綴

綴

2006年09月16日
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カテゴリ: -本編- [第1部]
[…………思い出すな。思い出さなくて、いい]

 事態がまったく把握できていない朔夜の視界の端に、声と共に人影が映った。
[………まさか、閉ざした記憶の扉が開きかけるとは、な]
 真っ白な少年だった。朔夜よりも高い、そうちょうど緋深と同じほどの身長で、細い体つきだが、それでも貧弱さではなくしなやかさを感じる。まるで髪も、肌も、少年自体が雪でできているかのようだと、朔夜は感じた。
 白銀の絹糸でできた髪は前髪が後ろに流されて額が露わになっており、その額には白い肌とは対極の色である黒で入れ墨があった。それは何かの紋であろう。宗教色が強い形だと感じられるのは、どこか世離れしたような少年の雰囲気からであろうか。
 人でありながら人でないように感じられる少年をはっきりと認識させるためか、少年の纏う衣は墨染め色でできている。少年の歩みと共に揺れる着流しは、軽やかな動きとは違いどこか重たそうな印象だ。まるで少年を地上に繋ぎ止める鎖のようである。
 少年は独白のように色々と呟いているかと思うと、急にはたと視線を合わせ、そのまま朔夜には理解が不能な言葉を紡ぐ。
[今、お前は身体が余程疲れているんだな…そのせいで、扉が綻んで、夢に出てきた、ってとこだな]

[……その様子なら、完全に、ではなく朧気ながら思い出した、ってとこか]
「あ……」
[……好都合、なんだがな]
(何故………そんな…悲しそ、うな顔、する…の?)
「……な…」
 呂律が上手く、回らない。言葉が上手く舌に乗らず、口から出せない。
 目の前の少年を見ていると、朔夜は胸が締め付けられるように痛み、激しい困惑に襲われる。その痛みは底がないほどの深い切なさと、何処か優しい感情を思い出させる感じられるものだ。朔夜は自身の感情がまったく理解できず、不安すら感じていた。
 だが、決してそれは、目の前の少年と会わなければ良かったとは思わない。むしろ、会えなかった今までよく平気だった、とさえ思うほど、この少年との再会に喜びで、胸は温かい感情で満ちている。
(………再、会?私は、何処かで…会った、ことが、ある?)
 無意識に、朔夜は少年との出会いを、“再会”だと感じた。何故だろう、と疑問に思い思惑するが、どうしても上手く考えが纏まらない。まるでばらばらの事柄を繋ぎ合わせようとするたびに、するり、するりと手からこぼれ落ち、解けてしまうようだ。
(あの、かたの屋、敷で?……うう、ん、ずっと…もっと、前…まだ里に、いた、頃?)

 どんどんと疑問を紐解こうとする思考を断ち切るかのように、そっと頭部に温かい感触が触れる。はっ、と面を上げると、深い、深い色合いの紫色の-自分と同じ紫色なのに、どこか違った印象を受ける-瞳と真っ正面からかち合う。
 朔夜は思わず、目を瞬かせた。
 視線は、文字に線という字が使われているように、線でできていたのだろうか。朔夜はふとそう思った。紫色の瞳から生まれ出たその瞳と同様の糸に絡み取られてしまい、動けない。顔も、足も、手も、瞼すらも動くことが叶わない。
[いい、忘れろ]
(……え?)

