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古作!佐藤栄治22㎝が出現、ただいま101.5万円!ヤフオクで今日終了の佐藤栄治(飯坂)22㎝が大変なことになっている。画像のように若干の傷はあるものの描彩がはっきりとしているもの。これは欲しいを思っていたが1000円スタートでどんどん競り上がって現在100万円をこえ1,015,000円(税込み)となってしまった。こうなると小生の資力では指をくわえて見ているしかないが、せめて画像は資料としては残して置きたいもの。なお出品者は佐藤喜一、栄治型としているが、喜一ではなく栄治だろう。本日(3月22日)21時42分終了だが、普通は終了の直前に競り上がるもの。とすればこれで収まるはずもない。どうなるか、ただいまは見守っているしかないようだ。過去の高額落札結果のベスト5は以下の通り。今回の栄治はこれに迫るのではないだろうか。(過去の高額落札結果2010-2020年)① 奥山運七32cm 3,001,000円、20014年10月3日② 奥山運七25cm2,223,222円、2015年7月31日③ 盛秀太郎15㎝2,202,000円、2014年9月19日④ 佐久間浅之助17.5cm、2,001,000円2014年10月4日⑤ 大沼岩太郎(推定)18㎝1,901,000円2017年12月16日★結果として1,123,100円(税込み)での決着となった。最終的には2名の競り合いでそれ以外のの参戦者がいなかったので、この金額となった。小生は途中で諦めて4番手だった。 にほんブログ村にほんブログ村
2020年03月22日
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保存のいい大沼竹雄9㎝を入手/ヤフオク新型コロナウイルスでたいへんな世の中となった。出席予定だった東京こけし友の会の3月例会も中止になってしまった。 パソコンではWindows7が終了となったためやむなくWindows10に切替えた。使い勝手が7と異なっているため、苦戦中。そんなことでブログのアップもすっかり中断してしまった。 ▼ヤフオク3月12日、13日終了で、戦前の古作が多数出品された。 どれにも署名作者名はなく1939年(昭和14年)以前のものと思われた。その時代にしては驚くほど保存状態が良く、まったく飾らないで暗所に保管されていたものと思われる。その一部には高島屋 30銭などのラベルもあった。 高島屋といえば、「万国お人形博覧会」を1934年(昭和9年)1月11日より2月11まで開催している(『こけし辞典』)。東京での初めてのデパートでの展示即売であった。おそらくここで購入されたものであろう。他の出品も一部を除いて同時期のものと思われた。 どれも欲しいものばかりであったが、欲しいものにはライバルが多く、どこまで競っても落札することができなかった。 最後には目をつぶって、鳴子の1点のみ競り上げてなんとか落札することができた。 それは推定大沼竹雄9㎝で小寸ながら味わいのあるものだった。頭部はラッキョウ型で胴模様は旭菊と正面菊の組み合わせ。既述のように消えやすい緑もはっきりと残っている。おぼこい表情はなかなかで、愛蔵の一品となりそうである。制作年は上記の出品状況から昭和9年、10年ごろとみた。 にほんブログ村にほんブログ村
2020年03月15日
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奥瀬陽子が現役トップに!阿部進矢が4位に、春二が物故工人2位に 現役工人では奥瀬陽子が始めて1位になった一方、奥瀬恵介は取引数減少のためまたランク外となった。阿部進矢が大量に出品されたため、一躍4位になった。これは驚き。荒川洋一も初めてのベストテン入り。物故工人では春二が一挙に2位となった。これは戦前の野々垣勇吉-北原直喜旧蔵が出たため。落札価格39600円。大野栄治は取引数が減少したためランク外となった。代わって丑蔵、兵治郎がベストテン入りとなった。画像は佐藤春二16㎝戦前作(野々垣勇吉-北原直喜旧蔵)。 こけし工人ランキング(仮)現役工人3月 2月1月工人名系統平均落札価人気指数1↑24奥瀬陽子津軽8,6604,4632↓11盛美津雄津軽7,2884,2373‐33佐藤英太郎遠刈田6,5554,0604↑--阿部進矢独立系5,5353,0865‐55今晃津軽4,0822,8506‐67石川美祈子津軽4,2472,5057↑810本間直子津軽4,4412,3958↑912荒川洋一土湯3,8442,3829↓76笹森淳一津軽3,5752,35310↑159鈴木明山形作並4,3312,30411↑1316佐藤一夫遠刈田3,9112,17812‐128佐藤良子遠刈田3,9502,07513↓1014高橋通土湯2,8112,04114↑1811高橋正吾鳴子3,3442,02815↓1115阿保六知秀津軽2,9101,85016‐1618小林定雄遠刈田3,1051,73517↓1413高橋順子土湯3,0461,70018↑3330佐藤昭一肘折2,5011,55619↑2332岡崎幾雄蔵王高湯2,7751,52020‐2022阿保正文津軽2,6681,511こけし工人ランキング(仮)物故工人3月 2月1月工人名系統平均落札価人気指数1‐11盛秀太郎津軽10,9965,8332↑1218佐藤春二弥治郎8,3554,3073↑44佐久間俊雄土湯7,5294,1874↓33佐藤文助遠刈田6,5373,5185↓22安保金光津軽6,6753,4786↓55佐藤文吉遠刈田3,9872,7937↑87瀬谷重治土湯4,0142,6878↑1616佐藤丑蔵遠刈田4,6102,6689↑1111高橋兵治郎木地山4,9662,56710↓78高橋忠蔵土湯4,2372,45111↓1014桜井昭二鳴子3,5052,21612↓99奥瀬鉄則津軽3,1752,15713‐1323高橋武蔵鳴子3,8382,03514↑--阿部常吉独立3,4261,99715‐1512井上ゆき子弥治郎2,9711,88116↑1725佐藤正一土湯3,5001,83817↑1815小椋久太郎木地山2,2471,73518↑2231岩本芳蔵土湯2,6281,65619↓1421阿部平四郎木地山2,6161,57520↑2630会田栄治山形作並2,5521,545 にほんブログ村にほんブログ村
2020年03月01日
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平井敏雄『こけしの真実』を読む2 およね伝説 髷付の およねについてはすでに小生の「用語辞典」で書いたが、『こけしの真実』は当事者に問合せをするなどして、新たな発見があった。 (およねこけしの起源については)斉藤良輔氏の《おもちゃと人形》(昭和42年)には「(小林善作は)昭和38年ごろから土地の民謡「沢内三千石お米の出どこ、桝で計らず箕(身)で計る」にちなんでお米こけしというのもつくりだした。かわいらしい髷つきで頰っぺたを紅く塗った村娘‐南部藩の隠田であった沢内領から、年貢米の身代わりに売られていったお米っコに型どったこけしである」と書かれている。この文から、《およねこけし》は昭和38年頃に始めて作られたことが分かる。さらに確認のために小林輝子氏に問い合わせたところ、「まげこけし(註:《およねこけ し》)は昭和38年に湯本温泉旅館組合と言いますホテル対滝閣の主人に《およねこけしを作ってドさいと小林善作おじさんが頼まれ、佐藤丑蔵さんに相談して丑蔵さんがまげ付のこけしを作ったのがはじまりです》との回答をいただいた(私信)平成21年」 昭和38年といえば第2次こけしブームの真っ只中で、「こけし」は作ればすぐに売れる時代であった。また、《西和賀町観光協会公式ブログ》(平成19年)に『後年になってから、およねの献身を称えた《およね地蔵尊》が沢内字新山の旧家•吉右ヱ門(現吉田孝一氏)家に建てられましたが、昭和38年9月23日に太田の浄円寺お境内に遷宮(註:遷座)され祭(祀)られた』と書かれている。竹内勉氏は《日本の伝説42岩手の伝説》(昭和55年)の「およね地蔵と沢内甚句」で、『沢内を訪ねてくる人たちに何か見て帰ってもらうものがないかと考えていたら、役場の人たちの中に《およね地蔵》を建立したらどうかとの話しがでてきた。そこで新しい像を彫るのも妙だからと、新山辺にあった地蔵さまを浄円寺境内に遷座して、ここに《およね地蔵》と命名したとのことである。(略)観光がからんで《およね地蔵》建立までになったようである』と書かれている。このように昭和38年は《およね地蔵尊》が現在の場所に移された年である。これらの行事に合わせて地場産品作りの一環として、地元を救った恩人である「およね」さんの名前を使った《およねこけし》の創作が依頼されたもので、《およねこけし》が天保時代の悲話としての「およね」を偲ぶために作られたものとは思えない。《およねこけし》の製作は現在はこけし工人の小林定雄氏によって継がれており、小林氏は《およねこけし》を『厳しい自然を友として、たくましい生命力と、やさしい心情を育んでいった子供たちとして表したい』との気持ちで挽いているそうである(《NHK新日本紀行第4集-民芸 に生きる—》昭和53年)。私は《およねこけし》を悲話としてではなくて、未来に向かって力強く生きようとする子供達へのエールとして受け止めたい。 として、「口減らしのために子供を殺し、その供養のために「こけし」が作られた』は真っ赤な嘘である。」とする。これまでも書いたようにこの点にはまったく異論はない。古い地蔵を移設(遷座)して<およね地蔵>としたというのも、元の地蔵はおよねとは関係ないので変なことである。ここでは<お米こけし>の創案の経過が明らかになったことが貴重である。 平井氏宛の小林輝子(私信)によると、お米こけしを最初に作ったのは、小林善作(1909-1970)でなく佐藤丑蔵(1889-1986)ということになる。これはこれまで小林善作の創案という定説と異なるが、丑蔵と善作との共同作業(創案)と考えてもいいのだろう。1963年(昭和38年)というと丑蔵75歳(数え歳)である。 KokeshiWikiの小林善作の項に「伝統的なこけしのほかに頭に大きな髷をいだいた「およねこけし」も作った。これは湯田地方の沢内甚句「沢内三千石 お米のでどこ 桝で量らねで箕で量る」で謡われたおよねに因んだこけしだという。歌詞には不作の年に米の代わりに娘のおよねの身(箕)を殿様に差し出したという意味が隠されている。」とあって、丑蔵のことはまったく書かれていない。 佐藤丑蔵が湯田にいたのは大正10年より昭和17年までで、この話のあった昭和38年には遠刈田にいたが、しばしば湯田には来ていたという。そのなかで生れた<お米こけし>であろう。 以上によって小生の用語辞典「およね」の記述も若干変更することとしたい。画像は丑蔵のお米こけし。27㎝。丑蔵のおよねこけしには面描の異なるものがあるが、ここでは素朴なものを選んだ。(ヤフオク2013年3月27日、3090円) にほんブログ村にほんブログ村
2020年02月16日
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平井敏雄『こけしの真実』を読む1 東北の貧困故平井敏雄氏の『「こけし」の真実-「こけし→子消し」真っ赤な嘘』(金港堂出版部)ISBN-4-87398-086-7を読んだ。「子消し」への反論は、前著『こけしを食う虫』より詳細でその学究的な反論は説得力があって感銘した。この点にはまったく異論はない。ただ東北地方は貧しくなかったというために、三内丸山遺跡や平泉の宗教文化を持ち出すのは、贔屓のひきだおしではないだろうか。時代がまったく異なる。一番いけないのは「一三~一五世紀には日本海側の十三湊(とさみなと)は中世東日本最大の港湾都市で海外貿易の拠点として栄えた。」P123という部分でこれは、史実ではなく偽書(とんでも本)『東日流外三郡誌』によるものであろう。13世紀~15世紀の十三湊のことは史料がないため不明である。わずかに成立時期不明の『廻船式目』に「三津七湊」の七湊の一つとして「奥州津軽十三湊」をあげているのみである。十三湊が栄えたのは江戸時代になって北前船の拠点になってからである。また十三湊とこけしとは時代が下っても直接の関係はない。東北が貧しくなかったというのなら、こけしの発生時期である幕末に絞ったほうが説得力がある。ただし、江戸末期、東北地方は湯治(こけしの発生の要因)が出来るまで生活が豊かになったのであるが、それでも東北は相対的に貧しかったことは事実である。江戸期の農業(米作)生産性を飛躍的に高めたのは、脱穀方法がそれまでの砧や扱箸に代わって千歯扱きが考案(和泉の宇兵衛という)されたこと、備中鍬が普及したためと言われている。これらの農機具はその名のように西から東へそして北へと伝播していったものである。東北はその気候条件もあって米作には厳しい条件があった。拙句に〈花は葉に津軽の貧にたどりつく〉(松田ひろむ)があり、津軽出身の方から津軽は貧しくないと抗議されたことがあったが、津軽に限らず東北ではごく少数の豪農や一部の商人はともかく大多数の百姓(小作農)が貧しかったことは事実である。現代のことであるが津軽三味線の高橋竹山(初代)の語る「ぼさま」の門付もその貧しさの象徴の一例であろう。画像は津軽系の盛秀太郎19.5㎝。ヤフオク2014.9.19年1,802,000円で落札されたもの。グロ(呪力)といわれる盛秀のこけしが受け入れられる要素が、正末昭初の津軽にはあったのである。戦後の盛秀が変ったのは津軽の人々の意識が、変化したこともその一因であって、盛秀の個人的な動機だけではない。これは社会史の問題で、ここで詳細に論ずることは出来ないが、基本的には農地解放によって地主階級がなくなり、大多数の農民が小作農から自作農へ転換したことがもっとも大きいといえよう。 にほんブログ村にほんブログ村
2020年02月15日
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こけしグッズも楽しい・鳴子伝統銘菓わらび餅の包装紙 2020年2月7日の一金会は、桜/井昭寛・尚道工人親子を交えてのものだった。そのときいただいた鳴子伝統銘菓「わらび餅」(玉子屋本店)の包装紙(135×155mm)が昭寛工人のこけし絵だった。捨てるにはもったいないと思ってとってあるが、これもこけし関連グッズと気が付いた。こんな関連グッズも楽しい。古くは小島正考案という通信こけしというのもあった(今でもあるが)。団扇、手拭、カレンダー、印鑑、ポストカード(絵はがき)、クリアファイル、紙袋、キーホルダー、ストラップ、イヤホンジャックと数えればこれもいろいろ。『伝統こけしのデザイン』(青幻舎)p110には、この他ペン軸、カレンダーなどもある。さらに木地玩具の福車などにこけしを嵌めこんだものまで加えるときりがない。画像は、わらび餅包装紙と津軽こけし館の紙袋(盛秀型)。津軽こけし館 にほんブログ村にほんブログ村
2020年02月10日
