ワルディーの京都案内

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2026/09/02
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テーマ: 京都。(6432)
知られざる伏見稲荷大社 その2

「2」 の部分をご案内します。

知られざる伏見稲荷大社 フィルードワーク ルート図



2.熊野社・藤尾社・霊魂社
 大西家の東側に小さな社が3つ並んでいます。西の方から 熊野社 、 藤尾社 、霊魂社です (図1) 。


図1 左から熊野社・藤尾社・霊魂社





熊野社 (重要文化財)は末社で、造りは一間社春日見世棚造、檜皮葺(主要な神社社殿の建築様式は 図4 参照)。 祭神は、伊邪那美大神(いざなみのおおかみ)です。平安末期に流行した 熊野御幸(ごこう) 熊野詣 をしました。その途中で伏見稲荷を参拝した人々は稲荷山の杉の小枝を折り、鎧や衣服につけて旅の安全を祈願し、この杉は 「しるしの杉 」と呼ばれ、熊野詣参拝者の目印でもあり、お守りでもありました。現在でも、伏見稲荷大社では、 初午大祭 に「しるしの杉」が授与され、古来の信仰が受け継がれています。元禄7年(1649年)に再建されましたが、その後移転を繰り返し、1959年(昭和34年)に現在地に移されたました。

霊魂社 は物故した稲荷大社職員および特別崇敬者の霊を合祀する社です。一間社春日造、檜皮葺、慶応3年(1867)の創建です。

藤尾社 (重要文化財)は末社であり、造りは一間社流見世棚造、檜皮葺、祭神は、 舎人(とねり)親王 (676-735)です。大化の改新で知られる中大兄皇子(のちの天智天皇)の弟、天武天皇の皇子で、淳仁天皇の父にあたる人物です。日本書紀を編纂したことでも知られます。この藤尾社は、南に2kmほどのところにある 藤森(ふじのもり)神社 と深い関わりがあります。

 現在の稲荷大社がある場所は、かつて藤尾と呼ばれていました。奈良時代末期の天平宝宇3年(759)、藤尾社はこの藤尾の地に鎮座します。その後、室町時代の1438年(永享10年)、 後花園天皇 の勅により、 足利6代将軍・義教(よしのり)

 このように藤尾社は現在の藤森神社の地に遷座しましたが、後の時代に稲荷大社内に再興されたようです。天正17年(1589)の社頭図に、「藤尾天皇再興 南向」とあるのが初出です。その後、江戸時代の延宝8年(1680)には天皇塚が崩れた跡地に小社を新築し、藤尾社としたとの記録があります。

 京都検定公式テキスト記載の「平安京の五条以南が氏子圏となって、祇園社(八坂神社)と京を二分した。」という文章からは、五条以南がすべて稲荷大社の氏子圏と考えがちですが、前述の経緯から東海道線から南の鴨川以東は稲荷大社付近も含めて藤森神社の氏子圏なのです。すなわち稲荷大社周辺は稲荷大社の氏子圏ではなく、藤森神社氏子圏であり、稲荷大社は稲荷大社の氏子圏から遠く離れたところに鎮座しているということになります (図2) 。

 藤尾の地を稲荷の神に譲る際の、こんな説話も残っています。「山の上の稲荷社から山麓の藤尾社に、藁わらを置きたいので土地を貸してほしいという申し入れがあった。藤尾社側が『藁を置くくらいなら・・』と承諾したところ、稲荷社の者が多くの藁をつなぎ、藤尾社の広大な土地を囲んだ。そして藤尾社を追い出し、そこに稲荷社の社殿を建立してしまった。」 

 5月5日に行われる藤森神社の「藤森祭」の際には、藤森神社の神輿が稲荷大社の藤尾社前まで入ってきます (図3)





図4 神社社殿の主要な建築様式



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最終更新日  2026/09/18 09:16:12 AM
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