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謎の多い西須正芳(政芳)を入手・きかん気な少女
西須正芳(にしす まさよし)とは聞いたことのない工人であるが、きりりとした表情に魅かれて入札。戦前作ということもあって、思いもよらず 9
名の競り合いとなったが、運よく落札することが出来た。
13800
円とは小生としては相当厳しい額だった。ヤフオク
2020
年
1
月
19
日終了。
18
㎝。
入手した本品は、細めの二側目もきりりとして、きかん気な少女のようで眺めて飽きないものがある。気品があるといってもいいだろう。胴模様は赤と緑の重ね菊で、緑はかすかに残っている。胴底は切りっぱなしで旧蔵者によって「西須正芳」と書込みがある。他の文字は判読が難しいが「弥治郎」と読んだ。『こけし辞典』の鹿間蔵に近いのでおそらく昭和 10 年から 13 年ごろのものであろう。
西須正芳は『こけし辞典』(M)に詳しいが、弥治郎系といいながら蔵王高湯系の影響もあるという。ただし本品は弥治郎系として問題はないものだろう。
西須正芳は謎の多い工人で、『こけし辞典』では本名政義とし「西須正芳」として立項しているが文中ではすべて「政芳」と書いてある。『東北のこけし』でも「西須政芳」で蔵王高湯系に掲載されている。政芳名義には弟政広のものが混入しているというが、『東北のこけし』では、一側目の政広を別に掲載している。これは『こけし辞典』の政芳名義の小山蔵(S 16 )に近いので、とりあえず一側目は政広。二側目は政芳としておく。もちろん本品の様な二側目が好ましい。
ヤフオクでは過去 10 年間に 12 点の落札があり、うち 4 点はえじこ。名義はここでも「正芳」と「政芳」と二様がある。ただし、えじこの裏に本人の署名と思われるものに「米澤市 西須政芳 三十四」とあったので、工人としては「西須政芳」と統一しておくべきだろう。そうすると『こけし辞典』の見出しの「正芳」は誤りということになる。
欲目ではないが、政芳のこけしでは、本品がもっとも出来が良いと思える。



【西須正芳】 にしす まさよし( 1907-1945 )
〔人物〕明治 40 年、米沢市御守町に西須政太郎長男として生まる。本名政義、こけしに署名するときだけ政芳を用いる。大正 9 年県立米沢工業学校を卒業、春日町で石井木工所を経営していた石井酒(みき)に弟子入りする。石井酒は名古屋で修業した木地師でこけしは作らず、小林吉太郎より下請の仕事の依頼を受けて、木管、糸巻き等を製作していた。昭和 2 年に年期が明け、北寺町で独立開業。職人として撟本力蔵を雇い入れ、こけしを初めて知り、蔵王高湯の能登屋岡崎嘉平治方でこけし作りを覚えて帰郷した。 昭和 4 年米沢市御守町に西須木工所を設立、ボビン織機等の撚糸関係の木地製品を挽くかたわら、こけしも作るようになった。 職人として平塚安兵衛が昭和 4 、 5 年ころに、佐藤伝喜が 8 年から 11 年まで、佐藤伝伍が 9 年ころから、佐藤豊治が 10 年ころよりそれぞれ働いた。昭和 5 年より弟政広、同 7 年に弟政明を弟子とした。この間伝喜•伝伍兄弟のこけしを模したこけしを作り始め、昭和 9 年ころより販売用に作ったという。昭和 16 年、東京の茶房「鴻」でこけし製作実演。昭和 20 年 6 月 15 日米沢で没。 39 歳。同木工所は弟政広が受け継いだ。
〔作品〕橋本力蔵や岡崎嘉平治のこけしを見本として作つたと言われるが、 このころのものは残っていない。現在残っているのは昭和 8 年以後のもののみである。このころは頭のベレーや前髪、胴紋様が伝喜のこけしと酷似しており、完全な弥治郎系といえる。昭和 12 ・ 3 年ころから 旭日菊を赤と緑で交互に描くようになり、 蔵王高湯系の影響が見られる。昭和 14 ・ 5 年ころよりこけしを多量に作り始め、菖蒲を描いたり、髫付等を出し、新型こけしの嚆矢であった。西須兄弟のこけしはすべて政芳名儀で知られたが、政広のこけしがかなり多数まぎれこんでいることがわかった。〔伝統〕弥治郎系。一般型。佐藤伝喜の影響が最も強いが、橋本力蔵、岡崎嘉平治、佐藤豊治等の影響も若干ある。晩年の作は彼自身の工夫が加わり、一概に弥治郎系とはいえない。(『こけし辞典』(M))
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