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「風薫る五月」雨上がりなんと美しい緑の光。「幸福は幸福を問題にしない時を云う」芥川龍之介私の心には<緑が美しいしか存在していない瞬間>人が言うところの「幸福」はこの瞬間は、どこにも無いのである。人との触れ合いでなく自然の色や香りや時の移ろいを感じる時は脳内はとても気持ちが良いのですにほんブログ村にほんブログ村
2024.05.02
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“I never think of the future. It comes soon enough.”「私は未来については考えません。未来はすぐにやって来ますから」<アルバート.アインシュタイン>そうですね。一年先も十年先も未来ですが明日も1時間先も1秒先も未来ですから考えている暇はありませんね。下のイラストはSDGs未来都市モデルだそうです。そしてこれは「東京湾に浮かぶバーチャル未来都市」です。(上、2枚のイラストはネットからお借りしました)横穴式住居、竪穴式住居寝殿造り、城郭建築神社仏閣等々時代によって建造物が変化して私たちもそれに合わせて生活を営んでいる。正直、未来の都市の景観を「わぁ〜美しい」とは思わない過去に生きている自分がいる。にほんブログ村
2024.03.06
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壁というのは、できる人にしかやってこない。超えられる可能性がある人にしかやってこない。だから、壁がある時はチャンスだと思っている。<イチロー>乗り越えられる壁見て圧倒される壁そこあるだけで安心する壁壁もいろいろある。にほんブログ村
2024.02.15
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危機は常に無関心と隣り合わせにある‥と、私は思った。悲しみが来るときは単騎ではやってこないかならず軍団で押し寄せる(シェークスピア)にほんブログ村
2024.01.07
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<アインシュタインの言葉>学校で学んだことを一切忘れてしまった時に、なお残っているもの、それこそ教育だアインシュタインの言う通りかも知れない。学校で教師が教えるものだけを学んでくるわけではないもの。勉強時間でさえ、その科目以外のことを考えていることが多かったような気もする。何かを学ぶのに、自分自身で経験する以上に良い方法はない私は30年近く桜の追っかけをしている。ただ、全国の「一度は観ておきたい桜」を観に行っているだけだが桜に関しては誰かに教わるとか何かを読むとかもあったが、とにかくその「桜」をよく観るだけで「桜」に関しての自然科学、その地域の風土、慣習など多くを知ることが出来た。どんな条件であれ、私には確信がある。神は絶対にサイコロを振らないアインシュタインにとっての「神」がなんであったかは知らないがサイコロを振ってしまうのは自分であると私は思っている。人生は長く生きていると思わぬことに遭遇する。昨日も車のラジオのスイッチを押すと突然、懐かしく愛しい人の歌声が聞こえて来た。ラジオのスイッチを押したのは神では無く私なのだ。12月も残り半分。静かに雨の降る金曜日です。にほんブログ村
2023.12.15
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「槿花一日自為榮」この猛暑続きの中でもたった一日の命でも槿(むくげ)の花は、次から次へと咲いています。<槿花は一日なるも自ずから榮と為す>「槿花一日の栄」の意味を調べると(1)栄華の儚い喩え。(2)権力や財力を握り栄えるのは一瞬であっという間という事。(3)ムクゲの花は朝開いても夕方には萎むので、転じて、人の華やかな時も短くて儚いもの。(4)「一炊の夢」「槿花一朝の夢」「槿花一朝」も同義。”槿花”は「ムクゲの花」「アサガオの花」、”一日の栄”は「一日だけの栄華」「一日で終わる栄華」で、「人生は儚い」という喩えが「槿花一日の栄」です。”槿花”は中国ではムクゲですが日本ではアサガオの事で、夏から秋にかけて朝になると花を開かせるが夕方には萎んでしまいます。そこから、どんなに栄華を極めても所詮は人の一生は短く永遠には続かないのです。人生とは失敗や挫折をする人の方が圧倒的に多く仮に成功をしても継続するのはとても難しいです。そんな事から「槿花一日の栄」は人々の心に訴える諺となっていて、現在は様々な場面でのややネガティブな表現として使われています。と、辞書には細かく書いてありますが私は、槿も朝顔もこんなふうには思っていません。この花の一輪は一日花ですが咲いている期間が夏から秋までと長く特に、夏の茶会には欠かせない花の一つです。花期が長いのでいつ、背高く伸びた枝をいつ切ろうかと悩むくらいに花をずっと咲き続けさせる槿です。人生はいろいろですが花は、いずれの花も美しくそれぞれの花が人の心にいくつもの想い出を残してくれるかけがえのない存在です。にほんブログ村にほんブログ村
