PR
カレンダー
キーワードサーチ
コメント新着
大井沢こけしの呪力 -
志田菊宏 24
㎝と志田菊麻呂 14.5
㎝
志田五郎八(善見 1884-1964
)に始まる大井沢こけしは、三男の志田榮( 1921-1997
)、五郎八の弟子の志田菊麻呂( 1892-1984
)、その六男、志田八郎( 1936-
)‐その長男、志田菊宏( 1959-
) -
その長女、志田楓( 1996-
)と継承されている。(楓はまだ伝統こけしを発表していない)志田菊麻呂の母は五郎八の義弟の妹( KokeshiWiki
)という。(義弟の妹というのも変な表現で義弟の妹なら、単に義妹でいいのではないかと思うのだが。)この他、五郎八の甥の志田清次郎( 1938-
)もこけしを作っている。
大井沢こけしは、一種独特の面描で胴模様も鳴子の整然とした菊ではなく、荒れ地の菊のようである。それを一種の呪力と呼んでもいいだろう。
その大井沢こけしは、いったい何系だろうか。 KokeshiWiki は、作品によって鳴子系、蔵王高湯系としている。ところで現在活躍されている志田菊宏工人本人は、美轆展でも西川村自然と匠の伝承館でも「 山形系 」としている。しかし山形作並系の要素はなく、単に山形県の「山形系」なのだろう。事実、志田五郎八系のこけしだけでなく、独立系とされる山形県の岡村豊作 - 岡村豊太郎型も作っている。
もともと系統で悩ましいことは多い。例えば佐藤文吉にしても遠刈田系なのか肘折系なのか諸説あるとしか言いようがない。佐藤一夫(南部)は鳴子系と南部系を使い分けている。今晃も津軽系と鳴子系(小松五平型)がある。なにも無理に何々系とあてはめなくてもいいのではないかとも思う。
志田五郎八に始まる大井沢のこけしは明確な系統に属していないのが本当のところで、あえていえば大井沢系ということでいいように思える。すべて志田姓なので志田系でもいいだろう。ただ大井沢系志田系と言えるほど専業の工人は多くはなく伝承の作品の数も多くない。では雑系、独立系でもするのだろうか。小生は「大井沢こけし」の純朴さのなかにある呪力に魅かれている。
志田菊宏工人は、こけしよりも木地人形の「木のこなこけし」「帽子なこけし」などなどに力を入れているように思える。それはそれでいいとして、志田伝来の呪力にも目覚めて欲しいと思っている。
以上は最近入手した志田菊宏 24 ㎝(平成10年)を見ての発想。手持ちの志田菊麻呂 14.5 ㎝(昭和 55年 )もなかなかの呪力であった。
志田菊宏が宮司を務める大井沢湯殿山神社とは 旧大日寺
である。
大井沢とは山形県西村山郡西山町字大井沢で、寒河江川の上流、朝日連峰の山懐で豪雪地帯である。
こうした風土も大井沢こけしの呪力の源泉となっているに違いない。
「こけし手帖」27号、29号(1959年9月/1960年2月)小野洸<新しい発掘‐大井沢のこけし><続大井沢こけし>で志田五郎八の発見を取り上げて、大井沢の木地業の始まりについても書いている。さらに手紙で注文したところまったく意に反したものが送られてきたので、再度大井沢を訪問し、眼前で五郎八に挽いてもらい描彩までしてもらっている。(2019/9/21追加)
大日寺は湯殿山別当四ヶ寺の 1 つとして、江戸時代中期以降に最も繁栄し、貞享年中( 1684 )勅命により、国家鎮護玉体安穏の祈願寺として免許される等、また、江戸の誕生院よりは二百八十匁の大鐘が奉納される等、日本七大霊場の 1 つに数えられるまでに至った。
大井沢の里は、白衣の行者によって埋め尽くされ「湯殿まで笠の波打つ大井沢」と歌にまで詠まれたのは、こ の時代である。御朱印は四石五斗、境内三丁四方このうち、本堂、山門、惣天門、金蔵院、妙智院、蓮華院、福蔵、地蔵堂、山王堂、五智堂、大師堂、鐘 楼、庫裏、台所、門前家来六軒七坊があり、外に宿坊は二十六坊、明治初期までの繁栄が推察されます。
明治元年( 1868 )神仏分離令の公布と共に諸仏は縁ある寺院に流され、明治7年( 1875 )遂に寺号を返上し、翌明治8年( 1876 )摂社湯殿山神社と改称された。
明治 36
年( 1904
) 12
月、火災により山門鐘楼を残し一切を焼失し現在に至っている。
にほんブログ村
にほんブログ村
西田峯吉のおもちゃ(玩具)論 2019年11月21日
「きくわらべ」第3号の問題提起-妖しさと… 2019年10月07日
佐藤守正の2本に感じるもの 2019年10月06日