 朔夜は、それがあまりに声とは違う、残酷で冷たい言葉だと直感すると、慌てて首を左右に必死に振った。何を、何故、忘れろと言うのかすらはっきりと分かっていないというのに、否定しなければならないと、脳が、身体が、細胞が、全てが命じるのだ。咄嗟の身体の行動にようやく感情が追いつくと、無性に悲しく、切なくなり、瞳が水分で埋め尽くされそうになる。
 まるで、親に置いていかれそうな子供のように朔夜はいやいや、と必死に少年の言葉を否定する。
 少年は困ったように少し笑い、困ったと言わんばかりに肩を竦めた。それはどこか演技じみていて、どうしてそんなことをするのだろう、と朔夜は思いつつも左右に首を振り続ける。
 瞳に浮かぶ感情は喜色なのに、どうして少年は、困りはて、悲しげに目を眇めるのだろう。
[……思い出すな。出す必要なんかない]
「や、だ……」
[……忘れたままでも、今まで大丈夫だっただろう?困らなかっただろう?辛くなかっただろう?だから、このままでいいんだ]
「よく、ない…よ……」
[…今、忘れていて、辛いと思うのは、思い出しかけているからだ。今の今まで、忘れていて辛いなんて、思いもしなかっただろう?]
「ちが……違う……ちが、うよぉ」
 そんなのは、何かが違う。
 言い聞かせるように、重ねられる言葉が、妙に鋭く朔夜の心を抉っていく。
 少年の言葉は、何かが違うと朔夜の心が叫ぶ。確かに、過去を忘れていたことが、今、朔夜にとってとても辛いことだと思う。この感情は少年のいう『今の今』まで感じはしなかった。だが、それは忘却された記憶自体が辛いのではなく、忘れていたことが辛いのだ。
 忘却されていた記憶はまだよく思い出せないが、どれも温かく優しいものだ。とても尊く、愛おしい記憶だ。何故かと言われたら、直感したとしか言いようがない。けれども、決して間違ってないと断言できる。
 それを忘れていたのが辛い、と言っているのに、またそれを失えというのか。
 確かに失ったこと自体忘れてしまえば、辛いとは思わないであろう。だが、それでも喪失感は残る。幼い頃からあった、あの空虚感は残るのだ。自身の中に虚ろな部分を、どうしろという。決して埋まらない穴を、どうすればよい。
 そもそも何故、忘れなければならないのだろうか。少年のことも、温かい過去も、幸せだった記憶も。
(…約束…だって、忘れ、ちゃうの?……なくな、ちゃうの?)
 そうだ。約束したのだ。あの幼い頃にした、ずっと大切に思っていた約束すらなかったことになるのか。
 数年、もう8年ほど前になるのか。まだ幼すぎた朔夜に、守人になる朔夜に対し、守人の性である“主のためならば自身の命など”を心配した少年がかけた言葉がきっかけで交わした約束が。
(だから…だか、ら……私はっ)
 無意識に朔夜は約束を覚え続けていた。だから、今まで何度死のうと考えても、みっともないほど足掻き、生に執着した。だから、大切な人々に、朔夜という存在がある限り迷惑をかけ続けると自覚しながらも、死ぬに死ねなかったのだ。朔夜という意思が、何度死を望んでも、莫迦な脳とは違い約束を覚えていた身体が拒絶し、無自覚に生きる道を探し、どうにか生命を繋いできた。
 たった一度はるか昔、忘却すらしてしまった約束を守り続けるためだけに。
(なのに……今まで、ずっと、守ってき…た……約束さ、え…なかったこ、とに………する、の?)
 少年を責める気持ちはまったく起きず、ただ、ただ悲しい思いだけが朔夜を支配する。他者からの忘却は、幾度も朔夜が願い続けてきたことだと言うのに。
 朔夜はずっと、願ってきた。朔夜を庇護してくれる優しい人々が、いっそ朔夜のことなどを忘れ去ってくれないかと、神へ懇願するかのように祈り続けた。朔夜のことなど忘れてしまえば、彼らは災厄から、少なくとも朔夜が引き起こす大きな禍からは遠ざかれる。
 もし、彼らから自身のことを忘却できたならば、忘れられることは辛いが、それ以上の安堵感を朔夜は手に入れられただろう。悲しみもするが、そんなこと-自身の悲しみなんか-よりも、重荷が彼らから取り除けたことに喜びを感じただろう。