2023.08.17
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この地上で過ごせる時間には限りがあります。本当に大事なことを本当に一生懸命できる機会は、二つか三つくらいしかないのです。「スティーブ・ジョブズ」だんだん地上で過ごせる時間は短くなって来ていると私は感じています。あと、何回、桜の花を愛でる事が出来るだろう‥あと、何度、美しい山燃える秋を迎えられるだろう‥ふと、そんなことを思う猛暑日の夏の午後です。にほんブログ村
2023.07.12
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「朝聞道夕死可矣 論語」「朝に道を聞けば夕に死すとも可なり」孔子は死ぬことを気にするよりも、現実の生きているうちに真理を学ぶことが重要であると説いている。今までにおいての過ちを改めたいと思うか?いや‥もう遅いだろうか?こうした思いの答えの一つにもなる孔子の言葉である。この言葉は英訳もされている。英語ではこうなるそうだ。If I could know how to realize my ideal in the morning, I would accept my death in the evening gladly.(もし朝の内に理想を実現する正しい道を知る事が出来たなら、その日の晩の内に死んでも構わない。)悟ることは簡単に出来るものでは無い。しかし、自分の中にある真意に背くことなく反省しつつ生きてゆきたいものである。にほんブログ村
2023.05.15
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「雪竹」雪がしんしんと降ってきて、竹は静かにその雪を受け止めている。時折、風でその雪がしずり落ちる。正月が過ぎ、節分立春があり、そうしたハレの場に相応しい植栽として、寒さのなかにあって輝く松や竹の緑が、美しくまた尊い感じもする。雪竹は、冬の寒さにも負けぬ葉の滑らかさ‥身体の中が浄化されるような雪に隠れた緑の葉の香り‥風雪にも倒れぬ、生命の強さ‥そんなことを節分を前にして感じる。「梅花和雪香」雪に竹から雪に梅へと毎日、僅かばかりでも一輪ほどの暖かさを迎え入れている。一気に根雪は溶けぬもの。根雪の下に埋まっているものを吟味して佳きものだけを掘り起こす時期がやって来る。にほんブログ村にほんブログ村
2023.02.02
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<人の世に道は一つということはない。道は百も千も万もある。>と、坂本龍馬は云っています。道は一つでない。つまりは正解も一つではない。いったい、坂本さんを暗殺したのは誰なのでしょう慶応三年(1867年)11月15日京都の近江屋で中岡慎太郎と共に刺客に襲撃され暗殺されてしまった。謎は謎を呼びそんなに昔のことでもないのに薩摩か幕府かどちらが手を出したのか今だに、その真相はハッキリしていない。誰か調べてみませんかにほんブログ村
2022.11.13
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荀子曰く「不積蹞歩、無以至千里」<蹞歩(きほ)積まざれば以って千里に至る無し>「蹞歩」 とは、右足なり左足なりを一歩前へ進めること。千里の道もそういう一歩を積み重ねていくことによって到達するものだという。目に見えないところでも努力を積み重ね、仕事や己がやるべきことに手を抜かないこと。私も一歩とはまでいかなくても半歩ぐらいは前に進みたいと思っています。にほんブログ村
2022.09.14
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ソクラテスは、こう言った。「生きるために食べよ、食べるために生きるな」アインシュタインは、こう言った。「どんな条件であれ、私には確信がある。神は絶対にサイコロを振らない。」プラトンは、こう言った。「優しくあれ。人は誰しもみな、戦っているのだから」ダーウィンは、こう言った。「誰が正しいかではなく何が正しいかが重要だ。」ガリレオ.ガリレイは、こう言った。「どうして君は他人の報告を信じるばかりで、自分の眼で観察したり見たりしなかったのか。」にほんブログ村