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『こけしを食う虫』平井敏雄氏は2017年に逝去されていた『こけしを食う虫』と「HT」の蔵印で注目していた平井敏雄氏は2017年9月8日に逝去されていたことが、青葉こけし会、航空宇宙技術振興財団のHPに掲載されていた。享年79歳。 まだ入手していなかった『こけしの真実』もAmazonで注文した。 平井敏雄先生ご逝去 青葉こけし会会員である前に、セラミック研究では世界的権威でいらした平井敏雄先生、ご自宅療養中でしたが9月8日にご逝去されました。すでにご家族ご親戚で、お葬儀は終わっております。長期にわたって平井先生を支えたご家族のお邪魔にならぬよう、静かに心で手を合わせましょう。 こけしを心から愛し、著作の中には『こけしを喰う虫』2000(書肆ひやね)、『こけし」の真実―「子消し→こけし」は真っ赤な嘘』2009(金港堂出版部)などがありました。 語呂合わせで根拠もなく、こけしを忌み扱いする人たちにペンで立ち向かう勇敢な平井先生でした。白石の全日本こけしコンクールでは長年審査員をお勤めになりました。 例会に出ていらっしゃらなくなり、寂しく感じていました。 はっきりとした大きな声で、こけしの話をなさっているお姿は会員の心に刻まれています。 ご冥福をこころよりお祈りいたします。2017-09-14 【平井敏雄】(ひらいとしお) 1937年10月大阪市港区石田呉服町生まれ。1960年3月大阪府立大学工学部卒。1962年3月同大学院修士課程修了。同年4月東北大学金属材料研究所(文部教官•助手に任官)。工学博士 (大阪大学)。講師、助教授、ぺンシルバニア州立大学留学(1969〜1971年の2年間—文部省在外研究員) を経て、1978年4月東北大学金属材料研究所特殊耐熱材料学研究部門教授。現在、金属材料研究所附属新素材設計開発施設長、東北大学評議員。 専門は特殊耐熱材料およびファィンセラミックス。所属する8学協会において、理事、部会長、支部長、副会長などを歴任。文部省、通産省、科学技術庁、日本学術振興会などの各種委員会の委員および委員長。日本工学アカデミー会員、国際セラミックスアカデミー会員。 中国材料複合技術国家重点実験室顧問、中国武漢工業大学名誉教授、中国上海硅酸塩研究所客座教授を歴任。平成2年から全日本こけしコンクール審査委員。(『こけしを食う虫』著者紹介1991年11月現在) にほんブログ村にほんブログ村
2020年02月08日
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2月の一金会-平井敏雄『こけしを食う虫』を入手 2月7日の書肆ひやねの一金会では、いつも疑問をいくつか持って行くとみなさん親切に教えていただける。 お礼?に2月「こけし工人ランキング」をプリントして配布。それとちょっと珍しい「佐藤澄子」を少々自慢げにお披露目。 疑問の1は、1月22日の後藤善松のところで描いたHTの蔵印。これは横浜こけし会の広瀬敏雄かと思っていたら、平井敏雄(1937-?)とのこと。即答で疑問が解消されるところがすごい。平井俊雄は大阪生まれ育ちで、阪神ダイガースファンなので、HTの組み合わせも納得である。その平井敏雄氏は東北大学の教授で『こけしを食う虫』(書肆ひやね、2000/5/17)の著書があるとのこと。ひやねに一冊だけ残っていたものを定価で購入出来た。これはずしりと厚い。主にこけしに食害を与えるカミキリムシなどのことだが、「子消し」説などへの、こけしを食う人間への反論も興味深い。この内容については、後日考えてみたい。 その平井氏の蔵印のあるこけしが出廻っているとうことは、お亡くなりになったのであろうか。小生より1歳年上というから、まだ若い。 にほんブログ村にほんブログ村
2020年02月07日
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東武百貨店『伝統工芸展WAZA2020』に新山吉紀・真由美工人 新山吉紀・真由美工人夫妻から「伝統工芸展WAZA2020」のご案内をいただいた。こけしは宮城伝統こけしとして新山夫妻のみの参加らしい。新山夫妻とは昨年の弥治郎こけし村以来なので、会いに行く予定。やはり私にとっては弥治郎といえば栄治・喜一型だろうか。案内はがきにも小さいながら栄治・喜一型が掲載されている。 <伝統的工芸品展 WAZA2020> 2020年2月20日(木)~25日(火)10時~20時(25日は17時まで) 場所:東武百貨店池袋店8階催事場 にほんブログ村にほんブログ村
2020年02月06日
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完成形か?ゆき子春二型三態 2/3 最近、東京こけし友のなどで、井上春未(はる美・はるみ)に注目している。それに関心があるとなぜか、母の井上ゆき子も欲しくなってきた。たまたまヤフオクなでで、ゆき子の春二型のタイプを入手することが出来た。春二型といっても形態はいろいろ。胴模様も旭菊や重ね菊など。これが春二型としては優れた完成形ではないだろうか。向って左から24.5㎝「55年10月6日 地蔵型」との書き込みがある。私のイメージの地蔵型とは違うように思えるが、そう言われればそうかなという感じ。中央は27㎝。もっとも丁寧な作で表情もよく保存状態もいい。これは「群馬伝統こけし愛好会創立10周年」の印がある。創立10周年ということは1996年(平成8年)である。これは会長の井田丈夫氏(前橋市)にお聞きして判ったことである。すでに25年前の作であるが、新品同様の保存状態がうれしい。左は細胴段付きで一側目。これには「59.1」つまり1984年の作であった。ゆき子工人48歳から64歳までが揃ってどれもお気に入りとなりそうである。 にほんブログ村にほんブログ村
2020年02月03日
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外国語サイト KOKESHI VILLAGEに注目 外国語のこけしのサイトもいろいろあるようだが、注目はKOKESHI VILLAGEである。こけし全般の紹介はもちろんであるが、まとめサイトであるが動画も充実している。特に面白いと思ったのは、署名(Kokeshi Signatures)でこれは外国人には、漢字が難物であろうと思われる。しかしよく調べているし、現在のところ見た範囲では誤った情報はない。ただ画像処理がまちまちで、新型もそうとう程度混入して見難いが、参考になることも多い。一見の価値はある。こけしの英訳がどうなっているかと見ると、伝統こけしはTraditional Kokeshiと直訳である。コレクション的には特に珍しいものはなく、画像も寄せ集めである。系統別にも分けてあるが、あちこちに新型も混入している。また小林泰造(山形系)が鳴子系になっていたりもしている。こうした点を見るとむしろ、東京こけし友の会などで英語のサイトを作ればいいのではないかと思った。画像はKOKESHI VILLAGEの鳴子系から比較的珍しい子野日幸助と難読の佐藤誠。 Kokeshi VillageGalleries related to Japanese Kokeshi. Home | Traditional Kokeshi Gallery | Creative Kokeshi Gallery | Kokeshi Signature Album | Reference Books | Wooden Treasure Trove Kokeshi Trends | Folklore N' More | Kokeshi Traditions | Shingata Kokeshi | Kokeshi Inspired | Donko Kokeshi | Omiyage Kokeshi Nesting Kokeshi | Ejiko/Nemariko | Home Goods | Kokeshi Videos | Join Us にほんブログ村にほんブログ村
2020年02月02日
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こけし工人ランキング(仮)2020年2月 上位は津軽系が独占状態 奥瀬恵介が再びランク入り。彼は現在廃業というが休廃業の判断は難しい。ここでは取りあえず現存工人は現役工人としておく。木地山系の阿部木の実は落札数が少なくなったので、ランク外となった。奥瀬陽子・石川美祈子を含め上位は佐藤英太郎を除き津軽系が独占状態である。美祈子は師の今晃ともども上位をうかがう。(画像は典型的な盛美津雄のだるま絵24㎝、ヤフオク20201年1月13日、7750円)こけし工人ランキング(仮)現役工人2月 1月12月工人名系統平均落札価人気指数1‐11盛美津雄津軽8,1994,8022↑44奥瀬陽子津軽8,7604,5133‐32佐藤英太郎遠刈田6,2383,9614↑-3奥瀬恵介津軽6,3223,2625‐55今晃津軽3,8882,9646↑711石川美祈子津軽4,6182,6217↓610笹森淳一津軽3,9792,5698↑108本間直子津軽4,1222,3169↑1212荒川洋一土湯3,2972,13810↑1414高橋通土湯2,7092,13511↑15 阿保六知秀津軽3,4122,11612↓89佐藤良子遠刈田3,9112,08513↑1619佐藤一夫遠刈田3,5652,08514↓1313高橋順子土湯3,6472,01215↓97鈴木明山形作並3,4951,99616↑1816小林定雄遠刈田3,1311,75817↑2024西山敏彦弥治郎3,2941,74218↓1115高橋正吾鳴子2,7151,67619↑2425鈴木征一肘折2,5701,64220↑22-阿保正文津軽2,8671,621こけし工人ランキング(仮)物故工人2月 1月12月工人名系統平均落札価人気指数1‐12盛秀太郎津軽10,3575,5332‐2-安保金光津軽9,0724,6903‐31佐藤文助遠刈田7,4803,9494‐44佐久間俊雄土湯6,7843,8745‐58佐藤文吉遠刈田3,8562,8326↑107大野栄治弥治郎4,8202,5317↑810高橋忠蔵土湯4,2032,4748↓712瀬谷重治土湯3,7482,4199‐95奥瀬鉄則津軽3,4512,36610↑1415桜井昭二鳴子3,5322,24011‐11 高橋兵治郎木地山4,2502,22912↑1822佐藤春二弥治郎3,8222,01713↑236高橋武蔵鳴子3,7741,97814↑2120阿部平四郎木地山3,2031,92815↓1213井上ゆき子弥治郎2,8171,77916‐1617佐藤丑蔵遠刈田2,5331,70017↑2521佐藤正一土湯3,0611,63918↓1514小椋久太郎木地山2,0461,62219↑2025佐藤守正遠刈田2,9961,60520↑2231小林清次郎山形作並2,6251,576 にほんブログ村にほんブログ村
2020年02月01日
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悔しい斎藤伊之助30㎝ 2020年1月31日ヤフオク終了の斎藤伊之助30㎝は欲しかったが、なんとも悔しいことに競り負けてしまった。これは旧北原直喜コレクションで保存状態も驚くほどいいものだった。なんといっても緊張感のある面描は魅力的だった。以前にも伊之助のいいものがあって、これも競り負けてしまっている。それは2018年9月7日で、このときは佐藤周助・斎藤伊之助・渡辺キン・鈴木庸吉が同時に出て、庸吉が65万4000円という驚異的な結果だった。周助は難ありであったが43万1000円。キンは18万円に対して伊之助は11万3000円で、いま考えればもっと競っていい価格だったが、同時に高額を落とすことはとても無理だった。結局2番札で涙をのんだが、今回も12万円を超えて2番手で諦めざるを得なかった。特に今回は眉目に迫力があって、緊張感と呪力のあるものであった。資金力勝負では残念ながらとうてい太刀打ちできず悔しい結果だった。しかも落札された方が、これがいかに素晴らしいということを発表されているので、なおさらである。 その出品画像を保存したのでそれで慰めるしかない。 にほんブログ村にほんブログ村
2020年01月31日
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奥瀬鉄則の苦悩-盛秀の呪縛 戦前戦後その寡作なことともあいまって絶大な人気を誇った盛秀太郎のこけしであるが、その盛秀型は戦前戦後で大きく変遷した。盛秀太郎の弟子には佐藤善二がいたが、盛秀はその型の継承を許さず、佐藤善二はやむなく斎藤幸兵衛型を作ることになり、それに独自の工夫を加えた。その善二の弟子は多く、津軽系隆盛の大きな要因となった。 盛秀型は一子眞一の妻の弟、奥瀬鉄則が継いだ。KokeshiWikiは「鹿間時夫は鉄則のことを「性質陽性で社交力に富み、現代型インテリ工人のうちに入る。生け花や茶道を趣味としている。楷書体ではあるが描彩力は優れていて秀太郎古型を復元する力は十分にある。〈こけし辞典〉」と書いた。実演で上京することもあり、蒐集界では人気の高い工人であった。 丹代(たんだい)條の長女陽子と結婚、昭和45年に長男(恵介)が生まれた。師匠の盛秀太郎は昭和61年亡くなり、奥瀬鉄則には後継者としての期待が大きかったが、平成4年6月16日に行年数え年53歳で没した。若くして世を去ったのは惜しまれる。」「〔作品〕初期には当時の盛秀太郎の様式に従ったこけし、また髷付きなど斎藤幸兵衛の様式に倣ったこけしを作っていた。昭和40年代になって盛秀太郎の正末昭初の古作を復元するようになった。鹿間時夫が昭和44年2月に正末昭初の盛秀太郎のこけしを黒石市温湯まで持参して奥瀬鉄則に復元を依頼したものは東京こけし友の会の昭和44年3月例会で頒布された。面描の妖しさの表現は必ずしも十分ではなかったが、目じりが下がり、まつ毛の垂れた戦後の盛秀太郎型を見慣れた人々には、この頒布は新鮮な衝撃であった。」とおおむね好評の工人であった。しかし私は奥瀬鉄則は盛秀の呪縛から逃れられなった悲劇の工人ではなかったかと考えている。現時点でみるとむしろ、鉄則の没後にこけし作りを始めた妻の陽子や一子恵介が、より戦前のよき盛秀を継いでいるように思える。直系の眞一の子の美津雄はやはり人気が高いが、直系だけに盛秀型を抜けられていない。現在のままであると盛秀のエピゴーネンに終るだろう。奥瀬鉄則の苦悩は、戦前の盛秀を心理的に受容できなかったことで、いくら鹿間時夫氏ななどの収集家が正末昭初の盛秀の復元を依頼しても、どうしてもかわいいものとなってグロ味は出せなかった。「面描の妖しさの表現は必ずしも十分ではなかった」というが美意識が違うのである。それは鉄則の問題でもあるが、時代が違っているのである。昭和52年6月に小田急百貨店で「奥瀬鉄則と第五回伝統こけし三十人展」が開催されたが、そのパンフレットを見ると鉄則よりも盛秀についての記述が多い。いつまで経っても盛秀あっての鉄則であった。こうした苦悩は恵介にもあったのだろうか、事情はさだかではないものの廃業することとなってしまった。陽子のこけしはその(鉄則と恵介の)中間に位置しているといえよう。盛秀の呪縛はいまも続いている。画像は奥瀬鉄則の典型的な盛秀型・幸兵衛型(松田ひろむ蔵) にほんブログ村にほんブログ村