 なのに、だと言うのに目の前の少年に、同じことをされると考えるだけで、何故こんなに悲しいのか。底のない純粋な悲しみと痛みだけしか感じないのか。どうしても、安堵感や喜びがまったく感じられない。
 朔夜は縋るように、少年の墨染め色の衣の端を握りしめた。誰かに縋る、ということを普段しない朔夜はそんなことをする自分に戸惑い、混乱もするが、それはあっという間に悲しみに飲み込まれ、消え去る。
 少年はそっと朔夜の固く握った手に触れた。引き剥がされるとか思い一瞬震えるが、朔夜の予想とは違い、強く握りすぎ冷えた手を温めるように重ねられるだけだった。
[……お前は…そう言えば守人だったな]
(それは、あな、たもで、しょう?)
[お前には俺以外にも、もう“本当の意味”で大切に思える人間が一杯いるだろう?]
(もう、私、は……いらな、い、の?)
[……最初に、お前に触れた人間だからってだけで、お前が俺の為に全てを捨てる必要も、投げ出す必要もないんだぞ?]
「……っ?!」
 朔夜ははっ、と大きく目を瞠り少年を仰ぎ見た。少年は、ただ静かに朔夜を見つめる。穏やか、とも言えて、決してそうは言えない、奇妙な静けさのある感情は、どこか諦観ささえ感じられた。
 その諦めに似た感情に悲しい、と感じはしなかった。そのような感情が入る余地が、朔夜の心には今はなかったのだ。何故、忘れていたのだろう。その感情で一杯だった。
(この人は……私のっ)
 朔夜は里が引き合わせた己の“主”を、心のどこかで絶対と思えなかったことに悩んだ時期があった。絶対で、唯一で、己の全て。そうであるはずだが、朔夜は“主”を主として認めていたのに、そうは思えず、自身は欠陥のある守人ではないか、と考えたのだ。
 だが、それは欠陥があったからではない。ただ、“主”より先に出会った目の前の少年に、すでに朔夜は無意識に全てを捧げていたのだ。既に全てを捧げているのだから、“主”に捧げるものを朔夜は持ってい。だから、捧げられない。当たり前のことだったのだ。
「あ……な、たは………」
[守人の性分、ってのは……残酷だよな] 
「え…?」
[全てを捧げ、尽くす。そこにある愛情や思慕は、本物なのか?]
「………」
 何が言いたいのであろう。
 朔夜は首をかしげそうになる。
 少年の言葉に、本物だと言いたい。本物になるかもしれない、と言いその悲しげな言葉を否定したい。だが、あまりにも深い意味と感情が込められており、かけたい言葉が喉の奥で消えていく。
[悪いな……]
「……っ?!」
 するりとずっと頭を撫でていた手が朔夜の視界を覆った。白い指先しか見えず困惑する朔夜に少年は泣きたくなる残酷な言葉を吐く。
[目覚めたら……お前は、『いつものお前』だ]
 それは、朔夜の願いなど無視をするという宣告だ。
「やっ………嫌だっ!」
 少年の手を剥がし、身じろぎし、少年を見つめた。まっすぐに見つめる朔夜の瞳に、少年は顔を一瞬歪める。だが、それも本当に一瞬にすぎなかった。すぐに困ったような、だがどこか慈愛に満ちた笑顔にとって変わられる。
[………おやすみ、はおかしいな。早く目覚めてこい]
 最終宣告だった。その言葉とともに朔夜の視界はぼやけていく。膝の感覚がなくなり、背骨が砕けてかのように上半身が揺れ、首が赤ん坊のように座らない。目の前が暗くなり、意識が混濁してくる。
 朔夜は悲しみに埋め尽くされ、今なら悲しみから生まれる息苦しさで窒息死できそうだ、と思う。だが、そんな中でも唯一の救いがあった。それだけが折れそうな心を支え、辛うじて砕けそうな心を繋いでいた。
 それは、朔夜の思い違いなのかもしれない。だが、ぼんやりとした意識のなかで感じた朔夜を包み込むような他者の体温は、きっと幻ではない。
 朔夜はそう信じたかった。





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最終更新日  2006年11月15日 21時48分46秒
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