2022.05.30
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学びて然る後に足らざるを知り教えて然る後に苦しみを知る学然後知不足 教然後知困「礼記」学ぶことによって自分の不足しているものがよく分かってくる。だからこそ、学ぶことには終わりがないと言える。しかし人から学ぶよりも人に教える方がその二倍も三倍もの労力を必要とする。他者に間違ったことは教えられないので多くの時間を要し準備もし、勉強も掘り下げてゆくがそれでも十分に足りているとは思えない。たえず自分の未熟さを思い知らされることとなる。人から教えてもらっている方が随分と気が楽なような‥にほんブログ村
2022.01.19
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『有漏路より無漏路へ帰る一休み雨ふらばふれ 風ふかば吹け』「一休宗純」あのとんちの一休さんの名前のきっかけとも云われている言葉です。人生というものは、この世からあの世へと向かうほんの一休みの時間。雨が降ろうが風が吹こうが、気にしない!気にしない!と云う意味ですが私たちは些細なことで傷つき汚され落ち込み疑心暗鬼に陥り右往左往しながら理不尽で不条理な短いようで長い人生を送っています。一歩踏み出す勇気はなかなか実行に移せない。それでも、それも束の間の時間。あっという間の一年。あっという間の十年。あっという間の人生なのかも知れません。まっ、気にしていても時は無情にも優しく過ぎてしまうのです。にほんブログ村
2021.11.25
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有朋自遠方來、不亦樂乎。人不知而不慍、不亦君子乎。親愛なる人が台風14号の最中ではあるが遠方より、語らいに来てくれる。しばらくの間会えなかった人に再会出来ることは本当に嬉しいことです。昨日のうちに美味しいお酒も用意しておきました。今月は「中秋の名月」の長月。今宵は月は見えそうに無いが少し早めの心の月見酒で一献、傾けましょう。にほんブログ村
2021.09.18
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孤独というものは時として最上の交際でもあるししばしの別離は再会をいっそう快いものにする。「ミルトン 失楽園」より九州、近畿、中部地方など大雨が降っているところの方には申し訳ないほどのお天気の良さです。しかし暑くて太陽ギラギラで風が強くて外へ出る気は全くしません。にほんブログ村
2021.08.19
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無知であることは恥ずかしくない。無知に甘えることこそが恥ずかしいのだ。これは、落語家・桂文枝さん(5代目)の言葉であるが「東大王」の伊沢拓司の座右の銘として使われている。その通りで知らないことは世の中にたくさんある。全く知らないことには答えようがない。知ってしまったらどうそれに対応するかである。にほんブログ村
2021.07.22
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「戦争は、外交の失敗以外の何物でもない。」ピーター・ドラッカーなるほど、そうであろう‥紀元前1300年も前から人類は戦争をしている。「我々に武器を執らしめるものは、いつも敵に対する恐怖である。しかもしばしば実在しない架空の敵に対する恐怖である。」芥川龍之介架空の敵‥そうかも知れない。「たいていの軍事行動は、平和を目的としています。しかし現実の戦争は、まるで生きた人間を燃料とした火事のようです。」ダライ・ラマ平和のための核‥と、言っている核保有国。「戦争は決して地震や津波のような天変地異ではない。何の音沙汰もなく突然やってくるものではない。」石川啄木天変地異は、いきなり‥だから一気に恐怖心でいっぱいになる。「平和は力では保たれない。平和はただ分かりあうことで、達成できるのだ。」アインシュタイン互いに分かり合えない。言葉は、かなり通じるようになったのに‥人は、どこかが抜けているようだ。真っ白な百合の花に翳りが見える日本の八月。お盆で先祖を思い出したり‥戦争の慰霊祭が行われたり‥幽霊、霊魂、妖怪、お化け、墓参、鎮魂などこの世とあの世が近くなる。2020年の夏。本当に「特別な夏」です。にほんブログ村にほんブログ村
2020.08.09
