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日支事変当時の『少年倶楽部』口絵より。昭和17(1942)年2月号掲載。川上四郎画。すでにアメリカと交戦中でした。切なく、身につまされるものがあります。ちょうど、小学生のころのなき父と重なって見える、祖父は戦時中から当時としてはもうかなりの年齢で若い頃肺をわずらったこともあり、徴兵はいかずにすみましたが・・・当時の日本中のご家庭が、ほぼこんなものではなかったかと。父の生まれ育った家は赤貧あらうがごとき寒村で貧しい村のなかでもひときわ貧しい家族だったのでこれよりさらにひっ迫していたかもわかりません(祖母は家事のじょうずな人ではなかったので、針目もまずくていっそう貧しさが引き立ったかも)。『窓ぎわのトットちゃん』とはかけはなれた別世界、国民の多くがこんな状態(わが家はそのはるか下)で、大国アメリカや全世界を敵に回して戦争したとは無謀というかなんというか、滂沱と涙がこみあげてきそうです。昭和13(1938)年6月号掲載。加藤まさを画。当代一流の画家が、児童向け雑誌にも心血注いで描いたことが伝わってきます。本文より『戦線に春深し』・・・日本軍が進むと、支那軍は遠く後ろへ退却して、もうこの町には一兵も残っていません。 皇軍の勝利を祝う日章旗が、城門高くひるがえって、コバルト色の空に美しく輝いています。 逃げ足の速い支那軍が置き去った武器を整理して、一つ所に集めると、青龍刀や銃や弾薬の山が出来ました。中には外国製のすぐれた機関銃などもあります。 『こんなに置き土産をもらっちゃすまんな』 一人の兵隊さんが冗談をいいながら、高射機関銃の構造をしらべていると、支那の子供が三四人、なつかしそうに寄って来ました。男の子は手に日の丸を、小さい子はおいしそうにキャラメルをしゃぶっています。向こうで休んでいる兵隊さんにもらったのでしょう。 新緑に覆われた広い広い野原は、日本で見られぬ雄大な眺めです。絵の得意な兵隊さんはそれを写生して、国の弟に送ってやるんだと、倒れたポプラに腰かけて、スケッチをはじめました。 忙しい戦線の一時を慰問するように、気持ちのよい春風が、頬をなでて過ぎます。戦士の休息。実際に、こんな感じだったのでしょうか。われらが父祖に、敬礼。人気ブログランキング本・書籍ランキングにほんブログ村
2023.12.18
1938(昭和13)年、実業之日本社刊・『日本少年』より、赤ちゃんの頃、荒鷲にさらわれたのを野犬に救われて育てられた野生の少年が主人公の連載小説。『ジャングル・ブック』(+『ターザン』?)の亜流といえば戦後間もないころ大ヒットした山川惣治『少年王者』『少年ケニヤ』、南洋一郎『バルーバ』シリーズなど思いつきますが、戦前から児童向き読み物として人気があったのでしょうね。作者の三島通陽子爵(ペンネーム三島章道)は日本のボーイスカウト運動に尽力した人物、挿絵は宮本三郎画伯。なんと豪華な。ジャングル(あるいは山や峡谷)で動物に育てられた子が野生動物の胆力と身体能力に人の知力をあわせもち、縦横無尽に活躍するストーリーは子供たちに愛読され血を沸かせたにちがいありません。さがせばまだまだたくさんありそうです。それにしても『狼に育てられた子』伝説には神話や旧約聖書もさることながら『ジャングル・ブック』(舞台もインドのジャングルだし)の影響が大きいのだろうなと痛感します。人気ブログランキング本・書籍ランキングにほんブログ村にほんブログ村
2022.12.25
