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こけし無言館へ‐岡崎嘉平治のこと



戦没工人を記録して、戦没画学生の 無言館 (正式名称は「戦没画学生慰霊美術館 無言館」)にならって「こけし無言館」があってもいいのではないだろうか。
その対象は戦没(戦死)、戦傷病死工人だが、戦場で病を得て病気のまま亡くなった工人も含めたい。その例が、岡崎嘉平治(
1910-1948
)や佐藤友晴である。なお、
KokeshiWiki は「戦死」の語を使っているが、ここではこれも無言館にならって「戦没」とした。
正確に言うと「戦死」と「戦没」の意味は異なって、一般的に「戦死」は軍人、兵士のこと、「戦没」は民間人を含む概念である。だから東京大空襲や広島の平和式典は「戦没者追悼」で、靖国神社は戦死者の慰霊施設である。さらに「慰霊」は宗教的な概念で、「追悼」には宗教的な意味はない。
このたび、 2019 年 11 月 8 日に岡崎嘉平治のこけし 2 本( 25 ㎝、 23 ㎝)をヤフオクで入手することが出来た。同時に「岡崎」銘の小寸 2 本も入手したが、これは嘉平治か、父の栄作かもしれない。いずれも胴模様は薄れているが、昭和 12 年 2 月 3 日の書き込みがあり、嘉平治としては初期のものであった。
岡崎嘉平治
〔人物〕能登屋は蔵王高湯の旧家で、当主は代々嘉平治を名乗った。こけし工人として知られる岡崎嘉平治は明治 43 年 1 月 3 日、岡崎栄作・まつ(戸籍表記ま川)の長男に生まれる。母まつは高湯の斎藤忠治の長女であり、斎藤源吉の妹に当たる。父栄作について木地を修業し、こけし・茶道具など土産品を挽いた。昭和 10 年妻まさとの間に幾雄が生まれた。〈東北の玩具〉によりこけし作者として名前は紹介されたが、作品の写真は〈こけしと作者〉が初出である。昭和 12 年頃から第一次こけしブームの昭和 15 年を中心に盛んにこけしを作った。昭和 16 年 9 月に応召、ビルマ戦線で病を得て帰国後、昭和 23 年 2 月 16 日蔵王高湯にて没した、行年 39 歳。
〔作品〕製作期間は昭和 12 年頃から昭和 16 年出征までの 5 年未満である。父栄作の型を継承した。製作期間は短く、その間の変化は少ないが、昭和 15 年ころは目の湾曲がやや大きくなる。また胴のくびれたものなど変形の作品も作った。深沢コレクション収蔵の嘉平治は、おかっぱの中央に分け目があり、また胴は赤のみの重ね菊を描いていて緑屋風の様式である。従兄弟でほぼ同年代の斎藤源七と互いにその様式を学びあっていたかもしれない。( KokeshiWiki 抜粋)
東京こけし友の会 2011 年(平成 23 年) 11 月 13 日の談話会で岡崎栄作・嘉平治を取り上げている。(鈴木康郎「こけし手帖」 616 号)
ここで持ち寄られた嘉平治のこけしは 2 本( 8 寸 2 分、 7 寸 3 分)だけであった。いずれも重ね菊で 7 寸 3 分は 15.10 の書き込みがあり昭和 15 年と思われる。
鈴木康郎氏は
8
寸
2
分について「栄作よりは細めの形態で描彩は几帳面、若々しい表情である。」という。昭和
15
年作については「頭が少し縦長になり更に細身になる。面描の線には筆勢が出てくるが固い。胴模様の重ね菊も筆は細い。全体に整った印象のこけし」という。


(戦没工人)
我妻市助 ( 1921-1944 )遠刈田系
佐藤秀一 ( 1914-1944 )遠刈田系、佐藤英太郎の父
佐藤伝伍 ( 1912-1945 )弥治郎系
四竃健康 ( 1914-1945 )弥治郎系
高野孝作 ( 1906-1945 )鳴子系
蔦文男①( 1920-1943 )弥治郎系 義弟も同名蔦文男②
新山茂( 1920-1944 )弥治郎系
西山徳二( 1916-1941 )土湯系
平賀多蔵( 1911-1943 )作並系
松木朝臣( 1913-1945 )須賀川こけし
(戦傷病死)
岡崎嘉平治( 1910-1948 )蔵王高湯系
佐藤友晴( 1916-1946 )遠刈田系
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