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世の中に片付くなんてものは殆んどありゃしない。一遍起った事は何時までも続くのさ。ただ色々な形に変わるから他人にも自分にも解らなくなるだけの事さ。夏目漱石「草枕」より人類は紀元前からずっとウィルスと一緒に生きて来ている。これからもウィルスはヒトよりも長く長く生き続けるだろう。にほんブログ村にほんブログ村
2020.05.02
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雨は金持ちの上にも降れば貧乏人の上にも降る。善人の上にも降れば悪人の上にも降る。とは言え、雨は決して公平とは言えぬ。もともとが不公平な世の中の上に降るからだ。「老舎 駱駝祥子」よりにほんブログ村にほんブログ村
2020.03.02
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当たり前の存在と思っているが実は、本当は何も知らない。情報社会における私たちのメディア経験は生きた流れの中に在る。コミュニケーションを媒にしている多種多様なメディアに私たちは翻弄されている。だから今こそ、こうした言葉を思い出すのが良い方向へと導いてくれるような気がした。好んで他人の好悪長短を言うべからず「恵心僧都」他を咎むるなかれ他を咎めんとする 心を咎めよ「清沢満之」鳥さえも 己が寝ぐらの木を選ぶ道の正しき 人につかえよ「北条時頼」情報過多は何も情報が得られないより厄介である。にほんブログ村にほんブログ村
2020.02.09
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「平凡な生き方」並外れたやり口、策略、他人には真似のできない行動や技能などこれらは、いずれもこの世を生きていく上で「わざわい」のタネとなる。平凡な人格と平凡な行動に徹して生きることこそが平穏無事な生活を送る秘訣なのである。「陰謀怪習、異行奇能、倶是渉世的禍胎。只一個庸徳庸行、便可以完混沌而召和平。」と、「菜根譚」では言っている。「平凡」なかなか難しいことです。今年はオリンピックが東京で開催される。世界中の選手たちは「平凡」ではいられない。開催都市である東京も「平凡」ではいられない。昭和から平成になった時、「平成」の文字を「たいらになる」と私は読んだが「たいらかに生きて成る」ということは本当に難しい。この菜根譚に出てくる「老荘思想」の中に「渾沌」が登場する。「渾沌」の対義語は「秩序」である。世界には秩序があるのだろうか?平凡な暮らしがあるのだろうか?おおよそたいらな「平凡」が世界の中心にあれば善いと思う。にほんブログ村にほんブログ村
2020.01.12
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パスカル曰くささいなことが私たちの慰めになるのはささいなことが私たちの苦しみになるからである。飛べるか飛べないか角度を変えてみようか?辛いことの重さが伸し掛かり今日は飛べない。明日の風を待ってみよう‥にほんブログ村にほんブログ村
2019.11.27
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年取った人々は異論が多すぎ相談が長すぎ冒険が少なすぎ後悔が早すぎ滅多に仕事をとことんまで遣り遂げずいいかげんな成功で満足する。「ベーコン随想集より」にほんブログ村にほんブログ村
2019.09.26
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温故知新未来を予測するためには過去を知り今を捉える必要がある。濱田隆士博士曰く歴史を知る常として大過去ほど史料が得られなくなっている‥という原則とは対照的に未来はほとんど無限大なる情報に支えられている。つまり、その予測にも高い確率が期待される筈である。しかしながら現在の情報が利用できる未来はちょうど現在を挟んでの近過去とよく似て高い精度で語れはするものの、遠い未来ほどそれを裏付ける現在データが無くなってしまうのである。不思議な歴史の特性と言える。濱田博士は、地球科学者であり、古生物学、地球環境学の先生であり、私の恩師である。自然界の美しさ。雑然、混沌の中から整然、秩序が生まれるかと見るや否や再び、なんらかの不安定要因が生じて再編成へ向かって動き出す‥自然は秩序から無秩序へ進みまた、再編成されて秩序が生まれる。今日は、先生の理論書を読み返して騒つく心が落ち着きました。有り難い時が流れました。にほんブログ村にほんブログ村
2019.05.10