主婦之友1941年12月号より、近藤日出造画伯の『家庭時局漫画』。近衛文麿さんは長身で東條閣下は小柄でいらしたのですか(あまりそういうこと考えたことがなかった)。第二次大戦の戦前戦中の日本は、旧社会主義諸国なみに暗黒の独裁国家であったかのように戦後教育で思い込まされているのですが、このコマみるかぎり、おおらかな風刺?が許される空気はあったようですね。大学、専門学校の卒業期三月繰上げ。・・・この1年余りのち、学徒動員令で数多の大学生が犠牲となりました。資源乏しいわが国で、今も昔も最大の財産は『人材』。未来を担う若き『人材』は国が率先してたいせつに育成すべきであり、再び負の歴史(もちろん当時はやむをえなかったにせよ)をくりかえす過ちは冒しませんようにと祈ります。向かって左のコマ、じつは私、意味がよくわかりません(あたまわるくて😅😅・・・)。戦地で慰問袋が届いた兵隊さん?当時の慰問袋には、励ましのお手紙はもちろん手編みの手袋や靴下やてづくりの人形から小学生が読み終わった『少年倶楽部』まで、いろんなものが入っていて、しかもそれが喜ばれたそうです。慰問袋のおみやげはナス型の風船?ボーナスはぜんぶ国債(愛国国債?)を買い、ボーナスに「ナス🍆」を掛け合わせて「戦地の兵隊さんにも『ボーナス景気』を味わってほしい」との願いをこめた?(国産のフーセンガムはまだ無かったのでしょうね)余談ながら戦中に政府が国民に購入奨励した愛国国債は敗戦で紙くずと化し😢、戦中でも目端の利く人は戦後を見越してひそかに土地や純金を買っていた、残念なことに現代でも、政府や大マスコミのあまりに熱心なキャンペーンは、話半分ほどに聞いておくほうがよいかも😅😅。こちらは同誌上の洋裁コーナー。80年経った現代でも通用しそうな簡素で機能的なデザインは、さすが杉野芳子先生。和服のセルつまり、ウールの着物やメンズスーツを婦人服にリメイク・・・はやがてくる戦後の欠乏時代に、なくてはならない技術だったことでしょう。時代のどんな状況下でも、工夫たやさずできるかぎり明るく前向きに生きてゆく。現在もかわりませんね。人気ブログランキング本・書籍ランキングにほんブログ村にほんブログ村
2022.08.27
少年倶楽部1941年12月号より、第二次大戦中の日本では『献納』と称して各家庭からの金属の供出がひんぱんに行われたようです。こちらは主婦之友1941年12月号『ハナ子さん』シリーズ。町内会で、鉄の回収に余念ないハナ子さんとお父さん。時代をものがたる、貴重な資料。『先祖伝来の刀、兵隊さんにあげてください』『これがみんな軍艦や戦車になるんだぞッ』『これ茶釜や、お国のために大砲の弾にバケとくれな』『さらばじゃさらばじゃ』『まるで文福茶釜だね』『二宮金次郎さんも本望でしょう』・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ユーモラスに表現されていますが(実際にこんな感じだったのかな?)軍事物資の資源が枯渇して一般家庭の鍋釜フライパン、おもちゃに置物やミシンまで供出させられること自体、勝ち目の無い無謀な戦争に呑み込まれている証明になってしまっていますが(泣)、当時のみなさんの真摯なおこないを誰が批判できましょうか。あるいはうすうす(この戦争は危うい、日本は負ける)と気づいていたかたも決して少なくなかったのでしょうが渦中にあると大勢に物申せなくなる(自身や家族に身の危険がおよぶ)のが、時流のおそろしさ。この対米戦争からさかのぼること約80年の幕末の日本では、京都の治安維持の名目で佐幕のため『浪士組』(『新選組』の前身)が結成されました。映画にドラマに、小説やコミックにいまも人気衰えぬ新選組、私も御多分に洩れず(笑)『新選組』ファンですが幕命による都の守備警護にあたる者百姓や町人、無頼の徒にいたるまで身分如何をとわず士分にとりたてる・・・発想からして幕府がもうどうしようもない事態となっていることの告白ともとれますが、にもかかわらず『武士』として命を散らした方々は後世の読者をも感動にさそいます。そして。遠い昔のエピソードで終わるものではなく。現在もまた同様なこと(規模の大小や深刻さをとわず)は多々くりかえされている危機の渦中にあることを、自覚せねばなりませんね。人気ブログランキング本・書籍ランキングにほんブログ村にほんブログ村