2020年01月30日
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阿保(あぼ)さんは安倍さん 阿保六知秀・金光と六知秀の長男正文と代を重ねて阿保姓もこけし界に知られるようになった。「阿保」(あぼ・あほ)という苗字は青森県特有といっていいものであるが、岩手県・山形県に多い「安保」(あんぼ・あんほ)とも類似している。語源不詳であるが、「安倍」「阿部」という大姓とも類似で、「安倍」は奥州安倍氏や陰陽道の安倍晴明が有名。駿河に「安倍谷」がある。語源は古代の神をもてなす「饗え」(あえ)から来ている。膳(かしわで)に関係があるとされる。「かしわで」とは柏の葉に食べ物を盛ったことから、古代食膳の調理をつかさどった人々。「で」は「する人」の意味でつまりは神を饗(もてな)す人の意味と考えられる。各地に「饗庭・饗場・相場・相羽・相葉・相庭」(あいば・あえば)の地名や苗字もあり、これははっきりと「餐え場」である。また「阿部」には「あぶ」の読みもあり「あぼ」「あんぼ」に通じる。以上から「阿保」「安保」は「阿部・安倍」と語源を同じくしていると考えていい。つまり阿保さんは安倍さんである。画像は阿保六知秀24㎝幸兵衛型(名古屋こけし会第174回定期頒布)これまで見た六知秀工人のものでは、この24㎝幸兵衛型にもっとも心魅かれた。 にほんブログ村にほんブログ村
2020年01月29日
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阿保金光の子持ち30㎝をようやく入手 すでに「子持ち」や2019年12月13日、12月31日にも書いた津軽系の阿保金光工人であるが、その子持ちをようやくゲットした。これは1月26日終了で6人の競り合いで11600円であった。金光工人の人気は没後いよいよ高い。この子持ちは7つの小さな子があるが、そのいずれの表情も胴模様も微妙に変えていて、なんともほのぼのと味わい深いものがある。仏教の天邪鬼(あまのじゃく)のように踏みつけられ支え役となっているようにもみえるのはやや哀れである。 にほんブログ村にほんブログ村
2020年01月28日
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こけし友の会2020新年例会の収穫 1月26日(日)の新年例会では、おみやげこけしは陳野原幸紀と新山吉紀工人の小寸と独楽。即売では松田大弘の初見型(ろくろ線なしカンナ溝のみ)と庸吉型各1本を確保。尚道工人は15㎝の岩蔵型。井上春未の春二型17.5㎝。入札では小松五平の戦前(昭和15年ごろ)24㎝でこれは昨日も書いたように11円差だった。さらにじゃんけん大会では佐藤一夫(遠刈田)のえじこをいただいた。これは赤ちゃんが動くもので、これはこれで楽しい。例会の司会はこれまでの目黒一三氏から江口芳夫氏に交代。こけしの説明など不慣れのようだった。懇親会(二次会)でのプレゼントは佐藤勝洋(遠刈田系)の梅模様でこれも良かった。結局、独楽を含めて10本の収穫だった。松田大弘は表情が素朴で、単純な可愛いい系でないところがいい。描彩も意識的に滲みを出している。さらに緑(彼は青竹色という)の染料も工夫された色で、このようにいろいろの試みがあって一本一本が楽しめる。このことは直接、大弘工人にも「今晃はどれも同じものがないので、全部集めたくなる。それと同じような工夫をしてほしい。」とお願いした。大弘の「可能性」については、昨日書いた通りである。画像は松田大弘(初見型・庸吉型)と桜井尚道。小松五平。 にほんブログ村にほんブログ村
2020年01月27日
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東京こけし友の会新年例会&懇親会2020年1月26日(日)、新年例会に参加した。ここでもお目当ては松田大弘である。雪が降るとの予報もあったが杞憂に終わった。新年例会ということもあり71名の参加だったという。新年恒例の招待工人は松田大弘・桜井尚道という鳴子の若手工人である。おみやげこけしは土湯系の陳野原幸紀と弥治郎の新山吉紀。いつもは1本だが新年は2本。ただし会費は2500円(通常は1500円)。新品頒布こけしには、井上春未、阿部進矢(木地玩具)などに招待工人も含めて11工人の力作が並んだ。入札こけしには戦前作を含む15点の作品があった。大野栄治と小松五平の戦前作に弱気の入札。結果、小松五平を2番手より11円高い6011円でゲット。これには会場から拍手が沸いた。大野栄治は3000円を入れたが5100円の方がいた。例会終了後の「招待工人を囲む懇親会」(大庄物産)には約30名の方々が集まり貸切となった。ここでは招待の2工人を囲んで盛り上がった。私は大弘工人に「鳴子系には未来がないと思っていたが、貴方のこけしを見て可能性があると思った。」と率直な意見を述べさせていただいた。例会さんは年に二・三度なので、ほとんどが顏と名前が一致しない方ばかり。相席の若い女性は盆子原さんと依知川さんで、お二人とも希少?珍名だった。画像は懇親会集合と桜井尚道工人と私。 にほんブログ村にほんブログ村
2020年01月26日
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鳴子こけし祭り横浜展に行ってきた1/25(土) 1月25日、横浜人形の家で開催された<鳴子こけし祭り横浜展>に行って来た。お目当ては松田大弘。25日の11時頃に着いたが大弘工人のブースでは幸八型のろくろ模様をゲット。赤と青の色遣いを逆にしているのも面白かった。結局4本を買い入れ。ろくろ線の幸八型は私がいただいて完売となってしまったようで、おそらく私と入れ違いに来られた国府田恵一氏の「こけし千夜一夜物語」に載っている大弘工人のブースの画像は種類も数も少なくなっていた。大沼秀顕工人のブースでは2本をゲット。岩太郎の復元も期待したいもの。大沼秀則工人のこけしも一本はゲットしたいと思っていたが、残念ながら食指の動くものはなかった。人形の家の1階で軽食。カフェラテでカップの中に絵を描いてくれたのは思いがけないサービスだった。午後は、神田の書肆ひやねの三土会へ。ここでも鳴子の桜井昭寛、尚道親子と交歓。左から大沼秀則・松田大弘・大沼秀顕工人 Cafe Elliott Avenue にほんブログ村にほんブログ村
2020年01月25日
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カメイ美術館<亀井昭伍コレクションより古作名品展> 2020年1月28日(火)~5月17日(日)/仙台市ポスターの画像は高橋勘治と小原直治。はがきの画像は岩本善吉。一度は行ってみたいカメイ美術館である。●同時開催-齊藤純廣コレクションより「今晃おひなさま展」 2020年2月25日(火)から3月29日(日)まで連絡先:022-264-6543カメイ美術館(ポスターより)こけし工人の作品が、その時代の風潮を反映するのは、ごく当然のことと思われます。文化•文政時代の発祥の頃は、ごく素朴な幼児の遊び道具としての形態だったと想像され ますが、ろくろ技術の変革やこけし産地の風土などが加味され、全体的にこけしとしてのまとまりを形成してきたと推察されます。昭和3年の天江富弥氏の『こけし這子の話』によって全国にこけしが紹介されて、大人の鑑賞眼が意識されるようになりました。大正•昭和初期(戦前)までは、日本も東北もあまり豊かではないものの、こけしは、どちらかと言えばひなびた中に生命力あふれるものが多く、また、中には静かな憂いを秘めたものがありました。戦後、生活が豊かになるに従い、工人のこけしも明るく、華やかな表情や色彩に変わってきた様に感じます。そして、戦前の各系統別の伝承を受け継ぎ、新しい時代のこけし群となっていることは喜ばしいと思います。こけしを大別して、戦前の古作と戦後の現代作と云われます。こうして受け継がれたこけ しの“こころ”が次世代の工人によく受け継がれ、世界に誇る“郷土人形”として発展することを願って止みません。こけしへの想い亀井昭伍私記②より『古作こけし名品録』 にほんブログ村にほんブログ村
2020年01月24日
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シュルシュルーとガリガリー-志田菊摩呂と八郎 大井沢のこけしは、戦前の第一次こけしブームの時にも発見されなかった隠れたこけし産地であった。KokeshiWikiにもその発見の経過があるが、「秋田こけし会通信」64号の池崎哲也氏の「大井沢の木地業とこけし」はそれとも異なっていて興味深い。永く足踏みロクロを使っていたようで、志田菊麿(1892-1984)とその子八郎(1936-)の違いについての、妻わかよの言が面白い。「いま挽いているのは“八郎だべ”、どうしてわかるんですと言うと、じいちゃんの音は、シュルシュルーシュルシュルーとたえまなく聞こえるし、八郎が挽くとガリガリー、ガリガリーと聞こえるよーと言って私たちを笑わせた。」とある。大井沢のこけしの系統についてははっきりしないし、その伝統性にも疑問が多い。ただし現在では孫の菊宏(1959-)は「山形系」と称しているが山形作並系との接点はまったくない。なお、菊麿は「菊摩呂」と自署している。菊宏工人は「菊摩呂こけし工房」を称しているので、工人名は「菊摩呂」と統一すべきであろう。『こけし辞典』(鹿間)、KokeshiWikiとも「菊麻呂」であるが山形県のHPでは「菊摩呂」となっている。(画像は志田菊摩呂20㎝)大井沢の木地業とこけし 池崎哲也明治32年、志田又蔵ら5名が出資し、川連村(現秋田県雄勝郡稲川町)から樋渡徳太郎以下木地職人六名、塗師、下塗り工等4名を招き、木地業と漆器業をはじめたが、明治36年事業不振のため職人が離散してしまい、 長男志田普(ママ)見(五郎八)が一人だけ技能習得につとめていたが、一人だけでは経営が出来ないので、鳴子より木地師を招き、足踏ロクロを作って椀作りを指導してもらった。明治40年県内から初めての注文があり、志田菊麿をはじめ地元の人達が相次いで入門し、 木地業に従事した。明治43年頃より大正の初期までハッカ容器の製造が盛んに行われ輸出されている。昭和に入り輸出が不振となると急速に衰退して行った。さて、大井沢のこけしが昭和30年まで知られなかったのは、木地業が不振となり、農業に従わざるを得なかったためと、販路、特に温泉地等もなかったためといわれている。 昭和34年疋田秀穂氏、東京こけし友の会小野洸氏の相次ぐ紹介により知られるようになった。志田菊麿さんから大井沢のこけし誕生について聞いたのは一度だけだったが、師匠<五郎八>と私がこけしを作ったのは、ほとんど 同じ頃だったと話してくれた。木地は師匠が挽いたものに描彩したことも、その逆のときもあったらしいが、こけしを作っても売るなどとも思わなかったし、売れるとも思わなかったと言って、その当時を思い出したのか、 あの節くれた手で傍らにあった重ね菊大正型のこけしの頭をつるりとなでて、慈しむような仕草であった。18歳で志田五郎八に入門し、木地業の道 に人り、荷役としても藏王高湯にも行き、岡崎長次郎のところでも木地修業をしているし、 こけしを目のあたりにして、ときには作ってみよぅといった気が起きるのも当然であり、 また自然のよぅな気がする。間沢の佐藤木工所でお盆やこけし等を挽いたこともあつたらしいが、ほんの一時期のことで、あとはほとんど農業に従事していたようである。大井沢のこけしは蔵王型と鳴子型の二種類がある。肩に段のついたのは鳴子型、胴模様は、菊、りんどう、梅、蔵王型のはなで肩で細胴のこけしである。これに開き、重ね菊のほか梅がある。一方、大井沢自然博物館収蔵品に志田栄さんの胴模様は、鳴子の高亀に伝承されているものに似ているので、当主の高橋武男氏に聞いたところ、全く関わりはなく大沼熊次郎氏なる木地師についても否定的であった。大井沢では今、志田菊宏工人(志田菊麿の孫)が黙々とこけし作りにはげんでいる。愛好者のなかには色々と口をはさむ人も多いと 聞くが、まだ若い人なので、のびのびとやってもらいたいものである。最近の作品はなにか線が細くて、固い表情が多いのはきまじめなためだけではないらしい。リラックスして耳栓でもしてやったらと思う。父親の志田八郎さんも、大工仕事のあい間をぬって、だるまやコマを挽く姿が見られる。 志田菊麿さんがまだ元気に足踏ロクロを使ってこけしを作っていた頃、奥さんのわかよさんが、いま挽いているのは“八郎”だべ、どうしてわかるんですと言うと、じいちゃんの音は、シュルシュルーシュルシュルーとたえまなく聞こえるし、八郎が挽くとガリガリー、ガリガリー"と聞こえるよーと言って私たちを笑わせた。日本海でとれた魚、鮭、ハタハタ、平目、アワダチ等をお土産に持って行くと、象の様な目を更に細めて喜んでくれた老夫婦ももういない。大井沢は名だたる豪雪地帯で、半年は雪との闘いに明けくれる。昔は六十里越街道が内陸と庄内の道だったが、今は月山新道が開通し大変便利になった。多目的ダム寒河江ダムも完成に向けて急ピッチで進んでいる。 自然とのふれあいを求めて都会から訪ねる人々、昔は出稼も多く、なれない生活を強いられた人達、いまその解消に向けて観光面にも力を入れはじめているようだ。(酒田みず木の会代表) にほんブログ村にほんブログ村
2020年01月23日
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重量感たっぷり後藤善松29㎝戦前作このたび重量感たっぷりの後藤善松29㎝がやってきた。無銘ながら「後藤善松」との書き込みがあり、胴模様の旭菊と正面菊の描き方から善松で間違いないものだろう。太い胴が安定感を与えている。胴は直胴でこれは善松としては珍しい。胴と頭部の一部にやや水濡れの跡があるのが惜しい。鳴子系といっても、固着しているのか頭は動かない。胴裏に阪神タイガーズのようにHTを組み合わせた蔵印がある。この蔵印はこれだけでなく比較的戦前作によく見られる。これは誰のものだろうか。いちおう名のある収集家と思われるが、諸賢のご教示をいただければありがたい。 善松という工人は、KokeshiWikiを見てもあまり熱心な工人ではなかったようで、この作もそれだけに衒いのなさがあってかえって好感が持てる。この蔵印はだれだろうか 【後藤善松】ごとうぜんまつ 1916~1962 〔人物〕大正5年11月1日、宮城県玉造郡鳴子湯元の後藤徳治、さだよの長男に生まれた。鳴子青年学校を4年で修了後、昭和7年17歳より岡崎斉の弟子となり、6年間木地の指導を受けた。昭和12年より15年まで北海道上戸別・米沢・仙台・鎌先・松島・陸前赤倉において木地あるいは他の仕事に就いて働いた。昭和15年正月健康を害して鳴子に戻り、玩具などを作るようになった。 斉のもとで修業した当時は挽き方専門で描彩は習わなかったが、独立してから見取りて描彩を始めた。影響をうけたのは高橋盛、大沼竹雄等からである。 〈こけしと作者〉により紹介され〈鴻・第5号〉で頒布された。その後は酒を好んであまり仕事はしなかったという。 昭和37年5月10日東京にて没した。行年47歳。 〔作品〕昭和14年頃の作は胴の太い肩の高いこけしで、〈こけしと作者〉〈古計志加々美〉に紹介されている。昭和15年、再開後の作は眼点の比較的大きいこけしてあったが、筆はよく走っていた。この時期の作例は〈鴻・第5号〉に掲載されている。肩は高く、高橋盛式の大きな菊を二つ描き、花弁の描法にくせがある。 戦後はほとんど作らず、たまに材料があるときにはごく小寸の豆こけしを挽いた。1cmほどの極小豆こけしは昭和30年ころ作られ、3cmほどの作は昭和37年ころたつみで多量に頒けられた。(KokeshiWiki)(2/12追記)HTの蔵印は平井俊雄氏と判明。2/7一金会にてご教示いただいた。大阪生れの平井氏は阪神タイガースファンだったので、それを模したものだった。 にほんブログ村/にほんブログ