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「これが最悪」などと言える間はまだ実際のどん底なのではない。と、シェイクスピアは「リア王」の中で言っている。「問題は神経ですよ、神経ですよ、あなたはこいつを忘れていらっしゃる!現今、この神経というやつはみな、栄養不良で、おまけに苛立ちやすくなっているんですからな!」と、ドストエフスキーは「罪と罰」の中で言っている。私はこの両方を今、抱えている。最悪であり、神経は栄養不良である。にほんブログ村にほんブログ村
2018.10.05
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「愛は憎しみの始め、徳は怨みも本なり」「管子」 (愛者憎之始也 徳者怨之本也)親子の愛であれ、夫婦の愛であれ、恋人同士、友人同士の愛であれ最初は純粋な愛から出発している。しかし、だんだん、互いに期待をしたり、思惑が絡んでくるとせっかくの愛情も憎しみを帯びてくる。徳にしても本来は徳は自分のためである。しかし、どうもそのあたりを錯覚してしまうと怨みの本になりかねないものである。「管子」は、この言葉を挙げたあとで、一句付け加えている。「ただ賢者は然らず」と‥出来ることならそうありたいものである。にほんブログ村にほんブログ村
2017.09.23
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ニーチェ「善悪の彼岸」より狂気は個人にあっては稀有なことである。しかし、集団、党派、民族、時代にあっては通例である。あの日、いつものように静かに海に太陽は沈んでいったのであろうか‥翌日、海は何事もなかったように穏やかに目覚めたのであろうか‥あれから、72年の歳月が流れた。8月6日に広島に原爆が投下され、そして、8月9日には長崎にも原爆が投下された。怒りや憎しみは、死ぬまで年老いることはないと言われる。その語り部達もかなりの高齢になってしまった。時とは、ある意味、残酷なものでもあり、ある意味、ぼやかして解決に導くこともある。安らかに‥そう祈るしかできない‥合掌にほんブログ村にほんブログ村
2017.08.06
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パスカル曰く「人間にとって苦悩に負けることは恥でない。 快楽に負けることが恥なのだ。」「心には理性ではわからない理屈がある。」「人間は、自然のうちでもっとも脆い葦でしかない。 しかし人間は考える葦である。」ヒト以外の動植物はヒトのそれよりも卓越した能力がそれぞれに受け継がれて成長と発展を遂げている。ヒトの身体能力は、あまり出来が良いとは言えない。しかし、大脳は他の生物よりも身体の割にはずば抜けて大きく、重い。つまり、パスカルが言うようにヒトは「思考」することでしかその数を増やすことができない。結果、弛まぬ工夫の成果が21世紀における異常増殖である。「愛には年齢がない。それは常に生まれ続けるからである。」愛とは誠に難しい感情であるがバラ色でないことは確かなような気がする。「ささいなことが私たちの慰めになるのは、 ささいなことが私たちの苦しみになるからである。」「進歩によって完成することは、すべて進歩によって滅びる。」「世の中にはたくさんよい格言がある。人がそれらの適用を誤っているだけだ。」適用を間違えずに使えるものなら使って行きたい名言は山のようにある。にほんブログ村にほんブログ村
2017.06.18
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「落花流水の情」相思相愛の情のたとえである。花は、水に流されたいと思い水は、落花をその身に浮かべて一緒に流れて行きたい。花の落ちる想いを受け止めてくれる川の流れを見つけたい。にほんブログ村にほんブログ村
2017.02.07
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モンテニューは言った。「記憶は我々の選ぶものを見せてはくれず 自分の好きなものを見せてくれる」 『エセー』より私もそうだ。自分の好きな記憶ばかりではなく忘れようと思っても忘れられない嫌な記憶もある。ベローの童話集の中にはこんなことが書かれている。「ところで天は、 人間どもを満足させることに 時として倦み疲れることがあり 晴天と雨を混えるように 幸福の中に幾らかの不幸を混ぜるのが常である。」納得させられてしまうような先人たちの言葉である。生まれてから今までず〜〜と幸福感に包まれている人などいない。私は、花を見ている時、花と戯れている時、花の世話をしている時、花と一緒にいる時だけは一切を忘れ「極楽」を感じることができる。多分、それは、「幸せ」なのだろう。にほんブログ村にほんブログ村