2022.08.23
和布を中心に『和』の伝統、『和』のこころを新感覚でファッションに昇華した印象のつよい三宅一生さん、その特集記事が、わが家にある古雑誌に載っていました。1977年・中央公論社刊『暮しの設計』115号『木綿、もめん、コットン』より。三宅一生さんと日本の『木綿』はばつぐんの相性、古い伝統が最新鋭のファッションに。楊柳クレープの涼しげなドレス。しじら織の直線裁ちエプロンドレス。どこか和紙を思わせる材質。一生さん定番ともいえる『刺し子』、ヨーロッパでも日本ふうキルティングウェアはヒットしたのだとか。素朴で、じょうぶで、つよい材質なのに一生さんの手にかかるととてもお洒落。カジュアルでありつつエレガント。右のモデルさんは、もしや素顔の山口小夜子さん??若き日の一生さんのお仕事のごくごく一部なのですが、やはり魅了されます💗。有名な『プリーツ・プリーズ』(のマテリアルは、ポリエステル100%)が登場するのは90年代から。とても買えませんが(残念というより当然?)😅、すてきな服のデザインはたくさん拝見してみたいです😍。時と国境、超えたデザイン 着心地良く、楽しい服生み出す人気ブログランキング本・書籍ランキングハンドメイド(洋服)ランキングにほんブログ村にほんブログ村
2022.08.11
『少年倶楽部』昭和14(1939)年5月号、10月号表紙。日中戦争のさなか、第二次大戦前夜の暗雲たちこめる時局ながら子供たちの世界には明るさが強調されています。そして2022年現在も、国難の危機であることに変わりなく。裏表紙。明治キャラメルやチョコレートを口にするのは当時の子供たちにとってめったにない、至福の時?小学生にも勤倹を説く広告。不要品があふれて困る時代が来るとは、当時は考えも及ばなかったかも、『断捨離』『ミニマリスト』がトレンドになる豊かな現代(も、いつまでつづくかわかりませんが・・・)に生きていることに感謝しなくては。工作コーナー。『バット』とは『ゴールデンバット』(黄金バットではない。古いね?)の略で、当時のたばこの総称。たばこの空き箱で船を作ったり、いろんな工作に利用する、今ならさしずめ牛乳パックの工作に該当?『漫画大進軍』とものものしいタイトルのお絵描きあそび、ユーモラスでどこか懐かしい😊。当代一流漫画家たちも心血そそいで子供の夢を描きました。芳賀まさおの見開き。「・・・自分が持ってるものだって、ゆだんすれば逃げるんだもの。まだ手に入らないものなどあてにするものではないよ」ラストのおじさんの言葉、含蓄ありますね。猛犬連隊を退役して大陸に雄飛する、のらくろ大尉。カリ公の冒険。冒険ダン吉の親友・ねずみのカリ公のスピンオフ。カリ公の原型はミッキーマウス??「漫画王ウォルト・ディズニー先生は、『少年倶楽部』に載った?」と父に聞くと「載りません(キッパリ)。「敵」ですから」と返事が返ってきましたが・・・この号の2年後に日米開戦でその後日本は大変な犠牲をはらうことになるのですが、ヘンリー・フォードの少年時代の伝記。自動車王ヘンリー・フォードと発明王エジソン先生は当時の子供たちの憧れをかきたてる二大スターだったのですね。人気ブログランキング本・書籍ランキングにほんブログ村にほんブログ村
2022.05.10
