治線の路線敷設は大正2年1月に認可が下り、全力で建設が行われ、同年6月1日に開通させることができ、御一年祭に間に合わせることができた。6ヶ月弱という超短期間での建設であった。

③ 京阪京津線
 明治39年3月、京都中心部と大津市を直結する電気鉄道敷設を目的に「京津電気軌道(株)」が、三条大橋町/大津市御蔵町間の軌道敷設を申請した。ほぼ同時期に同区間の申請が、京電によって提出された。同年、内務省は両者の合流を要請し、京電が京津電気軌道に合流し、明治40年1月、京津電気軌道に三条大橋/浜大津間の特許が下付された。明治44年4月に工事施行認可が降り、工事に取りかかり、大正元年12月、三条大橋/札の辻間が全通した。
 大正12年頃、京津電気軌道の奥重三郎社長が京阪電気鉄道との合弁に乗り出すも、反対する役員も多く、一部役員には京都電燈(現・京福電気鉄道)との合弁に取り組む者まで現れた。京阪電気鉄道側は、鉄道大臣や京都府知事に、大阪/大津間の直通運転による経済面、能率面での国家的利益を強調して具申した。このようなこともあり、大正14年2月、京津電気軌道は京阪電気鉄道と合弁し、同社の京津線となった。また同年5月には、札ノ辻駅/浜大津駅間が開通し、京津線が全通した。

 図Aは明治42年の地形図に加筆したものである。まだ京阪本線も開通していない時期である。三条通は狭く、京電線が木屋町通及び疏水沿いを走っていただけである。


 図Bは大正11年の地形図に加筆したものである。前述のように大正元年12月に、京津電気鉄道三条大橋/札の辻間が全通した。また東山通が拡幅整備され、大正元年12月から大正2年3月にかけて、市電東山線の一部が開通した。さらに、大正5年10月には京阪本線が三条駅まで延伸された。
 このときの京津電気鉄道は、三条大橋から東山通までは、拡幅された三条通を走っているが、東山通以東は未拡幅の三条通を避け、より北側を走っていた(茶色の線)。推測の域を出ないが、東側に住宅が密でない地域があり、用地買収がしやすかったということがあるかもしれない。


 図Cは昭和13年の地形図に加筆したものである。前述のように、大正14年2月、京津電気軌道は京阪電気鉄道と合弁し、同社の京津線となった。昭和6年2月に東山三条駅以東が拡幅なった三条通に移設された。


 三条通北側の旧路線の痕跡は今も見ることができる。図Dの太い点線が旧線跡である。細い実線の長方形が2つあるが両方とも建築物である。細い点線は、いびつな形をした駐車場である。いずれも廃線跡に建築されたため、回りの住宅に対し、方向が約45度程度傾いている。


 図Eの黒線で囲った部分は、今も道路として利用されている。


④ 京阪石山坂本線
 大正2年3月、大津電車軌道が、現在の石山本線の大津駅(現・びわ湖浜大津駅)/膳所駅(現・膳所本町駅)間を開通させた。これは直前まで官設鉄道が東海道線の一部として、旅客営業をしていた大津駅/馬場(現・膳所駅)間を三線軌条化(軌間の違いがあるため)したものである(官設鉄道は貨物線として、国鉄時代も含め昭和44年まで利用)。以降、膳所駅から順次延伸され、大正2年6月には、浜大津駅/螢谷駅(現・石山寺駅)間が開通した。大正11年5月には三井寺駅/浜大津駅間が開業した。大正14年2月に京阪電鉄傘下となった京津線は、大正14年5月、札ノ辻から浜大津まで延伸開業し、浜大津で京阪京津線と大津電車軌道との連絡が可能となった。
 大津電車軌道は昭和2年1月、太湖汽船と合弁して、琵琶湖鉄道汽船となり、同年9月に坂本駅(現・坂本比叡山口駅)/浜大津駅間を開通させた。競合する江若鉄道(その名の通り、最終的には近江と若狭を結ぶことを目的に敷設された鉄道であるが、この鉄道で近江と若狭が結ばれることはなかった)に対抗のため、複線で直線的なルートで建設された。   
 大津大津電車軌道は、昭和2年5月に、後に近江鉄道八日市線となる湖南鉄道を買収している。これらは、琵琶湖への勢力を拡大してきた京阪鉄道への対抗策として行われたものであった。将来は堅田から草津まで琵琶湖南岸を半周する路線とすることを目指していた。しかし、投資が回収できなかったことから、昭和4年4月、主路線は京阪電気鉄道の傘下に入ることになり、旧・湖南鉄道の鉄道路線は、八日市鉄道(昭和19年3月に近江鉄道に吸収合弁された)に、汽船部門は京阪系の太湖汽船(前出の太湖汽船とは別。現・琵琶湖汽船)に譲渡した。