2016.11.21
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福沢諭吉は、まことに興味深いことを述べている。「信の世界に偽詐多く 疑の世界に真理多し。」「自由は不自由の際に生ずというも可なり。」何が信ずべきことなのか‥何を疑っているのか‥人間の自由は、不自由な中にしか存在し得ないようにも思う。たまに、こんなことを考えてみるのも一興である。しかし、今日は朝から暑い。にほんブログ村にほんブログ村
2016.06.27
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「春暁」 孟浩然春眠不覚暁 処処聞啼鳥 夜来風雨声 花落知多少 春眠(しゅんみん) 暁(あかつき)を覚えず(おぼえず) 処処啼鳥(しょしょていちょう)を聞く 夜来風雨(やらいふうう)の声(こえ) 花(はな)落つること(おつること)知る(しる)多少(たしょう)春の雨が夕べから降っている。風も時折、強く吹いている。朝、まどろみながらの少しの時間が春の布団の至福に思える。庭の梅は散ってしまっただろうか?チューリップの芽は大きく伸びただろうか?背の低い黄色の水仙は花開くのだろうか?そんなことをカーテン越しに思う春の雨の朝である。にほんブログ村にほんブログ村
2016.03.07
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「遠慮」遠くを慮ること。遠い将来のことを思慮に入れて、考えをめぐらすこと。身内や親しい関係になると遠慮会釈無しで会話がポンポンと弾む‥それは、それである意味、良い事なのかも知れない。しかし、血が繋がっていてもいなくても何んでも自分の思い通りの言葉を口にしてしまうのは些か、問題がある。少しは「遠慮」を考えて欲しいものである。孔子曰く<人 遠きを慮なければ 必ず近き憂いあり>にほんブログ村にほんブログ村
2015.11.13
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「能力と誠実」能力が無くても誠実な人能力が有るのに不実な人能力もあり誠実でもあるのに世間に受け入れられない人。能力もなく不実でも世間に受け入れられる人。世の中は、どちらかと言えば不実の方を好むようだ。能力も才能も有るに越した事はない。しかし、誠実さと能力が比例する事は極稀れである。秀でた才能や能力は、疎まれ蔑まされる事の方が多い。誠実と言う衣服を纏った不実な人が世の中には履いて捨てるほどいる。何故か?それは、能力も無く誠実さに欠けている方が生きてゆくのに何かと都合が良いからである。にほんブログ村にほんブログ村
2015.06.22
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二兎追うものは一兎をも得ず世界に向かってそう言いたい。上手くいけば一兎は得るかも知れない。しかし、取り残されたもう一兎の命はどうなるのだろうか‥それとも、二兎とも追手を逃れて生きられるのだろうか‥難しい‥難しい駆け引きは深く深く考えなくてはならない。誰も彼もささやかな幸せを求めているだけなのだから。にほんブログ村にほんブログ村
2015.01.28
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何億という人間が生きているが顔はそれよりもたくさんにある。だれもがいくつもの顔を持っているからである。<リルケ マルテの手記より>にほんブログ村にほんブログ村
2014.08.29
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問題なのはわれわれが無知であることではなく間違った知識を持っているということなのである。<アーテマス.ウォード/[米国独立戦争時の将軍]>無知ほど恐いものはないが間違った知識を正しいと自分に都合よく解釈しているのは確かに「問題」である。にほんブログ村にほんブログ村
2014.05.09
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「牽強付会」オリンピックで真っすぐに頑張っている人もいれば理屈に合わない事を自分に都合よく無理矢理こじつける人もいる。大雪が立て続けに降っているせいだろうか?この最大の春の嵐でさえ、理論があると言うのに…にほんブログ村にほんブログ村
2014.02.14