大正時代の『裁縫ミシン全書』より足踏みミシンに先んじるシンプルな手回しミシン。形状のうつくしさで現在もアンティークとして人気があるのではと思われます。シンガーミシンも黎明期は生産していた下糸を用いないミシン、単環縫いと呼ばれる上糸のみで環状(鎖編みや刺繍のチェーンステッチのような)の縫い目が特徴。有名なマスザワミシンさまのコレクションにも、この挿画とそっくりなミシンがありますが、実は足踏みミシンが普及してからもリード社が国産でこの系統の1本糸ミシンを生産・販売なさっていて第二次大戦の戦前・戦中までは足踏みミシンに並ぶヒット商品だったようです。詳細は、こちら。テーブル・滑車付きの足踏みミシンと異なり場所をてがるに変えて使用できるコンパクト(といっても鉄の塊でかなり重量感あると思われ😅)さが重宝されたのでしょうか。現在のポータブルな卓上ミシンの源流?リードミシンを駆使する稀少な動画。あげてくださっているかた、ありがとうございます。人気ブログランキング手芸・ハンドクラフトランキング本・書籍ランキングにほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村
2022.03.29
『文部省認定 裁縫ミシン全書』となにやら荘重なタイトル、奥付をみると大正10(1921)年12月22日発行(初版)、大正13(1924)年4月5日23版発行とあります。ざっと100年前のミシンマニュアル、検索するとたくさん画像が出てくるのは、さすが当時のベストセラー。私の手元にあるのは学校図書館の除籍本だったらしくてシールが貼られています(残念ながら、学校名は不明)。20世紀初頭には全世界を席巻したシンガーミシン、当然ながら本書に扱い方説明載っている機種もシンガー。舶来当世ソーイングマシンの最高峰というべきシンガーを持っておられる家庭にとっては一生ものの高級品だったことでしょう。ジャノメの前身・パイン裁縫機械製作所によって完全に国産のミシンが初登場するのは、ようやく昭和4(1929)年。下糸(ボビンケース)をおさめるカマ部分。当世流行の愛らしい子供服。海外の本からの転載あるいは模写と思われます。1920年代、当時の日本の子供たちのどれほどの割合でふだんから洋装していたでしょうか。都市部資産家層はともかく農村部では殆どの子が紺がすりの着物のイメージ😅。ミシンに向かう洋装の若い女性。印刷はよくないですが、100年も前の古い写真にはみえません。不思議ふしぎ😃😄。裁縫といえば和裁がまだ主流だった時代、洋裁を習いミシンを踏む女性は、旧来の様式から脱け出した新時代の最先端を行く人だったのかも😍。人気ブログランキング本・書籍ランキングにほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村
2022.03.28
主婦の友愛読者から寄せられたとおぼしき『わが家のミシン活用の体験』を拾ってみました。1950年代、当時の生活の様子がみえてくる、貴重な記録。洋裁店で身を立てたり、お子さんの洋服を手作りして家計節約したり・・・当時はミシン一台で仕立てのオーダーやリフォームをうけおって繁盛しているかたも多かったのでしょう。雇用主の奥様が職場の若い女性たちにミシンで洋裁を教える、技術取得プラス行儀見習い的な側面も少なくなかったと思われます。疎開先の苦難も衣類の注文をうけてミシンを踏んでのりこえたり、うら若き戦争未亡人が子育てしながらミシンで生計をたてる・・・当時は決して珍しくなかったであろう苦労話にも頭がさがるばかりです。懸命に生きぬいて今日の日本を築いてくださったみなさまに、尊敬と感謝あるのみ。人気ブログランキング本・書籍ランキングにほんブログ村にほんブログ村
2022.03.26