2020年01月22日
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謎の多い西須正芳(政芳)を入手・きかん気な少女西須正芳(にしす まさよし)とは聞いたことのない工人であるが、きりりとした表情に魅かれて入札。戦前作ということもあって、思いもよらず9名の競り合いとなったが、運よく落札することが出来た。13800円とは小生としては相当厳しい額だった。ヤフオク2020年1月19日終了。18㎝。入手した本品は、細めの二側目もきりりとして、きかん気な少女のようで眺めて飽きないものがある。気品があるといってもいいだろう。胴模様は赤と緑の重ね菊で、緑はかすかに残っている。胴底は切りっぱなしで旧蔵者によって「西須正芳」と書込みがある。他の文字は判読が難しいが「弥治郎」と読んだ。『こけし辞典』の鹿間蔵に近いのでおそらく昭和10年から13年ごろのものであろう。西須正芳は『こけし辞典』(M)に詳しいが、弥治郎系といいながら蔵王高湯系の影響もあるという。ただし本品は弥治郎系として問題はないものだろう。西須正芳は謎の多い工人で、『こけし辞典』では本名政義とし「西須正芳」として立項しているが文中ではすべて「政芳」と書いてある。『東北のこけし』でも「西須政芳」で蔵王高湯系に掲載されている。政芳名義には弟政広のものが混入しているというが、『東北のこけし』では、一側目の政広を別に掲載している。これは『こけし辞典』の政芳名義の小山蔵(S16)に近いので、とりあえず一側目は政広。二側目は政芳としておく。もちろん本品の様な二側目が好ましい。 ヤフオクでは過去10年間に12点の落札があり、うち4点はえじこ。名義はここでも「正芳」と「政芳」と二様がある。ただし、えじこの裏に本人の署名と思われるものに「米澤市 西須政芳 三十四」とあったので、工人としては「西須政芳」と統一しておくべきだろう。そうすると『こけし辞典』の見出しの「正芳」は誤りということになる。 欲目ではないが、政芳のこけしでは、本品がもっとも出来が良いと思える。【西須正芳】にしす まさよし(1907-1945) 〔人物〕明治40年、米沢市御守町に西須政太郎長男として生まる。本名政義、こけしに署名するときだけ政芳を用いる。大正9年県立米沢工業学校を卒業、春日町で石井木工所を経営していた石井酒(みき)に弟子入りする。石井酒は名古屋で修業した木地師でこけしは作らず、小林吉太郎より下請の仕事の依頼を受けて、木管、糸巻き等を製作していた。昭和2年に年期が明け、北寺町で独立開業。職人として撟本力蔵を雇い入れ、こけしを初めて知り、蔵王高湯の能登屋岡崎嘉平治方でこけし作りを覚えて帰郷した。 昭和4年米沢市御守町に西須木工所を設立、ボビン織機等の撚糸関係の木地製品を挽くかたわら、こけしも作るようになった。 職人として平塚安兵衛が昭和4、5年ころに、佐藤伝喜が8年から11年まで、佐藤伝伍が9年ころから、佐藤豊治が10年ころよりそれぞれ働いた。昭和5年より弟政広、同7年に弟政明を弟子とした。この間伝喜•伝伍兄弟のこけしを模したこけしを作り始め、昭和9年ころより販売用に作ったという。昭和16年、東京の茶房「鴻」でこけし製作実演。昭和20年6月15日米沢で没。39歳。同木工所は弟政広が受け継いだ。 〔作品〕橋本力蔵や岡崎嘉平治のこけしを見本として作つたと言われるが、 このころのものは残っていない。現在残っているのは昭和8年以後のもののみである。このころは頭のベレーや前髪、胴紋様が伝喜のこけしと酷似しており、完全な弥治郎系といえる。昭和12・3年ころから 旭日菊を赤と緑で交互に描くようになり、 蔵王高湯系の影響が見られる。昭和14・5年ころよりこけしを多量に作り始め、菖蒲を描いたり、髫付等を出し、新型こけしの嚆矢であった。西須兄弟のこけしはすべて政芳名儀で知られたが、政広のこけしがかなり多数まぎれこんでいることがわかった。〔伝統〕弥治郎系。一般型。佐藤伝喜の影響が最も強いが、橋本力蔵、岡崎嘉平治、佐藤豊治等の影響も若干ある。晩年の作は彼自身の工夫が加わり、一概に弥治郎系とはいえない。(『こけし辞典』(M)) にほんブログ村にほんブログ村
2020年01月21日
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今晃ホウノキ18㎝大胆自在な筆使い今晃の魅力はさまざまであるが、その多様性によって熱烈なファンを得ている。今回は、今晃のなんとも魅力的で大胆な筆遣いの18㎝を発見した。最初これは滲みかと思ったが、滲みではなく筆先を調えないで、たっぷりの染料を使っている効果だろう。材は非常に軽くホウノキとあった。勢いのある赤い花柄が二つ、それに青い茎の線がアクセントとなっている。白い木地と赤い花の取合せ。面描は一筆目と二筆の鼻など形態としては津軽系というよりも鳴子系だろうか。単純ながら中太の筆の勢い、大胆自在さがなんとも心地よい。ロウ引はしていないので木肌の粗さも計算されてのもの。署名は晃だけなので大舘に帰郷してからのものだろう。いまさらながら今晃の幅の広さに感じ入った。落札価格2800円+送料。 にほんブログ村にほんブログ村
2020年01月20日
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米浪庄弌旧蔵の佐藤重二36㎝を入手 佐藤重二(さとう しげじ)といっても知っている方は少ないだろう。遠刈田系佐藤己之吉の弟子である。KokeshiWikiの「残る作品数は非常に少ない」に魅かれてがんばって入札。幸いにも落札することが出来た。それはKokeshiWikiに(ひやね)米浪庄弌旧蔵として掲載されているその現品であった。36㎝。まだ手慣れていないとはいえ、眼には戦前らしく呪力がしっかりとある逸品である。緑も残っていて大切に保存されていたことがわかる。胴底の米浪庄弌の蔵票も有り難い。ただ署名が隠れてしまうことになった。1940年(昭和15年)の作。KokeshiWikiの所蔵者も小生に変更していただいた。なお米浪庄弌(こめなみ しょういち)は戦前戦後を通じて活躍された関西の収集家。『こけし辞典』に「米浪コレクション」の項がある。著書に『こけし人形図集』を戦前に刊行している。米浪コレクションは氏の没後散逸したと思われる。その一つが小生の手に入ったわけである。 【佐藤重二】(さとうしげじ)1914~1941。師匠:武田仁兵衛/佐藤巳之吉 〔人物〕大正3年、山形県米沢市の工場経営佐藤春次の次男として生まれた。父の春次は米沢市北堀端町で佐藤撚糸機械製作所を経営していた。重二は昭和5年ころから米沢市膳部町の武田仁兵衛(山形の小林倉吉の弟子)について木地を修業。木管等撚糸関係の木地を挽いた。こけしは昭和13年ころから父春次の工場で働いていた遠刈田の佐勝巳之吉に教えを受け、その描彩を習った。昭和16年9月に入院し、同年10月に病死した。行年28歳。 〔作品〕昭和15年刊の〈鴻・第5号〉で新作者として紹介された。しかし、製作開始後まだ間がなく未熟であるとして、その作品の誌上発表はひかえられていた。昭和16年11月の〈鴻・第13号〉に「作者産地のニュース」として佐藤重二と仙台の海谷周松の二人の死亡の報告とその作品が写真掲載された。 鹿間時夫は「描彩はこれからというところであったが、巳之吉の弟子にふさわしく、辛口の味を持った剛直で特異なこけし〈こけし辞典〉」と評した。残る作品数は非常に少ない。 にほんブログ村にほんブログ村
2020年01月19日
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今晃ファンクラブの92回頒布・干支はカブねずみ今晃ファンクラブの第92回頒布品がやってきた。木地玩具は今年の干支、ネズミはカブ(蕪)ねずみ。2019年の挽納め6.5㎝と、2020年の初挽き5.8㎝小寸の3点。 挽納めは眉なしだが、ファンクラブ代表の齊藤純廣氏はちょっと不気味というが、そんな感じはまったくしない。緑は土筆だろうか。初挽はなんだろうか。蝶が飛んでいるような筆致が楽しい。どちらも今晃らしい津軽の風景である。今回は鉋の跡を残したところに新しい工夫がみられた。もうちょっと大きなものでも良かったかなとは思う。蕪ネズミは台付で、台にちゃんと乗るかと思っていたらちゃんと安定したのには感心した。なんでもないことだがこれも腕なのだろう。送料共でセット7620円。頒布会入会希望の方、また過去の実績については齊藤氏のサイトに。 第92面こけし頒布のご案内(2020年1月16日) あけましておめでとうございます。令和2年、皆様にはお変わりありませんか? 仙台は天気が良く暖かい、大変穏やかな新年を迎えました(。 早いもので1月も中旬を過ぎましたが、暖かい毎日が続き、雪の欲しいスキー場にも雪まつりの会場にも雪が無いとみな心配しています。寒レ、季節に雪が降らないと、山の雪不足で春•夏の水不 足も心配になりますね。 今年は、「TOKYO2020オリパラ」の特別な年。記念すべきこの年が、皆様にとって思い出に残る、 素晴らしい1年でありますようお祈りしています。 正月頒布は、会員の皆さんが首を長ーくして待っている「干支」と「挽納め•初挽きこけし」です。 干支の頒布は3巡目になりますが、スタートのねずみは「カブねずみ」(家福ねずみ?) 包装を開いた瞬間大感激。ロクロから生まれた「蕪」も「ねずみ」もシンプルで良い形。緑の茎が アクセントの蕪に、今にも飛び跳ねそうな子ねずみの愛らしいこと。しっぽに力が入っていますね。 実は、10月に今さんと会った際、頒布の干支のことが話題になりました。妻がパッチワーク教室 で「蕪ねずみ」を作るという話が出て、カブは株が上がるとか、頭(かぶら)の意味から出世するなど 縁起が良く、初めての干支が「俵ねずみ」だったこともあり、「蕪ねずみ」もあり?、と話しました。 送られてきた干支がこれ!感激です!皆さん、如何でしょうか? こけしは、カンナ跡をざっくり残した温かみのある木地に、縁起の良い赤い花模様をさらりと。 挽納めは眉なしで、ちょっと不気味?(津軽系に、村井福太郎型という眉なしこけしがあります。) 滲んだロクロ線のセーターの首回りがポカポ力と暖かそうですね。初挽きは可愛いっ過ぎ! どちらも小寸ならではの、魅力的なこけしだと思います。 次回、第93回は4月頒布の予定です。どうぞお楽しみに。 にほんブログ村にほんブログ村
2020年01月18日
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楽しい「こけし春秋」の本橋惣一郎こけし切り絵横浜こけし会の「こけし春秋」は30号(1980年9月)から。それまでのB5判を改め、ほぼ正方形の変型となった。これに合わせて題字は武井武雄、表紙は本橋惣一郎の切り絵となった。このへんの事情については広瀬敏雄「題字と表紙絵」(「こけし春秋」92号)に詳しい。終刊となった124号まで、この切り絵は継続された。こうした表紙デザインもいまとなっては貴重で、なんとも贅沢である。切り絵は隔月発行の「こけし春秋」の季節に合わせ、また工人を取り上げた場合はいかにも、それと判る特徴もよく捉えている。こんな表紙絵の工夫は楽しい。東京こけし友の会の「こけし手帖」でも表紙でなくても、試みたらどうだろうかと思った。「こけし春秋」は記事もさることながら、読んで、見て楽しい冊子である。こけし春秋 題字と表紙絵 廣瀬敏雄 横浜こけし会も丁度十七年目、楽しみを第一にと考えながら、大ぜいの会内外の人々のあたたかい、御協力に支えられ て、機関誌こけし春秋も第九十二号を数えました。 昭和五十五年夏、こけし春秋改版、様式を変えて、一そう 楽しい機関誌にと考え、先ず第一に題字の揮毫を、こけし界 に大きな業績をのこされた、武井武雄先生にお願いいたそうと思いたち、早速岡沢貞行氏とお会いした。岡沢氏は武井刊本の会の幹事でもあり武井先生との親交も深い、又横浜には 武井先生との親交も深い刊本の会の平尾栄美氏もおり、お二人共当会の会員でもあることが幸いした。岡沢氏に早速おねがいすることにした。思いがけなくも一ケ月もたたない九月題字が出来たからとの通知、早々岡沢氏に同行をおねがい、 岡沢門下生の今村泰雄世話人とおたずねした。大変に暑い日でした。 上品なアロハシャツの非常に良くお似合いの先生、うしろ の飾り棚に艷々と古びた尺二寸位の立派な、大沼岩蔵の逸品 が一本、こんなにこけしが良く似合う人とお部屋は今までに見たこともなかつた。 開口一 番「廣瀨君私は書家ではないよ画家だよ、題字を書 けとは難題ですね」しかし先生は大変に上機嫌だった。差し 出された上質和紙に「こけし春秋」実に不可思議な秀筆、今までに見たこともないような筆法、武井先生に書いていただいて良かったなあ、と喜びがこみ上げて来ました。どんな筆 で書いたのでしようか。日本一の題字だと横浜こけし会の第 一番の自慢になりました。そして、又、原稿を時々書いてやるとありがたいお言葉もいただきました。これも刊本の会岡 沢貞行氏のお骨折り、平尾栄美氏のお口ぞえもあったことと 感謝いたしております。半日近くゆっくりと、こけし昔々の お話をお聞かせいただいて帰りぎわ、あの岩蔵こけしは立派 なものですねといったら「あれは桜井昭二君の作だよ」とい われた。こけしもやはり鎮座するところが良くなければとつくづく思いました。しかしあの桜井昭二作のこけしは立派な秀作であったと思い続けております。 表紙絵は二十数年前から色々のお世話になっている。本橋惣一郎氏の名人芸切絵をおねがいする事に勝手に心にきめておりました。本橋氏には切絵、板獅子は恒例正月祝、中国旅 行の見取り木地人形、伝統こけしレブリカ等、数かぎりない程の木地作品をいただきましたが、なにを作っていただいて も芸人。 この頃は中国旅行にばかり、仏像の切絵など、おそらく切 絵作家としても一家をなせる腕前だと信じております。お願いした表紙切絵も一枚一年使用と思いましたのですが、毎号一枚づつおおくりいただいております。遅刊ぐせのこけし春 秋も本橋さんの毎号の切絵に追立てられるように編集発行い たしており、こけし春秋発行の大きな力と心より感謝いたしております。 にほんブログ村にほんブログ村
2020年01月17日
