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奥瀬鉄則の苦悩 - 盛秀の呪縛

戦前戦後その寡作なことともあいまって絶大な人気を誇った盛秀太郎のこけしであるが、その盛秀型は戦前戦後で大きく変遷した。
盛秀太郎の弟子には佐藤善二がいたが、盛秀はその型の継承を許さず、佐藤善二はやむなく斎藤幸兵衛型を作ることになり、それに独自の工夫を加えた。その善二の弟子は多く、津軽系隆盛の大きな要因となった。
盛秀型は一子眞一の妻の弟、奥瀬鉄則が継いだ。 KokeshiWiki
は「鹿間時夫は鉄則のことを「性質陽性で社交力に富み、現代型インテリ工人のうちに入る。生け花や茶道を趣味としている。楷書体ではあるが描彩力は優れていて秀太郎古型を復元する力は十分にある。〈こけし辞典〉」と書いた。実演で上京することもあり、蒐集界では人気の高い工人であった。 丹代(たんだい)條の長女陽子と結婚、昭和 45
年に長男(恵介)が生まれた。師匠の盛秀太郎は昭和 61
年亡くなり、奥瀬鉄則には後継者としての期待が大きかったが、平成 4
年 6
月 16
日に行年数え年 53
歳で没した。若くして世を去ったのは惜しまれる。」「〔作品〕初期には当時の盛秀太郎の様式に従ったこけし、また髷付きなど斎藤幸兵衛の様式に倣ったこけしを作っていた。昭和 40
年代になって盛秀太郎の正末昭初の古作を復元するようになった。鹿間時夫が昭和 44
年 2
月に正末昭初の盛秀太郎のこけしを黒石市温湯まで持参して奥瀬鉄則に復元を依頼したものは東京こけし友の会の昭和 44
年 3
月例会で頒布された。面描の妖しさの表現は必ずしも十分ではなかったが、目じりが下がり、まつ毛の垂れた戦後の盛秀太郎型を見慣れた人々には、この頒布は新鮮な衝撃であった。」とおおむね好評の工人であった。
しかし私は奥瀬鉄則は盛秀の呪縛から逃れられなった悲劇の工人ではなかったかと考えている。

現時点でみるとむしろ、鉄則の没後にこけし作りを始めた妻の陽子や一子恵介が、より戦前のよき盛秀を継いでいるように思える。直系の眞一の子の美津雄はやはり人気が高いが、直系だけに盛秀型を抜けられていない。現在のままであると盛秀のエピゴーネンに終るだろう。
奥瀬鉄則の苦悩は、戦前の盛秀を心理的に受容できなかったことで、いくら鹿間時夫氏ななどの収集家が正末昭初の盛秀の復元を依頼しても、どうしてもかわいいものとなってグロ味は出せなかった。「面描の妖しさの表現は必ずしも十分ではなかった」というが美意識が違うのである。それは鉄則の問題でもあるが、時代が違っているのである。
昭和 52 年 6 月に小田急百貨店で「奥瀬鉄則と第五回伝統こけし三十人展」が開催されたが、そのパンフレットを見ると鉄則よりも盛秀についての記述が多い。いつまで経っても盛秀あっての鉄則であった。
こうした苦悩は恵介にもあったのだろうか、事情はさだかではないものの廃業することとなってしまった。陽子のこけしはその(鉄則と恵介の)中間に位置しているといえよう。
盛秀の呪縛はいまも続いている。画像は奥瀬鉄則の典型的な盛秀型・幸兵衛型(松田ひろむ蔵)
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