昭和27(1952)年主婦の友5月号付録の『図解式ミシン裁縫独習書』。この一冊で、ミシン(もちろん、黒い足踏みミシン)の使用法からメンテナンスまで、あらゆる情報網羅したミシン百科事典です。検索すると、オークション等たくさん画像でてくるので当時は爆発的ヒットのベストセラーだったのではないかなあ😍。幸運にも、かなり前の古書市でお安く入手できました。経年劣化ではがれた表紙はセロテープで補修。(表紙の美女は、映画スターの木暮実千代)ようやく戦後の窮乏期を脱したとはいえ決して豊かではなかった時代。家計を助け、一生の技術が身につきおしゃれも愉しめるとニーズが拡がって、洋裁を習う女性が急増した時期と思われます。足踏みミシンおたく(爆)には、眼福の見開き。『ミシン応用の衣類の繕い方』当時は新しい服を仕立てるのと同等かそれよりもっと、いま着ている服の修理が大きなウエイトをしめていたことでしょう。山形(やまがた)ミシン=現在のジグザグ縫い?🤩いわゆるジグザグミシンが主流になるのは本書発売の10年後くらいかしら。人気ブログランキング手芸・ハンドクラフトランキング本・書籍ランキングにほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村
2022.03.25
昭和13(1938)年発行婦人倶楽部付録より。昭和戦前からさかんだったパイナップル編み、レースのかざり衿は最近またブームになっていますね。洋装にも和装にもあうショールやストール、今みても遜色ない方眼編みのテーブルセンター。モチーフつなぎのテーブルセンター、これを完成させるのはたいへんだろうなと😍。「良いもの」はいつの時代にも普遍的で古くても永遠に新しい、レース編みもそのひとつ。ただしすでに戦争直前の物資統制下にあった当時、レース糸(にかぎらず毛糸も)はひじょうに高価なものだったと思われるので現代はいい時代ですね😅。裏表紙。オリムパス製絲の広告。ロングセラーのエミーグランデは何代にもわたって愛用しているかたも多いかも(残念ながら私には高くてめったに買えませんが😅)・・・これからも、あみものファンの期待に応えていただきたいです😊。人気ブログランキング編み物ランキング本・書籍ランキングにほんブログ村にほんブログ村
2021.09.16
1962年松竹映画『はだしの花嫁』キャンペーンで開催されたミス花嫁コンテスト。主演の倍賞千恵子さんほか映画関係者とともにリッカーミシン役員も審査員となり、優勝者と準ミスのみなさんには記念品としてリッカーミシンが進呈されたそうです。「リッカーニュース」掲載の画像のミシン、じつはこちらではないかとかんぐっているのですが(笑)、当時の最高級品、高機能ミシンにちがいありませんね😆。これは、売上450万台突破記念で当該する顧客をご招待、高松市の22歳の女性でお母さまとともに上京して工場見学や記念品贈呈はじめ多忙な数日を過ごしたことが載っています。当時の地方在住の若いお嬢さんにとって、東京の招待旅行はちょっと凄い体験だったかもしれません。文化服装学院の創立40周年記念に、最新型リッカーミシンを寄贈(いまも現存するかしら?)。日本の服飾界をリードする文化・ドレメともに教授のかたがいちはやくおしゃれな流行モードをひんぱんに紙上に提供していらっしゃったようです。1960年以降、従来の鉄の黒ミシンからミシントップは特殊軽合金(ダイカスト)で、メタリックな塗装もカラフルになり家電っぽい雰囲気になりました(おそらく記憶の底で、『昭和ミシン』と認識しているであろうタイプ)。動力も足踏みからポータブルな電動へ、21世紀までつづく卓上ミシンの源流。おまけの再掲(苦笑)、1965(昭和40)年のリッカーミシン広告(たぶん電動~足踏みの2ウェイ?)。1977(昭和52)年、ロングセラーのマイティシリーズ『電子のお針箱』の広告。一大ブームと企業の栄光の記憶を残して、時代は過ぎ去った。人気ブログランキング本・書籍ランキングハンドメイド(洋服)ランキングにほんブログ村にほんブログ村