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持論「2つの自己」常に他人とは違う自己。他人と共有している自己。大雑把にわけて誰しも2つの自己があり、それら2つがさらに細分化されて一人の人間というものが形成されていると私は思う。どの自己が表に出るかは相手次第であるし、何かのきっかけで同じ人の前でも異なる自己が出ることもありうる。ただ、異なる自己でも自己であることに変わりはない。にほんブログ村にほんブログ村
2014.01.31
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<円熟への階段>若いということは「未熟」を意味し老いるという事は「円熟」を意味する。人は誰しも自己の内に変わる事の無い一貫した同一の自己が住んでいる。今までの人生の来し方行く末を考える一貫した自分自身があればこそその自分の若い頃も偲ばれ、年老いてやがて死を迎えるであろう事実も覚悟することが受け止められる。来週、「還暦」の誕生日を控えて想う事は私もやっと「円熟」の階段を上ろうとしている。にほんブログ村にほんブログ村
2013.12.13
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すでにエピクロスが言ったように「死とは経験不可能なもの」「死とは不可知である」自分にとってやがて、不可知の終局が襲って来る。偶然とも思われる非力で無根拠の生の存在を精一杯に生きているのが人間的自己の実情であると言わねばなるまい。にほんブログ村にほんブログ村
2013.10.31
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「察しと思い遣りが日本人らしさである」近頃は対する相手を察することも思い遣ることも減ってきたように感じる。にほんブログ村にほんブログ村
2013.08.28
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「人生のメッセージ」世間で言うところの「癒し」とは心が血を流している時にはその傷口のかさぶた程度にもならないものである。にほんブログ村にほんブログ村
2013.07.31
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「人生のメッセージ」愛情というものは義理の鎖でもっている。ところで人間の根性は悪であるからそんなものは自分の都合で断ち切ってしまう。 マキャヴェッリ(君主論)なるほど‥ね。都合で断ち切られたことがあるのでよく解る。愛とは他人の運命を自己の興味として、これを畏れ、これを祝し、これを守る心持を言うのである。愛を行動に移すとき、ひたすら謝罪しながらそれを行わないといけない。なぜなら愛ほど人を傷つけるものはないのだから。 倉田百三なるほど‥ね。傷ついた他人がいることを知らずにいると云うことは愛も畏れも知らないと云うことか‥にほんブログ村にほんブログ村
2013.06.09
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ユリウスはこう言った。「彼女を見つめている時、私は春を呼吸した」にほんブログ村にほんブログ村
2013.04.07
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きわめて自卑的でありきわめて謙遜であると見られる人々は大抵の場合きわめて名誉欲が強くきわめて妬み深いものである。 スピノザ「エチカ」よりにほんブログ村
2012.11.22
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今日はそのことをなさんと思へど、あらぬ急ぎまづ出で来て紛れて暮らし、待つ人は障りありて頼めぬ人は来り。 <徒然草 第189段>そんなこんなで今日は雨が降ってしまった。世の中、計画通りにはいかないものである。にほんブログ村にほんブログ村
2012.11.11
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女は大きな危害は許すが、 小さい侮辱は決して忘れない。 byT・ハリバートンにほんブログ村にほんブログ村
2012.10.16
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老後は、わかき時より月日のはやき事、十ばいなれば一日を十日とし、十日を百日とし、一ヶ月を一年とし、喜楽して、あだに日をくらすべからず。◇貝原益軒(養生訓 和俗童子訓より)にほんブログ村にほんブログ村
2012.10.14
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