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ほのぼの感の西山憲一のやみよ5個入り 1/16 やみよ(輪入り)というのは、いくつ入っているのが最大であろうか。ネットで検索すると星定良工人は輪が8個、しかも輪の中に輪があって三段だというが、現品は確認できていない。このたび無銘ながら西山憲一(1920-2003)のやみよ5個入り20㎝を入手した。単独では、これが一番多いのではないだろうか。それも上から緑青・黄・赤・黄・濃青と描き分けられていて、これは胴模様のろくろ線と対応しているのだろう。 表情のおぼこさとあいまって、ほのぼの感がいっぱいだ。頭もゆるく自由に動くようになっている。こんな遊び心の憲一も安らぐ。面描は勝次型としていいものだろう。後継者の西山敏彦工人に見てもらいたい一品である。 にほんブログ村にほんブログ村
2020年01月16日
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「古いこけし」実は<寺方徹旧蔵の小島正>を落札これは「古いこけし」とだけタイトルに表示されているもので、説明に「小島正雄 30㎝」とあった。注目は胴底で一部しか残っていないが蔵票があり「TARAGATA 東京 小島」とあった。これは鳴子の形態で、小島は「小島正」(おじまただし)。木地は大沼正雄。戦前の収集家の寺方徹の旧蔵品であった。小島正は『こけし辞典』にも立項されているが、どちらかといえば悪名の人である。KokeshiWikiにも同様の記述がある。これは、おそらく昭和14年(1940年)ごろの小島正名義の標準的なもので、保存状態は悪くない。これは2000円の開始価格で2100円での落札となった。(オークションID:s710359512、2020年1月13日終了)小島正の晩年の消息や没年は不明というが、狭い鳴子のことであるので不明というのも不思議である。調べる人がいないということであろう。「縮写こけし」と称するイミテーションこけしで時代を騒がせた人でもあった。 【小島正】おじま ただし〔人物〕鳴子の人。昭和10年ころ東京に出て、本所区厩橋一丁目で木地工場を開業した。職人は鳴子の大沼正雄であった。小島正自身が木地を挽いたかどうかは明確ではない。挽いたとすれば見取り学問であろう。 東京で開業していたため在京収集家が利用して多くのイミテーションを作らせた。天江コレクションの伝大沼又五郎、佐々木要吉かとされる鉛こけしなどの模作は有名であり、吾八、三五屋で売られた。昭和13年の縮写こけし頒布の会で頒布されたものも、小島正の工場で大沼正雄が挽いた木地に画家の猪谷春峰が描彩したものであった。また小島正名儀で収集界に渡ったこけしにも正雄の木地がある。正雄は描彩をしなかったというから、小島正名儀のこけしの描彩は小島正自身の描彩と思われる。また、胴の中に手紙を入れて送ることのできる通信こけしと称する製品も工夫したという。 昭和16年2月発行の〈鴻・第8号〉の表紙は小島正のこけし絵が使われた。専ら木地を挽いていた大沼正雄は、鳴子の兄大沼竹雄が昭和15年1月5日に亡くなったという報を受け、急いで鳴子に向かったが、小島正の工場の労働条件は極めて劣悪だったようで、正雄自身もすっかり身体をこわしていた。そのときはすでに鳴子駅から自宅へ歩いて帰れないほどの衰弱であったという。正雄は、兄の死後一ヵ月もたたずに、昭和15年1月23日、行年31歳で没した。 木地職人大沼正雄を失った小島正はやがて鳴子へ帰り、現在の早稲田湯通りにバー「こまどり」を開いて戦後かなりの期間、その経営をしていた。晩年の消息、および没年は不明。〔作品〕〈鴻・第8号〉は昭和16年2月発行であるから表紙絵は既に正雄がなくなった昭和16年1月以降に小島正が描いたものであろう。小島の店で販売された模作についても正の描彩と思われる。〈こけし辞典〉には鹿間時夫旧蔵の同種の又五朗型が掲載された。」〔伝統〕鳴子系ではあるが他系のものの模作の描彩もしたと思われる。(KokeshiWiki抜粋) 【イミテーションこけし】1938年(昭和13年)有坂(与太郎)が代表者である日本郷土玩具協会「こけしの会」は、縮写こけしの頒布を企画(『こけし辞典』では「縮写こけし頒布会」)。多数のイミテーションこけしが作られた。「縮写こけし」は現品の大きさにかかわらず9cm(3寸)であった。 その頒布会の規約は『「こけしの代表作60本を選んで、それを一定の寸法に縮写し、鑑賞的であるばかりでなく、研究資料としても後世に伝えようとする企て」監修:有坂与太郎、解説深沢要、製作者:猪谷春峰、第1回頒布仙台・鉛・川湯・鳴子・一関、毎月5本頒布12ヶ月、毎月1円30銭外に送料15銭。頒布予定として50工人(高橋褜吉、川村清太郎、藤井梅吉、長谷川辰雄、大野栄治、小林辻右衛門、秋山忠、高橋忠蔵、宮本栄吉、鎌田文市、坂下権太郎、木村吉太郎、佐藤文六、佐藤喜一、新山栄五郎、菅原庄七、海谷吉右衛門、大沼岩蔵、佐藤善七、平賀謙蔵、阿部新次郎、小椋久四郎、間宮明太郎、高橋武蔵、斎藤太治郎、新山久治、高橋盛、男沢春江、荒井金七、村井福太郎、佐藤秀一、佐藤直助、佐々木与始郎、渡辺角治、小椋泰一郎、佐藤七之助、佐藤松之進、小林倉治、秋山慶一郎、柏倉勝郎、佐藤栄治、長谷川清一、磯谷直行、藤原政五郎、阿部治助、伊藤儀一郎、松田初見、斎藤源吉、煤孫茂吉、高橋兵次郎)をあげ他は選定中・・・。』となっていた。 制作販売は小島正(おじまただし)。木地は鳴子出身の大沼正雄、描彩は猪谷春峰であった。このイミテーションこけしは、2006年ごろ、ヤフオクに大量に出品されて問題となった。(ウイキペディア) にほんブログ村にほんブログ村
2020年01月15日
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津軽2005若手工人フェスティバルの10名セット 2005年(平成17年)10月に開かれた第18回若手こけし工人フェステバルで、津軽こけし工人10人のだるま模様の11㎝10本セットを入手した。(32600+657)2005年といってもすでに15年前のこと。すでに佐藤佳樹1949-2007、小島俊幸1949-2012、阿保金光1952-2017は故人となった。他には盛美津雄1955、奥瀬陽子1944、阿保六知秀1950、笹森淳一1954、本間直子1961、長谷川健三1942、山谷レイ1936で当時から見てもけっして若手とは思えない方が多い。ここに今晃1953がないことが不思議である。(数字は生没年)このセットは、10名そろったところに価値がある。やはり阿保金光のとぼけた表情がいい。この1本だけ太胴である。他には阿保六知秀の幸兵衛型の表情がきりっとしていてこれは予想外に良かった。阿保一家の再認識である。佐藤佳樹のちょっとやんちゃな表情は悪くない。これは長谷川健三も同じ。笹森淳一は一筆目が面白い。盛秀型の盛美津雄、奥瀬陽子はもうひとつ工夫がない。だるまシリーズということで、各工人ともだるまは丁寧な描彩であるが、今晃ならこういう描き方はしないだろうなあと思った。若手工人フェスティバルというのは、現在の伝統こけし工人フェスティバルであろうか。「若手」と限定するのはすでに苦しい時代である。画像は10本セットとお気に入り4本。向って左から阿保金光・阿保六知秀・長谷川健三・佐藤佳樹。 にほんブログ村にほんブログ村
2020年01月14日
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丑蔵愛の北川太一『こけし惜別』を読む 北川太一『こけし惜別』 北斗会出版部 1995/10/15 署名落款入りでかつ二重箱入りという豪華なもの。しかも当時でもあり得ない活版印刷。単色本文74ページでは、贅沢の極みであろう。 「惜別」とは多くの工人や西田峯吉、土橋慶三などを失った追悼が多いことによるもの。 印象をひとことで言えば、丑蔵愛に溢れた一冊であるといえよう。丑蔵から文六、文男、文吉への思いは広がる。さらに奥瀬鉄則への叱咤激励である。 その鉄則も失うなど、まさに惜別である。 「丑蔵恋慕」の冒頭をあげる。 丑蔵がいない、と思うと体のどこかに大きなほら穴があいたような気がする。丑蔵逝去の電話が新地から届いたのは、朝から雨の九月二日火曜日、 夜も八時半を廻っていた。追われている原稿があって、いま東京を離れる わけにはいかない。いくらあがいてももう丑蔵はいない、そんな取返しようもない思いに駆られて、丑蔵にとも英裕にともつかない電文を綴った。 ウシゾウロウジ ンノゴセイキヨヲカナシムド ンナコトバガアロウ。ウツクシ キモノヲツクリツズ ケテイツセイキニチカイ、オオキクオモクユウユウトシタカケガ エノナイイノチヨ、イツモアナタヲオモウコトハカギ リナイヤスラギデ アッタノニ。メヲトジ アリシヒノエガ オヲシノビ フカキカンシヤトナゲ キトニココロオノノク。ネガ ワクバ ヤスラ力ニネムラセタマエ。 亡き父と同年の丑蔵を悔やむ弔電としては、感傷に過ぎると人は笑おうとも、わが壮年に丑蔵でなくては夜も日も明けぬ丑蔵恋慕の数年があり、そしてそれが還暦をすぎた今もたちどころによみがえることを、溢れる思いのたけをこめて、幽明を異にする丑蔵に語りかけずにはいられなかった。悲しい時、苦しい時、「丑蔵、丑蔵、丑蔵」ととなえることで、幾たび それを切り抜けたか。滑稽なことだが、抜歯する歯科医の診療台の上でさ え、その呪文は心を静めた。それはまさに、恋慕というほかない時間だっ た。(初出「こけし手帖」309号) 【北川 太一】(きたがわ たいち)、1925年3月28日 - 2020年1月12日、文芸評論家。東京生まれ。東京工業大学卒。向丘高等学校教諭。高村光太郎記念会事務局長、高村光太郎一筋に研究をつづけ『高村光太郎全集』『選集』の編纂にあたった。吉本隆明の盟友。(ウイキぺディア) にほんブログ村にほんブログ村
2020年01月13日
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東京こけし友の会草創期の三越本店「こけし展解説」 小生所蔵の「こけし手帖」のバックナンバーのなかに、「こけし展解説」という小冊子がはさまっていた。なぜ、これがあるのかも分らなかったが、よく見ると東京こけし友の会草創期のもので、なかなか興味深いものであった。 このこけし展というのは、『こけし辞典』や「こけし手帖」50号によると、1954年(昭和29年)4月13日から18日まで、東京三越本店で開催された「趣味のこけし展」のことであった。友の会発足1年目の行事で、展観こけしは2000本、実演は高橋盛、岡崎斉。即売は45工人のものだった。 「解説」はこけし展の趣旨と西田峯吉の「こけしによせて、こけしの系統、こけし産地と工人名、出品目録」などである。本文は32ぺージ。 これをみると系統も7系統で、肘折系も山形作並系も蔵王高湯系もないものである。まだ系統自体が確立されていない時代でもあった。 また、友の会の「小規」も掲載されている。この時代の事務所は名和綜合美容研究所であった。友の会の会長は加賀山昇次のはずであるが、そのことは明示されていない。この冊子自体、いまから見れば素朴なものであるが、それがいかにもこの時代という感じがする。 なお、この「こけし展」はひきつづき神戸の三越でも5月1日より6日まで開催されている。このときの出品は米浪庄弌のもの。実演は高橋盛と高橋正吾であった。この催しはいわゆる第二次こけしブームの助走期間ともいえるものであった。 にほんブログ村にほんブログ村
2020年01月12日
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こけし用語辞典by松田ひろむ【ざんばら】 「ざんばら」とは髪を結わないこと、振り乱れた髪(ざんばら髪)のことであるが、歌舞伎では髷の髻(もとどり)を切った形である。こけしにおける「ざんばら」は歌舞伎が好きだった桜井万之丞(1891‐1969)の考案した形である。昭和40年代後半に土橋慶三が万之丞の原のこけしとえじこを持参して、万之丞二男の佐藤実(1932-)に復元を依頼している。新型こけしや創作こけしを厳しく排斥する土橋慶三であるが、この桜井万之丞の創作した「ざんばら」については評価していたようだ。土橋慶三はこの形に拘りがあったようで『東北の顔 伝統こけしポケットガイド』の5版の表紙に佐藤実の「ざんばら」のえじこを採用している。この桜井万之丞型は現在では佐藤実のみが製作している。 にほんブログ村にほんブログ村 <こけし用語辞典by松田ひろむ>本用語辞典は『こけし辞典』(東京堂出版)、<KokeshiWiki>に立項されていない項目。あるいは内容や定義が相当程度異なるもの。内容を相当大きく充実させたものに限定している。必要に応じ順次充実させてゆきたいと考えている。みなさまのご意見、ご叱正をいただければ幸いである。
2020年01月11日
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こけし用語辞典by松田ひろむ【伝統こけしポケットガイド】でんとうこけしぽけっとがいど 正式名称は『東北の顔 伝統こけしポケットガイド』。版元は緑書店。著者は土橋慶三(1896-1981)。 第2次こけしブームの必携書であり、聖典であった。小生もこけし収集の最初に再版を入手。表紙の巳之助が憧れであった。最初は掲載されている工人をすべて集めようとしていたものだったが、当時は入手方法が現在よりはるかに困難だった。東京ではデパートの催事、民芸店巡りが主な方法だった。 携帯していた再版の『ガイド』は手ずれでぼろぼろになって、その後、第5版を入手したが、通称ざんばらの佐藤実の<ねまりこ>には違和感を感じたものだった。 土橋慶三は伝統こけしを守るためとして「序文」(初版から同じ)、「本書刊行についての皆さまへのお願い」(再版より)で、今日からみると相当激しい言葉で「新型こけし」やその工人を排除することを明言している。 本書は表紙が巳之助(初版から3版、佐藤実(4版、5版)、佐藤丑蔵(6版)の3種があって、これもいまになっては興味深い。第6版まで確認されている。 初版:1975年(昭和50年)7月20日。表紙は佐藤巳之助。 再版:1975年(昭和50年)12月20日。表紙は初版と同じ巳之助。第3版:1976年(昭和51年)3月。表紙は初版と同じ巳之助第4版:1977年(昭和52年)3月。表紙は佐藤実のえじこ(ざんばら 第5版:1978年(昭和53年)3月10日。表紙は4版と同じ佐藤実ざんばら。 第6版:1978年(昭和53年)8月10日。表紙は佐藤丑蔵。このほか1977年(昭和52年)には特装版が刊行されている。特装版には表紙にこけし2本嵌入、肉筆こけし絵付で二重箱であった。こけしは、高橋盛雄・遊佐福寿の組、小林清次郎・会田栄治の組、長谷川辰雄・奥瀬鉄則の組の3種があった。(各50部限定)。 画像は向って左より初版:巳之助、3版:佐藤実、6版:丑蔵土橋慶三の逝去によって、この後1981年には、同じ緑書店より大石真人編による『伝統こけしハンドブック』が刊行されている。 序文 本書刊行のそもそもの目的は、戦後「伝統こけし」を真似した「新型こけし」なるものが現われて、そのイミテーションが氾濫し、一般の大衆には、その区別を見分けることがむずかしい状態と弊害が続出してきました。そこで、わが国の民族文化財として百年 以上の歴史を持つ「伝統こけし」の本体と真髄を博く一般のみなさんに知らしめるために本書の刊行を企図したのが、今から十七年前の昭和三十三年の初頭でした。 東京•四谷の美術出版社前社長•故大下正男さんの採算を度外視した義俠的な賛助により、初版五千部という、その当時としてはまったくわれわれの予期もしなかった部数でした。そして七版まで行き、これを絶版といたしました。その当時の美術出版社側の編集担当者は安田耕一郎さん、永井慶太郎さん、有吉成ーさん、写真は二川幸夫さんでした。 さらに、昭和四十八年九月二十日『伝統こけしガイド』の大型新版が発行され、既に三版を重ね、各方面から絶大な支持と好評を博しております。 ところが、旅行携帯用旧小型判所有の読者のみなさんから、もう一度小型ボケット判を出してもらいたいとの要望がたくさん参りましたので、「東京こけし友の会」の同志である大石真人氏に、その話をしたところ、それではうちの店(緑書店)で引受けてあげましょう、とのことで美術出版社の方の諒解も得て、『伝統こけしボケットガイド』新版を出すことに決めた次第です。 したがって、読者のみなさんも、旅行携帯用には緑書店刊の『ポ ケットガイド』を、また、こけしの各部門の詳しい研究には美術出版社刊の大型『伝統こけしガイド』を、百パーセント御利用くださいますようお友達にもお奨め願います。 昭和五十年六月 土橋慶三 敬白 「本書刊行についての皆さまへのお願い」(抜粋) 本書は自他ともに「伝統こけし」工人として認める工人のみ紹介することを趣旨とし、「新型こけし」工人や「伝統」「新型」同時に作る両刀使いの工人の紹介は。一切これを拒否しております。二十年間「伝統こけし」を守り育てる運動を実践してきた我々にとって、「新型」工人を紹介する義務も余裕もありません。(中略)また両刀使いの工人は、今後いずれの道へ進むのかはっきり態度を表明することが先決だと思います。 にほんブログ村にほんブログ村 2020/2/7第3版、第4版追加。 <こけし用語辞典by松田ひろむ>本用語辞典は『こけし辞典』(東京堂出版)、<KokeshiWiki>に立項されていない項目。あるいは内容や定義が相当程度異なるもの。内容を相当大きく充実させたものに限定している。必要に応じ順次充実させてゆきたいと考えている。みなさまのご意見、ご叱正をいただければ幸いである。