2021.03.16
1961~64年(昭和36年から39年)ごろの『リッカーニュース』数点を入手する幸運に恵まれました。第二次大戦後の窮乏期を脱し急激にものが豊かになりつつあった、高度経済成長期(とはいうものの、一般人の生活は現代と比較にならないほど、依然地味でつつましかった)。当時の花形産業だったミシンメーカー、殊にリッカーミシンはミシンにとどまらずオリンピック代表候補や野球選手等アスリート育成や文化事業にも尽力し、メディアとのタイアップで華やかに一時代を築きあげた。『リッカーニュース』はその内容からして、きっとミシン購入してローン支払い中の顧客の家庭に毎月配布されたのではと想像します(かつてミシンは、ミシン積立なるローンで買う高級品だった😄)。1961年、渋谷の東急文化会館(現・渋谷ヒカリエ?)屋上に設立されたリッカーミシンネオン塔。ディズニーの名作『シンデレラ』上映中が、時代をものがたる😊。「ご愛用者訪問」記事は、浜松の毛織物工場。リッカーふくめ大企業はむろん当時の高度経済成長を支えていたのはこのような無数の工場や小企業、従業員のみなさんが「全員が九州出身の十五、六歳から二十歳までの若い女性」ということは当時さかんだった中卒者の集団就職で集まったひとたちでしょうか。日本各地でありふれた風景だったのでしょう。本文みひらき。左ページはママと女の子の夏のふだん着、1961年ですから60年前のおしゃれがうかがえますね。右は福岡県の小学六年生、谷口正喜さんというかたの書いた作文です。全文引用、ぼくは、外で遊んでいた。すると、ぼくの妹が「兄ちゃんミシンがきたよ」と、いった。ぼくは、ミシンが来たのは、しらなかったので「うそだろう」と、言うと、「うそじゃない」と、いったので、家にかえると、ほんとうにミシンが来ていた。ミシンのなまえは、「リッカーミシン」だった。 もうおかあさんが使っていた。「ぼくも、使わしんしゃい」と、言うと、使わしてくれた。五年生の時、ミシンの使い方をならっていたので、すこしは、ふみきった。 その夜、「あれはふみ板、あれは、ベルトはずしだ」と、いいながら、家族みんな、ミシンをかこんであそんだ。 学校でも、ミシンのことは、わすれなかった。かえると、またミシンのいすに、すわって、ふみ板をふんでから外に遊びに行く。 その夜も、夕飯を食べると、すぐに、ミシンの所に行った。そして、はじめは、古いぬのでぬってそれから、自分でぞうきんをぬった。こんどは、中の方を、やぶれないように、ぬっていると、ふみ板がかたくなり、まわらないようになったので、ぼくは、はらはらした。おもいきって、おとうさんに言うと、「となりの人を、よんできてごらん」と、言われたので、よんで来ると、「これは糸がくいこんでいるのですよ」と、いって、すぐになおしてくれたので、ぼくはやっとあんしんした。 それから、またぬいつづけた。すると、こんどはうまくいったので、うれしかった。またぬいつづけると、おかあさんが「いきをつかしては、いけないよ」と、いわれた。ぼくは、ちゅういしながら、ぬっていくと、こんどは、「コト、コト」と、いったので、どうしたのかと、きいてみると、「まだ新しいからですよ」と、いわれたので、安心してぬっていった。 八時ごろからはじめて、九時ごろまで、かかった。それから、ひきだしを見ると、いろいろな物が入っている。おかあさんが「よそのミシンよりもサービスがよいね」と、いわれた。こん月が、リッカーミシンの、記念(註・・・立川工場本館竣工記念)なので、サービスも、よかったのだそうだ。 