⑤ その後の京阪電鉄(京滋を中心に)
・昭和18年10月、昭和13年8月に施行された陸上交通事業調整法により、政府からの勧告を受

・昭和20年5月、交野電気鉄道の事業を譲り受け、交野線とする
・昭和20年12月、奈良電気鉄道(現・近鉄京都線)が、丹波橋駅/三条駅間乗り入れ開始
・昭和22年4月、京阪本線の電車が奈良電気鉄道の丹波橋駅/京都駅間乗り入れ開始
・昭和24年12月、京阪神急行電鉄より、京阪本線・交野線・京津線・石山坂本線が分離譲渡され
 る形で、京阪電気鉄道(第二代)が発足

・昭和36年7月、江若鉄道(現・江若交通)に出資して子会社化
・昭和43年12月、近鉄京都線(旧・奈良電気鉄道)の相互乗り入れを廃止
・昭和37年7月、京福電気鉄道を子会社化
・昭和62年5月、東福寺駅/三条駅間を地下化
・平成元年10月、鴨東線(三条駅/出町柳駅間)開業
・平成9年10月、京都市営地下鉄東西線の開通に伴い、京津三条駅/御陵駅間を廃止。京都市営地
 下鉄に御陵駅から乗り入れ
・平成14年3月、京福電気鉄道より叡山電鉄全株式を取得して完全子会社とする

⑥ 京阪本線と奈良電気鉄道相互乗入れ
 上記にあるように、昭和20年12月、奈良電気鉄道(現・近鉄京都線)が、京阪本線丹波橋駅/三条駅間の乗り入れ運転を開始し、昭和22年4月、京阪本線の電車が奈良電気鉄道の丹波橋駅/京都駅間の乗り入れ運転を開始している。それらは、昭和43年12月に廃止になっているので、今は相互乗入れ運転は見られない。では、どうやって、丹波橋駅で相互乗入れしていたのだろうか。
 図1の赤線が相互乗入れのために使われていた線路である。今は、これら相互乗入れのための線路存在しないが、その痕跡を見ることはできる。
 図2-A、図2-Bは、それぞれ現在の京阪丹波橋駅及び近鉄丹波橋駅の北側及び南側の航空写真である。丹波橋駅北側の西側の乗入れ線(京都方面への乗入れ線)の痕跡が分かりやすい。


 図2-Aの赤の矢印の方向に向けて撮った写真が図3である。矢印①のように乗入れ線の一部が残っている。その向こう矢印②にい位置に白い屋根が連続しているのが見えるが、乗入れ線跡が自転車置き場として利用されている。
 丹波橋南側(前ページ図2-B)は、乗入れ線跡が道路、住宅地として利用されているのが分かる。乗入れ線跡上に建てられた住宅が、回りの住宅に対して斜めに建てられている。
 では何故、昭和43年12月に相互乗入れは廃止されてしまったのであろうか。昭和43年(奈良電気鉄道でなく、すでに近鉄になっている)に近鉄が輸送力向上のため、架線電圧を600Vから1,500Vに昇圧することになったのである。ところが、京阪は昇圧に対応できなかった。京阪本線には京都市電(架線電圧600V)との平面交差が4箇所あり、昇圧ができなかったことが一つの理由であるといわれている。なお京阪は市電廃止後の昭和58年10月に1,500V化している。

⑦ 10年間だけ運行された「おとぎ電車」
 大正9年、宇治川への大峯ダム建設のため、資材・作業員運搬用に宇治方面からダム建設現場まで鉄道が敷設された。大正13年に大峯ダムと下流の志津川発電所が完成した後も志津川発電所(天ヶ瀬駅)/大峯ダム(堰堤[えんてい]駅)間3.6kmは、業務用として残された。
 京阪電鉄は、児童福祉法に基づく遊戯物として運行するため、昭和25年10月に堰堤駅付近に「宇治川遊園」を開設、「おとぎ電車」の運行を開始した。行楽シーズンの休日には乗り場に乗車を待つ観光客の列ができるほど人気を博した。
 しかし下流への天ヶ瀬ダム建設で水没することになり、昭和35年5月に廃止された。


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最終更新日  2026/07/08 03:04:39 PM
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