2020年01月10日
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こけし用語辞典by松田ひろむ【横浜こけし会】よこはまこけしかい かつて横浜に存在したこけし収集家の団体。創立は1975年(昭和50年)4月6日。創立時の会員は30名。1975年10月より機関紙「こけし春秋」をほぼ隔月刊で発行した。 隔月に例会を行い、こけしの頒布や工人を招待するなど活発な活動を行っていた。例会の参加者も最大で150名が記録されている。 発起人は廣瀬敏雄、渋谷利一郎、渡辺衛、中島敬之、石橋貞雄。代表世話人は廣瀬敏雄。歴代の主要世話人は上記以外に、中島俊三、山下光江、森茂次郎、杉山征男、今村泰雄、善養寺幸児、目黒一三など。 解散は1997年(平成9年)11月。例会は11月16日(鶴見会館)が最終であった。「こけし春秋」は124号まで発行された。解散の主要な原因は代表世話人広瀬敏雄が病に倒れたこと。広瀬に代わる後継者がいなかったことである、 招待工人は1977年第14例会からで、招待順に14小林定雄、15稲毛豊、16小関幸雄、17西山憲一、18小林清次郎、19佐藤文男、20高橋正吾、21佐藤辰雄、22阿部平四郎、23渡辺忠蔵、24佐藤文吉、25奥山庫治、26井上四郎、27伊藤松一、28会田栄治、29佐藤守正、30奥瀬鉄則、31阿部進矢、32国分栄一、33佐藤三蔵、34瀬谷重治、35広井政昭、36岡崎昭一、37佐藤誠孝、38岡崎斉司、39本田亀寿、40稲毛豊、41新山学、42国分栄一、43柿沢是隆、44梅木修一、45阿部計英、46佐藤哲郎、47小倉勝志、48佐藤英太郎、49大沼君子、50阿部正義、51佐藤憲雄、52新山純一、53大沼力、54佐藤昭一・キク、55佐々木覚平、56本田亀寿、57六郷満、58新山実、59会田稔、60稲毛豊、61佐藤勝洋であった。(「こけし春秋」56号) にほんブログ村にほんブログ村 <こけし用語辞典by松田ひろむ>本用語辞典は『こけし辞典』(東京堂出版)、<KokeshiWiki>に立項されていない項目。あるいは内容や定義が相当程度異なるもの。内容を相当大きく充実させたものに限定している。必要に応じ順次充実させてゆきたいと考えている。みなさまのご意見、ご叱正をいただければ幸いである。
2020年01月09日
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こけし用語辞典by松田ひろむ【日本伝統こけし展】にほんでんとうこけしてん 第1回から第10回まで新宿小田急百貨店で開催された「伝統こけし三十人展」の後を受けて、より規模を拡大したとして、1983年(昭和58年)には同じく小田急百貨店で「第1回日本伝統こけし展」が7月15日から20日まで開かれた。主催は日本伝統こけし協議会(実行委員:斎藤良輔・柴田長吉郎・中島一男・箕輪新一・善養寺幸児)。 このときもコンクール形式で行われ、大賞に里見正博の胞吉型8寸が選ばれ、図録も発行されている(表紙こけし絵は佐藤巳之助)。 このこけし展では、審査員にこけし関係者(西田峯吉・橋元四郎平・中屋惣舜・森田丈三・菅野新一)だけでなく、写真家(秋山庄太郎)、日本画家(福王寺法林)、彫刻家(飯田善国)、人形作家(金林真多呂)、人形研究家(アン・へリング)を加えて10名、より広い方々から「こけしの美」を評価するというものであった。展示会終了後、この展示会への出品作は受賞作も含めて一般に販売された。 こけし千夜一夜物語897夜にはこのとき優秀賞とされた遊佐福寿について触れられている。なお優秀賞は10名(渡辺忠雄・稲毛豊・井上ゆき子・遊佐福寿・菅原和平・伊豆護・小林忠次郎・秋山一雄・高橋雄司・奥瀬鉄則)、佳作は20名(西山憲一・阿部新一・新山左京・佐藤誠孝・佐藤文男・佐藤英太郎・斎藤良輔・大沼昇治・佐藤文吉・六郷満・大沼秀雄・岡崎斉一・須貝国雄・桜井昭寛・佐藤一夫・小林清次郎・阿部正義・阿部進矢・田中敦夫・佐藤きく)。このときは125人の工人から224本の出品があった。 第2回日本伝統こけし展の審査は1984年(昭和59年)5月13日に行われ、最優秀賞に高橋正吾、優秀賞に稲毛豊他10名、佳作賞に渡辺忠雄他20名が選ばれた。審査員は前年とうって変ってこけし関係者16名だった。この結果を受けて1984年(昭和59年)6月8日より13日まで小田急百貨店11階グランドギャラリーにおいて「井上ゆき子と第2回日本伝統こけし展」が開催された。実演は井上ゆき子・はる美と最優秀賞の高橋正吾であった。この日本伝統こけし展が第3回以降も開催れたかは未詳である。(2010/1/29)第2回を追加、一部訂正。 にほんブログ村にほんブログ村 <こけし用語辞典by松田ひろむ>本用語辞典は『こけし辞典』(東京堂出版)、<KokeshiWiki>に立項されていない項目。あるいは内容や定義が相当程度異なるもの。内容を相当大きく充実させたものに限定している。必要に応じ順次充実させてゆきたいと考えている。みなさまのご意見、ご叱正をいただければ幸いである。
2020年01月08日
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横浜こけし会入会も1977年(昭和52年)だった-文吉の天童移住のころ 最近、横浜こけし会の会報「こけし春秋」のバックナンバーを入手。それぱらぱらとめくっていたら、新入会員欄に私の名前があった。「こけし春秋」第11号(昭和52年7月25日)101ページ。東京こけし友の会入会も同じ1977年(昭和52年)だから、このころは、すっかりこけし熱に浮かされていた時期であった。横浜こけし会のことは忘れていたが、やはり記憶より記録である。おそらくはこのころ横浜の例会(鶴見会館)にも出席したと思われる。横浜こけし会の「こけし春秋」は、その後124号までは確認できる。現在では横浜こけし会のことは聞かない。11号の記事の中では、佐藤文吉が及位から天童市に転居したことが書かれている。及位の文吉を訪れた善養寺幸児氏の記録「さらば及位よ!!」で、それには1977年(52年)5月20日の日付がある。とすれば実際の移転は1977年(52年)6月か7月であろう。文吉ファンとしては正確な日時も知りたいと思っている。ただ、このころは文吉に関心があったわけでもなくひたすら工人の種類を増やすことに夢中になっていたころである。画像は1978年(昭和58年)の文吉19.5㎝。及位の時代の強烈さが薄れ新たな天童の文吉の始まりである。 にほんブログ村にほんブログ村
2020年01月07日
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鹿間時夫の愛した菅原庄七(戦前作)44㎝、戦前作と思える菅原庄七44㎝をヤフオクで入手した。これまで、庄七は何本か持っていたがそれは戦後のもので、特に心に響いてくるものはなかった。ところが、年末に「伝統こけし」とだけ表示されていた庄七はきりりとした表情もよく、これはかつて鹿間時夫が愛した時期のもののように思えた。入札は5名の競り合いだったが特に高値になることもなく、夏目漱石数枚で落札することが出来た。これは望外のことで出品者が菅原庄七とか戦前作としていれば、まったく違った結果になっていたと思える。表情や四つ爪であることとKokeshiWikiなどから判断して、戦前作と判断した。署名は「宮城県名取郡秋保温泉 菅原庄七」とあり胴がやや太いことなどから昭和15年、16年ごろのものと思える。菅原庄七は1895年(明治28年)-1972年(昭和47年)で、鹿間時夫は桜井玩具店の看板娘となっていた昭和初期の庄七を入手し、コレクションのなかで1本を残すとすればこの庄七といったという。(KokeshiWiki)入手した本品はその昭和初期に近い作風で44㎝という大ぶりこととも合いまって、大らかで心安まる逸品である。 にほんブログ村にほんブログ村
2020年01月06日
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今晃の年賀状!今年も期待したい 今晃ファンクラブからの年賀状は手描きのもの。紅いのは南天らしい。それに12月12日に落札した長谷川辰雄型18.5㎝を配してみた。独特の胴模様は蟹菊というらしい。蟹菊と言えば作並系のそれだが、これも蟹菊の一つという。今晃は、津軽系のいろいろな様を見せてくれる。もちろん木地の技術は鳴子で修業しただけあって抜群だが、それを見せない。面描も一つずつ工夫されているため、飽きないのだ。今年も期待したいが、彼も1953年生れの66歳で、体調が悪いとも聞くが、まだまだ60代、鳴子の高橋正吾(1929年-)の90代に比べればはるかに若い。 にほんブログ村にほんブログ村
2020年01月05日
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驚きの高橋忠蔵76才25㎝「おかめ」高橋忠蔵は幅の広い工人であることは知っていたが、この七十六才25㎝のこけしを見たときは驚いた。下膨れの顔の形状はなんと呼べばいいのだろうか。仮におかめ(お亀)と呼ぶことにした。しかし「おかめ」で検索すると、高橋通に「おかめ」と称するものがあったので、忠蔵から通と継承されているわけだった。私のコレクションに高橋佳隆は80本以上あるが、同様の作例はなかった。なお佐藤丑蔵にも「おかめ」と称するものがあるが、本品とは形状が異なる。 本品は25㎝で、これも工人名もなく単に「伝統こけし」としての出品であった。保存状態もあまり良くなく、相当の色褪せがあり、向って右目の上にアタリ傷もあるもの。色の濃さは有色材かも知れない。そのためか、送料とも2100円という結果だった。忠蔵の楽しさ、大きさの発見であり驚きの一本であった。画像は忠蔵と通(下)であるが、通がさらに誇張していることは明らかである。 にほんブログ村にほんブログ村
2020年01月04日
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花屋商店(昭和16・17年)の渡辺求25㎝ 戦前作いわゆる古品はなるべく求めるようにしているが、お正月早々に岩代熱海の渡辺求の25㎝がやってきた。頭部の緑は消え眉間に小さなアタリ傷があるものの落札結果5100円+送料850円はまずまず。 胴底に「渡邊求製作」「熱海コケシ」「岩代熱海温泉花屋商店」と右書きの三行のスタンプがあって、KokeshiWikiによれば、これは昭和16・17年ということらしい。それはいいのだが、求は当時郵便局の配達夫をしていて寡作だったため遠刈田の佐藤好秋の代作があるという。これはまさにそれ。好秋の場合は上部の菊の模様の先が下がるというが、これは蝶のように上がっている。求に間違いない。 戦前は撥鼻というがこれは猫鼻。「木の花」14号によれば後期のもの。緊張感という点では中期にやや劣るが、面描をよくみるとしっかりした意志が感じられ、また一種のほのぼの感もあって、これはこれでいいものだろう。花屋商店のスタンプも今となっては貴重。 なお熱海は「あたみ」と読む。これは旧領主安積(伊東)祐長の出身地の伊豆の熱海温泉に因む。なお旧国鉄の駅名は1898年「熱海駅」(岩越鉄道)-1925年「岩代熱海駅」-1965年「磐梯熱海駅」と変遷している。 【渡辺求】わたなべ もとむ(1898年(明治31年)-1968年(昭和43年) [人物] 福島県双葉郡浪江町権現堂に10人兄弟の四男として生まれる。家は金具鍛冶職で、親、兄弟に木地の関係者はいない。父が毎年鎌先温泉に湯治に行っていたので、木地細工に目をつけ、明治44年、14歳の求を宮城県弥治郎の佐藤栄治に弟子入りさせた。求は佐藤栄治やその長男伝内について木地を修業した。相弟子に蔦作蔵、鎌田文市、本田鶴松、佐藤雅雄などがいた。そのころ、青根からきた伝内の従兄の佐藤久蔵や先輩の本田鶴松、伝内の末弟の五月などの指導も受けたという。大正7年、21歳のとき7年間の年期があけて、引き続き3年間職人として給料を貰って働いた。ついで、そのころ弥治郎にいた本田鶴松の家で働き、その後、浪江に帰って大国屋木工場で会津から来た5人の職人と共に働き、約1年火鉢や傘のロクロなどを挽いた。その後、一時上京して船員を志望したが果たせず、市電の車掌になったが東北訛りで停留所名を乗客に正しく伝えられず断念して東北に戻った。その後、青森県三厩の佐藤(白川)久蔵、弥治郎の佐藤栄治、小野川の蔦作蔵、飯坂の佐藤栄治、白石の鎌田文市などのところを転々とし、昭和4年岩代熱海(現在の磐梯熱海)に落ちつき、独立して木地屋を開業した。しかし、磐梯熱海は木地製品の販路狭く、売り上げも限られていたので、昭和13年より同地の郵便局に配達夫として勤務した。以後、余暇にこけしを製作した。昭和36年ころ、郵便局を退職し土産物店を経営のかたわらこけしを挽くようになった。昭和38年自宅の前に住んでいて幼いころから可愛がっていた佐藤孫右衛門の長男佐藤正が弟子入りを志願した。正は鉄道の保線区勤務のかたわら木地を挽き、昭和40年から渡辺求譲りのこけしを作る様になった。昭和42年ころより体力、視力衰えこけしの製作量は非常に少なくなった。最晩年には佐藤正のこけしを店に並べていた。(KokeshiWiki) [作品]〈こけしの追求〉によれば師匠の伝内はこけしを作らず、主に伝内の父栄治がおもちゃを挽き、こけしは上手であったという。明治末年から大正初年にかけての弟子時代はこけし専門に作り、主に7寸までで6寸からはめ込みにし、5寸で五銭位であったという。中屋惣舜旧蔵品は、一見青根風の作りつけで、中屋惣舜は佐藤久蔵に仕込まれた頃(大正2~5年)の作ではないかとしている〈木の花・14〉。 天江コレクションにある4寸(〈図説「こけし這子」の世界・50図)も同種の作。これらはおそらく大正初年ころの作か、あるいはその頃に佐藤久蔵に仕込まれた型を継承して作ったものと思われる。佐藤春二によれば、求は久蔵に強く影響を受けていたという。昭和4年、岩代熱海に来たころの作品として〈こけしと作者〉〈こけしの美〉96図がある。小野川の蔦作蔵の初期作品に酷似したこけしである。あるいはこの手の作品の中には、作蔵の職人をしていた小野川時代(正末昭初)の作品も混在しているかもしれない。中屋惣舜は〈木の花・14〉で渡辺求の年代変化を議論しているが、額に描かれる青・赤・青の半円型の飾りとベレーの周囲に描かれる髪との関係が一つの決め手になると指摘している。(1)半円型飾りと髪との間に殆ど空間がない 昭和2~3年以前。(2)半円型飾りと髪との間に広く空間がある 昭和4~5年ころ。(3)半円型飾りと髪との間の空間に二筆で斜めの髪をくわえる 昭和6~7年以降。ただし、大筋ではこの傾向が認められるが、必ずしも決定的な鑑別特徴ではないと思われる。〈図説「こけし這子」の世界〉の一本は大正10年に手に入れたものであるが、様式は(2)に近く、また同書掲載の昭和2年入手といわれるものには半円型飾りと髪との間の空間に一筆ではあるが斜めの髪が描かれている。昭和14~16年の作品には、面描に撥鼻、胴下部に牡丹を描く様式のものも作った。昭和16、7年頃に岩代熱海駅前の花屋土産物店で売られた渡辺求型のこけしには、店主の依頼で遠刈田の佐藤好秋の代作がある。〈鴻・14〉でその鑑別が議論された。基本的には、胴模様の重ね菊上部花弁が、求の場合は終端が上向きで重ね菊全体が蝶のようになるのに対し、好秋のものは遠刈田式重ね菊で上部花弁も下がったように描かれている。戦後はややずんぐりした体型のこけしになったが、寡作ながら製作は続けた。昭和42年に体調を崩し、以後はさらに寡作となった。弥治郎の佐藤栄治の作風、さらに佐藤久蔵の作風を偲ぶことの出来た貴重な作者であった。(KokeshiWiki抜粋) にほんブログ村にほんブログ村
2020年01月03日
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こけし工人ランキング(仮)2020年1月驚きの阿保金光(故人)が一躍2位に、六知秀もランク入り現役工人の上位はほとんど変わらないが、阿保六知秀がランク入り。阿保一家が注目を集めているといっていいのだろうか。その阿保一家の阿保金光も故人の部で一躍2位にランクされた。これも相当数出品され、いずれも高値をつけたため。奥瀬恵介は落札数が少なくなったために、ランク外となった。画像は阿保金光で2019年12月26日に12㎝という小寸ながら20401円の落札結果。これは川越謙作風の眠りこけし。同じく12㎝で子持ちは2018年6月4日に17100円で落札されている。こけし工人ランキング(仮)現役工人1月 12月11月工人名系統人気指数1‐11盛美津雄津軽4,6462↑62阿部木の実木地山3,8793↓26佐藤英太郎遠刈田3,7744‐45奥瀬陽子津軽3,3935‐53今晃津軽3,0486↑1012笹森淳一津軽2,7597↑11 石川美祈子津軽2,6508↑9 佐藤良子遠刈田2,4619↓77鈴木明山形作並2,42610↓810本間直子津軽2,33711↑1513高橋正吾鳴子2,26412‐128荒川洋一土湯2,19813‐139高橋順子土湯2,08714‐1415高橋通土湯2,05415↑ 阿保六知秀津軽2,02316↑1918佐藤一夫遠刈田1,98617↑23 梅木修一蔵王高湯1,83618↓1614小林定雄遠刈田1,82419↑22 山谷レイ津軽1,79820↑2423西山敏彦弥治郎1,779こけし工人ランキング(仮)物故工人1月 12月11月工人名系統人気指数1↑22盛秀太郎津軽5,8632↑ 安保金光津軽5,4913↓11佐藤文助遠刈田4,2244‐49佐久間俊雄土湯3,8985↑88佐藤文吉遠刈田2,8126↓33松田初見鳴子2,7917↑1213瀬谷重治土湯2,5948↑1021高橋忠蔵土湯2,4849↓54奥瀬鉄則津軽2,30610↓75大野栄治弥治郎2,17911↑ 高橋兵治郎木地山2,04912↑1312井上ゆき子弥治郎1,91113↓914小関幸雄弥治郎1,89514↑1516桜井昭二鳴子1,83515↓1410小椋久太郎木地山1,79916↑1720佐藤丑蔵遠刈田1,77717↑1919遊佐福寿鳴子1,67018↑2225佐藤春二弥治郎1,65719↓1111高橋盛鳴子1,64520↑2526佐藤守正遠刈田1,642 にほんブログ村にほんブログ村
2020年01月02日
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佐藤文吉で2020年明けましておめでとうございます 2020年の夜明け。なんとなく区切りがいいね。今年もこけし収集を楽しみたいもの。今年最初を飾るのはやっぱり佐藤文吉。それも最近入手した60代後半のものを揃えてみた。こうして並べてみると、なにか励まされることが不思議だ。やはり文吉の呪力の凄さなのだろう。向って左から26㎝髷付くびれ胴65才。中央は20㎝これは年代不明だが面描から同時期のもの。25㎝は63.3.8の日付入りでやはり67才。小生ただいま81才、当面の目標90才まで健康かつ、こけし収集も、社会活動にも励みたいもの。俳句は千日千句継続中。今年もよろしくお願いします。 にほんブログ村にほんブログ村
2020年01月01日
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阿保金光2点を落札!最近、その魅力に驚いた阿保金光であるが、それまで活発な製作活動をしていたことや、津軽こけし館の実演工人でもあって、いつでも手に入ると思っていた向きも多いようだ。くも膜下出血で急逝されたときの衝撃は、各種のサイトに残されている。亡くなってその魅力にあらためて気付いた向きもあるようだ。その、阿保金光の2本をヤフオクで別々に入手できた。18㎝と30㎝で胴模様が違うだけで基本的には幸兵衛-善二の型であろう。ただし顏は独自のもので、ヘタウマであろうが、それがいい。このことは本人も自覚的で『やさしさの匠』で次のように「愛嬌があるかな」と書いている。「初めの頃はずいぶん変なものも作ったりしましたが、自然に兄の型に/なってきましたね。ただ顔は意識して変えています。兄の描くこけしは目が細くてやさしい顔立ち、私のはちょっと愛嬌があるかな。」(津軽工人会編『やさしさの匠』 平成6年) にほんブログ村にほんブログ村
2019年12月31日
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こけし用語辞典by松田ひろむ【修業】しゅぎょうこけしの雑誌・書籍やネットなどで「修業」と「修行」があまりにも混用されていて、いらだつことが多い。「奥瀬鉄則は・・・盛秀太郎につき木地修業を始め」「石塚智は・・・最初は3年間の修業の約束であったが、食糧事情で1年半の修行となった。」(KokeshiWiki)佐々木一澄『こけし図譜』は「(西山敏彦は)6年ほどで木地修行を中断」「(岡崎幾雄は)祖父に修行の成果を見せようと」などすべて「修行」である。ここまで修行になっているとこの本の価値自体に疑問符がつきかねない。『こけし辞典』ではきっちり「修業」に統一されていて「修行」はない。「修業」に替えて「習得」「弟子になる」などの記述もある。KokeshiWikiの場合は誤変換(誤植)の範囲であろう。こけし工人(木地師)の場合は「修業」であって「修行」ではない。この二つははっきりと区別されている。「修業」(しゅぎょう)とは一定の技術・学芸を身につけること。「修行」(しゅぎょう)とは精神を鍛えること。(仏教あるいは学問や技芸を磨くために努力すること。) つまり工人が師匠について学ぶのは修業で修行ではない。工人自身が「私は一生修行」です」というのは精神的な意味でいいとしても、客観的な記述では「修業」である。なお「修業」は、もともとは「しょうぎょう」と読んでいて、現在でも「修業証書」などと使われることがある。【修行】しゅ‐ぎょう〔‐ギヤウ〕[名](スル)1 悟りをめざして心身浄化を習い修めること。仏道に努めること。2 托鉢 (たくはつ) ・巡礼して歩くこと。「全国を修行する」3 学問や技芸を磨くため、努力して学ぶこと。「弓道を修行する」「武者修行」熟語:修行僧、修行者、修行位【修業】しゅ‐ぎょう〔‐ゲフ〕[名](スル)学問や技芸を習い、身につけること。しゅうぎょう。「修業中の身」「師のもとで修業する」「花嫁修業」(Goo辞書) [佐藤俊明のちょっといい話]第51話 「修行」と「修業」 文章を書くとき、私は必ず「修行」とかいているのだが、漢字になったものをみると「修業」にあらためられていることが一度や二度ではない。 編集者が用語の慣例に従って親切に訂正してくれるのだろうが、実は有難迷惑なことである。 なぜなら「修行」と「修業」では肝心の意味が違うからである。「修業」とは一定の業を修めることで、基準に達すれば「卒業」となり資格がつくのだが、「修行」には「卒行」がない。終わりのない行を修めるのが修行である。 終わりのない行とはなにか。 それは仏祖の践み行われた大道のことであり、それを修め護持するのが修行である。換言すれば「修業」とは自分のため、自分の利益のために業を習いおさめるもの。「修行」はなにも求めず、利害損失を離れて、昔の悟りを開いた人々の道と行ずることである。 唐の時代、馬祖道一(ばそどういつ)が座禅修行に励んでいるところへ師匠の南獄懐譲(なんがくえじょう)がやってきて「感心に座禅をしているが、それは何のためだ?」と訊ねた。「仏になるため」つまり悟りを開くためですと馬祖が答えると、南獄は瓦を持ってきて、石にあててこすりはじめた。馬祖が「何をなさるんですか」と訊ねると、南獄は「磨いて鏡にするんだ」という。「瓦を磨いても鏡にはならんでしょう」と馬祖がいうと、南獄は「座禅をしてどうして仏になれるのか」といって、座禅を悟りの手段と考えることを戒めた。 座禅をしながら悟りを待ち望む思いがあってはならぬ。修行はそれを利するための手段であってはならぬというのである。(画像は修業中の木村敦(弥治郎こけし村)2018年4月18日「河北新報」) にほんブログ村にほんブログ村 1/29『こけし図譜』追加。 <こけし用語辞典by松田ひろむ>本用語辞典は『こけし辞典』(東京堂出版)、<KokeshiWiki>に立項されていない項目。あるいは内容や定義が相当程度異なるもの。内容を相当大きく充実させたものに限定している。必要に応じ順次充実させてゆきたいと考えている。みなさまのご意見、ご叱正をいただければ幸いである。
2019年12月30日
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こけし用語辞典by松田ひろむ【伝統こけし三十人展】でんとうこけしさんじゅうにんてん「伝統こけし三十人展」は新宿・小田急百貨店で株式会社東観(代表:善養寺幸児)主催により1973年(昭和48年)より10年間開かれた展示即売会(併催:江戸独楽と木地玩具の会)。毎回メインとなる工人をあげ「○○と伝統こけし三十人展」としたもの。第1回は佐藤丑蔵で第二回忠蔵から図録が発行された。第1回と第2回は「伝統こけし三十人展」ではなく「こけし三十人展」。いわゆる第2次こけしブームを支えた企画であったが、ブームの終焉とともに打ち切られた。丑蔵と第一回こけし三十人展(昭和48年4月8日~13日)八十一翁高橋忠蔵と第二回こけし三十人展(会期未詳)春二と第三回伝統こけし三十人展(昭和50年3月28日~4月2日)福寿と第四回伝統こけし三十人展(昭和51年6月18日~6月23日)奥瀬鉄則と第五回伝統こけし三十人展(昭和52年6月10日~6月15日)佐久間虎吉と第六回伝統こけし三十人展(昭和53年7月14日~7月19日)佐藤文吉と第七回伝統こけし三十人展(昭和54年7月13日~7月18日)桜井昭二と第八回伝統こけし三十人展(昭和55年7月18日~7月23日)佐藤英太郎と第九回伝統こけし三十人展(昭和56年6月5日~6月10日)小椋久太郎と第十回伝統こけし三十人展(昭和57年6月4日~6月9日)(画像は最初の図録「八十一翁忠蔵と第二回こけし三十人展」表紙と口絵62才作) にほんブログ村にほんブログ村 <こけし用語辞典by松田ひろむ>本用語辞典は『こけし辞典』(東京堂出版)、<KokeshiWiki>に立項されていない項目。あるいは内容や定義が相当程度異なるもの。内容を相当大きく充実させたものに限定している。必要に応じ順次充実させてゆきたいと考えている。みなさまのご意見、ご叱正をいただければ幸いである。
2019年12月29日
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「こけし往来」第62集がやってきた-佐藤直助など書肆ひやね発行のこけし入札即売誌「こけし往来」第62号が着いた。表紙は入札(番外品)の佐藤直助24.5㎝米浪旧蔵『こけし美と系譜』掲載品で、最低価400,000円である。由緒正しい逸品であるが、40万円ではとてもではないが手が出ない。残念。その他入札では佐藤文六20.8㎝にも心魅かれたが最低価40,000円では決心が付かない。入札は54点、即売は408点。その他委託入札もある。読み物としては箕輪新一「白鳥文書」がある。60ページ。 入札の締切は2020年1月11日午後2時であるので、まだ間に合う。興味のある方は書肆ひやねまで。 にほんブログ村にほんブログ村
2019年12月28日
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ちょっと残念な『こころのこけし権田幸喜こけしコレクション』 こけし関係の主要な書籍はなるべく購入しているが今回は『こころのこけし権田幸喜こけしコレクション 』(発行:クリタ社、発売:中日新聞社、2016年4月27日、ISBN978-4-8062-0707-8)を手に入れた。 大型本でオールカラーの豪華本で3000円は安い。3000本のコレクションから精選した215ページである。巻末には高橋武俊43㎝、阿部常吉54㎝が原寸大で紹介されている。レイアウトも洒落ているし、読むというより見て楽しむ本である。(工人の紹介は横書きで行間が詰まっているために見づらい。) また、あとがきに「東日本大震災を機に、東北のこけし作りを応援していこう」という気持ちが本書出版のきっかけとなったと記されている。その趣旨やよしである。 掲載されたものは主に戦後(現代)のもので、いわゆる戦前の古作はない。それはそれでいいのだが、私には権田氏のこけし収集についての哲学が感じられなかった。哲学といえば大袈裟かもしれないが、それはポリシー(方針)といってもいい。ただ漫然と集まったなかからお気に入りのものを並べているように思えるのだ。 例えば土湯でいえば戦前の佐久間由吉はなくてもいい。しかし芳衛・芳雄があって俊雄がない。鯖湖では渡辺喜平・幸典・稲毛豊・高橋忠蔵・佳隆・通があっても渡辺義徳・高橋順子・美恵子はない。 津軽系では本間直子はあっても、笹森淳一・今晃・阿保金光はない。さらに戦後の主要工人といえる佐藤文吉は36才が1本のみ、佐藤文助は0というように精粗が甚だしい。 特に入手難ともおもえないのだが、なぜだろうか。 また、これは凄いという目玉のこけしもなかった。 権田氏はなにを基準に掲載しているのだろうか。私にはそれが見えてこなかった。コレクションというからには、ある一定の範囲であっても一応の完結がないと人には見せられないのではないだろうか。 現代の工人というのなら、高井佐寿『東北のこけし』(光芸出版、ISBN978-4769401339)はほぼ完璧に網羅されていて、これは私の左右の書となっている。 つまりは、『こころのこけし』は功成り名を遂げた方の、ご自身のためのものとして出版したと考えれば納得できる。続編も出版されるとのことであるが現在のところ未見である。続編は以上の点を考慮していただければありがたい。(ちなみに権田氏は1938年生れというから私と同年である。)ちょっと残念な書であった。 著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より) 【権田幸喜】(ごんだ こうき) こけし収集家。有限会社リマック代表。昭和13年(1938年)愛知県知多郡大野町(現・常滑市)生まれ。昭和32年(1957年)愛知県立横須賀高等学校卒業後、同32年4月、東京都内にある東京服装学園第一デザイン科に進学。同学園卒業後、東京服装学園講師となる。同学園講師時期、テレビ番組で岡本太郎氏とファッションについて対談するほか、新聞広告等のモデルにも採用される。のち服飾業の会社を立ち上げるも、昭和49年(1974年)服飾業界から撤退。その後、保健代理店業に入り、平成5年に現在の保険代理店会社(有限会社リマック)を法人として設立(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです) にほんブログ村にほんブログ村 本稿はamazonカスタマーレビューにもアップされています。
2019年12月27日
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こけし工人名鑑by松田ひろむ【今晃】 【今 晃】(こん あきら)[人物]1953年(昭和28年)4月23日、秋田県大館市に生まれる。(秋田県立鳳鳴)高校時代までは陸上競技をやっており、図画工作は得意ではなかった。高校3年の9月に、(昭和43年)新聞記事にて「大湯のこけし継承者がいない」事を知り、前より「自然と生きたい」と思っておりその日のうちに工房を訪ねた。学生の間は土日に工房へと通い、卒業と同時に(十和田工芸所に)住み込み就職をした。「ここでは奈良靖規のもと、川連の大類連次工人の手ほどきを受ける。大湯に古くから伝わる小松五平型の制作を勧められ、観光こけしの木地制作を主に手がけるかたわら、名古屋こけし会にはじめて五平型こけしを送る。」(「こけし時代」) 昭和49年12月末に佐々木金一郎に弟子入りが決まっていたが、金一郎は弟子入り前日(昭和50年1月30日)に急逝した。その葬儀時に長谷川辰雄に弟子入りが決まる。 昭和51年3月下旬まで大鰐の金一郎作業場で、辰雄師匠と一緒に制作をする。4月、弘前市門外町に辰雄師匠と移住し、辰雄型こけしを制作するが師匠には「ヘタクソ!」と言われ 「署名はきちんと書くように」と言われ習字を習い楷書体で書く。昭和52年6月、辰雄師匠から弟子あがる。 昭和52年7月、本田功宅にてこけし制作をする。本田功に署名は「弘前で作るこけしだから、弘前と入れた方がよい」と言われる。昭和53年3月まで「弘前今晃」である。昭和53年1月、名古屋こけし会頒布は「現在の北の奇蹟」と絶賛される。昭和53年2月「木の花」で北村勝史「戦後の佳作」で取り上げられる。昭和53年4月、「木地挽きを本格的に基礎から行いたい」と、鳴子の岡崎斉司に弟子入りをする。ただ、ひたすら木地挽き専門で、こけしへの描彩は全く行わなかった。 昭和56年10月、斉司師匠からあがり、帰弘。昭和56年11月、弘前市内金属団地に移住。「こけしの館」にて、長谷川健三、本田功と一緒に、木地玩具などを制作する。昭和57年1月、大浦泰英の注文で(三上文蔵型)ペンシルこけし写しが初作である。 昭和57年より、東京下井草の民芸店「おおき」(大木幸蔵)が月2回の頒布を始める。昭和57年9月、29歳で結婚(妻良子21歳)を機に禰宜町(ねぎまち)に移住し、自分のロクロを設置、独立する。しかし、電気工事が間に合わず、木を削った鉈こけしを制作する。禰宜町こけし初作は11月になる。 (禰宜町は「とっても幸せなイイ時代だった」が「時代が変って、周りが騒がしくなって、一軒家だったけど、木取りや木地挽きの作業が出来なくなって」(「こけし時代」)昭和58年5月、嶽温泉開拓地に移住する。嶽での初作は6月末になる。(坂入良善「木おぼこの世界・今晃」・『木おぼこ今晃-今晃こけし図譜』より、一部表記変更補足)平成7年、齊藤純廣(よしひろ)主宰の今晃ファン倶楽部・9名でスタート:第一回こけし頒布を実施。平成15年6月3日~10月5日、仙台市・カメイ記念展示館にて「第一回:今晃の世界」こけし展開催、第一期 6/3~7/27 第二期 7/29~10/5。平成21年6月16日~9月27日、仙台市・カメイ記念展示館にて「第二回:今晃の世界」こけし展開催。平成23年(2011年)8月、「こけし時代」創刊号の表紙を飾る。伊太郎型など作品、写真多数掲載。これをみて石川美祈子は弟子入りを志願することとなる。平成25年3月31日~平成25年5月18日、黒石市・津軽こけし館にて、今晃還暦記念特別企画:「第三回:今晃の世界」こけし展を開催。平成24月28日:今晃の世界「嶽を訪ねるツアー」開催(沼田元氣夫妻含め、全国から16名参加)。平成25年10月22日~平成26年1月19日、仙台市・カメイ美術館にて「第四回:今晃の世界」こけし展開催 第一期 10/22~12/1 第二期 12/3~H26.1/19。12月7日:ギャラリートーク開催。「嶽はいい時代だったが、好き勝手やっていて検査とか病院とか一切行かないから痛風だの、原因不明の病気になって歩けなくなっちゃった。」(「こけし時代」)平成26年5月、秋田県大舘市の実家に帰り製作開始。この頃より良子夫人との二人挽きにも挑戦するようになった。平成26年10月5日~平成26年11月14日、 黒石市・津軽こけし館にて:写真集『今晃木形子の世界/今晃の玩具図譜』発売記念「第五回:今晃の世界」こけし展を開催。ファン倶楽部頒布こけしの全てと、弘前市・安達コレクションの玩具を多数出品。平成27年(2015年)4月28日『今晃こけしBOXセット』 限定150部 (全冊サイン/シリアルナンバー入)発売。箱入り特装本・こけしを含む10大付録付き 平成28年(2016年)10月25日~平成29年1月22日。 仙台市・カメイ記念展示館にて「第六回:今晃の世界/ファン倶楽部20年の歩み」こけし展開催。11月19日:ギャラリートーク開催平成31年(2019年)3月5日、TBSの人気番組「マツコの知らない世界」で、こけしが取り上げられ、今晃さんのこけしが紹介されました。ゲスト出演:渡辺純・麻依子兄妹。今晃のこけし紹介のなかで、マツコ・デラックスが今晃のこけしを手に取り、「今日イチなんですけど」、「ものスゴい癒されるわ」、「ちょうだい、お金払うわよ!」、「やばくない?」。なんと放送10分で、ホームページ「今晃の世界」へのアクセス数が1500件となった。(「今晃の世界」より。「こけし時代」創刊号、第11号別冊により追加)[作品]一人の工人とは思えないほど多彩。泥臭い津軽系のすべての形に挑みつつ本人型も作る。さらに鳴子系の小松五平型もある。描彩は「省略と飛躍」と指摘する向きもあるように、伝統を踏まえつつそれを越える。基本的には戦後の盛秀太郎へのアンチテーゼであるといえよう。本人は右利きであるがこけしの描彩は左手を使うときもある。「上手に描こうとする心から自由になる為」(「こけし時代」)という。清俊夫は「あるべき津軽こけし、あったはずの津軽こけしを幻視して、それを次々に現実化していった。」(2)という。こうした独創的な作風に惚れて、熱烈なファンも多くファンクラブまで出来ている。木地玩具も優れている。愛読書は「奥の細道」「方丈記」「徒然草」。左右の銘は「簡単なものほど難しい」。「こけしとは元々削ぎ落された俳句文学のようなもの。わかる人にしかわらかはいといった難しいものではなく、誰もが知れば知るほど奥深い美しい世界なのだ」(「こけし時代」)。弟子に石川美祈子(1979-)がいる。「こけし時代」第11号の別冊「今晃木形子(こけし)の世界・今晃の玩具」があり直接取材のインタビューや作品、写真など詳しい。その他「こけし手帖」「秋田こけし会通信」などに多くの解説・評論があり、良いこけしとはなにかという論争も巻き起こしている。[署名]昭和52年7月から53年3月末まで「弘前 今晃」、昭和58年6月から「嶽温泉 今晃」「嶽 今晃」、大舘帰郷後は「晃」。[資料]文中の他に、(1)「こけし時代」創刊号(2011年8月)(2)清俊夫-Suguan Kokeshi Collect今晃こけし解説-[画像]弘前時代の長谷川辰雄型12㎝。署名「弘前 今晃」。(松田ひろむ所蔵) にほんブログ村にほんブログ村 (<こけし工人名鑑by松田ひろむ>は、『こけし辞典』、KokeshiWikiに立項されていない工人。また取り上げられていても内容が相当程度異なるもの、あるいは増補した工人を取り上げる。)
2019年12月26日
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こけし工人名鑑by松田ひろむ【佐久間俊雄】佐久間俊雄(さくま としお)1948-2002[人物]1948年(昭和23年)2月16日、福島県福島市早稲町の木地業佐久間芳雄の長男に生まれた。昭和50年28歳より父の芳雄について木地を習得し、湊屋のこけしを継承してその製作を始めた。昭和51年12月の〈ばんかき・22〉により俊雄の存在が紹介され、翌昭和52年2月の〈ばんかき・23〉でその作品が紹介された。名古屋こけし会では翌月の3月例会で頒布が行なわれた(KokeshiWiki)。2002年(平成14年)55歳で逝去。[作品]作品の時代変化を①<こけし千夜一夜物語>249話、②小川一雄<佐久間俊雄のこけし>(「こけし手帖」357号)および、③田宮順一<例会ギャラリー佐久間俊雄年代別の表情の特徴>「こけし手帖」648号を統合してみると以下のようになる。(一部表記変更)こけしは昭和51年頃からのものが知られている。51年は18㎝平塚俊雄所蔵「こけし手帖」546号。51年12月、18㎝目黒一三所蔵(『わたしたちの佐久間俊雄』)がある。初期、昭和52年のものは「①目が大きくぱっちりとしていて若々しいこけし。」「②まだ眼に湊屋系列の特徴は見られないが、清々しい。鬢が最も長い。」「③鬢が最も長い。ガラス眼」(小川写真2阿部弘一蔵)。昭和53年頃には「①目の湾曲がやや大きくなって笑顔の優しい甘美なこけし。」「②胸にふくらみがある。表情は甘い時期」(小川写真3・4阿部弘一蔵)昭和54年頃になると「①湊屋の特徴である下瞼の長い目でアルカイックの表情となる。」「②頭は丸みを帯び、前髪は少なく芳雄のように重くない。表情も明るく張りがある。」「③(ピーク期)鬢が短く、つぶし目等表情豊か」(小川写真5・6小川一雄蔵)昭和55年頃から「①目尻が上がるようになって鋭い表情となる。この傾向はさらに強くなった。」「②髷が中心となる。髷は大きく頭に乗り、飾りの描彩は精緻を極める。眉は吊り上がって、鬢が長くなり下方が開き出した。坊主の頭はこの頃より小さくなる。」「③鬢がまた長くなり、目・眉が吊上がってくる。」(小川写真7小川一雄蔵。千夜一夜画像:国府田恵一蔵)昭和56年「②眼も眉も吊り上がり、眼はもっとも鋭くなった。面描の筆も細い。地蔵型の形が大きく変化する。」「③鬢の下方が開き、目・眉共に最も吊り上がる。」(小川写真8小川一雄蔵)昭和57年「②鬢の下方開きは真っ直ぐになり、髷こけしは見られない。筆も太くなり眼も大きく開き、上方を見つめているかに見える。木地の形態は一層丸みが少なくなる。」「③びんが真直ぐに戻り、目大きく開く。」(小川写真9小川一雄蔵)昭和58年頃からは休業状態になった。」ただし平成元年10月に父佐久間芳雄(1921-1996)木地、俊雄描彩の10.5㎝(小川一雄所蔵)があり、これが最後となった。(「こけし手帖」357号、『わたしたちの佐久間俊雄』)田宮順一氏は54年をピーク期とし、国府田恵一氏は55年の笠こけしを掲げて代表作という。佐久間浅之助、由吉、芳衛、芳雄と続いた湊屋本流。工人としての活動期間は約6年と非常に短い。後継者はなく、湊屋直系は絶えた。由吉型、太子型、笠こけし、帽子付、子持ち(孫持ち)などヴァリエーションは多く没後も人気は高い。三土新明会では2015年04月23日に「佐久間俊雄の不思議な世界」として、俊雄のこけしを多数持ちより年代変化について話し合っている。(松田ひろむ)[文献] 蒲生穂見<佐久間俊雄のこけし>(名古屋こけし会「木でこ」116号)1983年5月 木犀窓<本物をさぐる‐佐久間俊雄‐>(書肆ひやね「木香往来」2号)1989年 小川一雄<佐久間俊雄のこけし>(「こけし手帖」357号)1990年 小川一雄<佐久間俊雄初期のこけし>(「こけし手帖」546号)2006年 田中厚志<例会ギャラリー2月<佐久間俊雄工人の小寸こけし>(「こけし手帖」627号)2013年 田宮順一<例会ギャラリー田宮順一による(佐久間俊雄の)年代毎の表情の特徴>(「こけし手帖」648号)2015年 箕輪新一<本物をさぐる‐俊雄それから‐>「木でこ」209号2015年11月 矢田正生『わたしたちの佐久間俊雄』(こけし小家・木精游房)2016年 矢田正生『わたしたちの佐久間俊雄』(改訂版)(こけし小家・木精游房)2018年(最初期から晩年まで310点のこけしを写真掲載。解説を含めもっとも詳しい。ただし昭和55年が抜けている。) 大石真人『伝統こけしハンドブック』 (緑書店) 1981年 高井佐寿『東北のこけし』(光芸出版)14ページ。[画像] 2019年11月19日に32200円で落札されたもの。18㎝。(本文の年代変化に従って判断すると昭和54年作と思われる。)(<こけし工人名鑑by松田ひろむ>は、『こけし辞典』、KokeshiWikiに立項されていない工人。また取り上げられていても内容が相当程度異なるもの、あるいは増補した工人を取り上げる。) にほんブログ村にほんブログ村
2019年12月25日
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