ぼくは、きかいいじりがすきだけれども、こわさないで、大切にしようと思っている。前期の作文は福岡県糸島郡深江小学校で生徒に作文を書かせました際になかなか優秀と認められ、児童達の前で朗読されました。内容は当社のミシンに関するもので、学校の児童がミシンに関心を抱いている一端が、よくうかがわれます。 尚、谷口正喜君は、当社の顧客谷口正三様のご子息です。谷口君には当社から粗品を贈呈いたしました。・・・と、あります。新しい道具(ミシン)を迎えて家族みんながはしゃいでいるたのしい様子が、いきいきと伝わってきますね😊。俳句・短歌投稿欄も。人気ブログランキング本・書籍ランキング手芸・ハンドクラフトランキングにほんブログ村にほんブログ村
2021.03.15
少年倶楽部昭和16(1941)年12月号。リアルでは11月初旬発売でしょうか。まさしく日米開戦直前、暗雲たれこむ世の中。紙の統制のせいか全盛期(1930年代?)にくらべてページ数は薄くなっているものの愛読者のこどもたちのために文筆家も画家も記者も心血をそそいで名作をものしていることに感動します。心の花たば。各地できいた、気持ちのよいエピソードのまとめ、子守を義務づけられた友達がいっしょにあそべるように、当番で赤ちゃんを背負う係をするこどもたち。戦前戦後を通じて、ありふれた小景でしょうか。(日本全体がまずしかった、まずしいのはあたりまえだけど心まで貧しくはないという、筆者と編集の矜持を痛感)読者投稿の入選作。出征した父上の帽子に、記憶をかさねる心情。戦地のお父さまを案じる家族の思いに、『戦争を知らない』世代はただ、こうべたれるのみ。網を修繕するおじいさんの手さばきにみとれるこどもたち。 『海国日本に生まれたからは、海をこわがっちゃいけないぞ。大きくなったら海へ乗り出せ、海で働け。大きな魚、青い水、海はほんとに楽しいぞ』そしてなんと、井伏鱒二の『ドリトル先生航海記』抄訳が、『少年倶楽部』誌上で既出。戦後、岩波書店刊でロングセラーとなった『ドリトル先生』シリーズの、これが原点でしょうか。何回連載されたのかなあ。特集グラフ『南支那の子供たち』(タイトルが切れている😅・・・)海南島の南瓜(かぼちゃ)海南島にいった時は、ちょうどこの写真のように、みごとな南瓜のとりいれ時で、農場では、子供たちまで、いそがしく働いていました。 この島は熱帯で、米も一年に三度とれるほどですが、農業のやり方が大昔のままちっとも進んでいませんでした。それを、皇軍が上陸してこの二年余の間に、日本の力でつぎつぎ改良を加え、近ごろでは、米でも野菜でも果物でも、りっぱなものがたくさんとれるようになってきました。みひらき『働く子供 きたえる子供』右、広東の郊外でも、カラリとはれた大空の下で、平和に鍬をとるお百姓さんや子供たちにあいました。 『事変前には、らんぼうな兵隊にあらされて困りましたが、日本軍がきてから、そんな心配は少しもなくなり、安心して、たがやすことができます。』と、あかるい笑いをたたえて、旅人の私たちにまで、あいさつするのでした。 支那のいなかでも、日本の皆さんにまけぬほど、子供たちがよく働いています。左上、南支那の河は、たいてい、にごっています。日本のようにきれいな水がないので、この河の水をこして炊事などにも使うのだそうです。河のほとりでは、せっせと水くみのおてつだいをする子供たちが、あちこちに見られます。左下、きりつ正しい朝の点呼。これは広東市孤児院の諸君です。親をうしない家をうしなったきのどくな子供たちが、いま三百名もここにひきとられて、皇軍のあたたかいなさけのもとに楽しく勉強をし、仕事をおそわっています。一、二、三、四・・・と番号をかけるその声も、いまはいきいきと希望にあふれているようでした。みひらき『家畜と子供たち』、精緻な刺繍で有名な汕頭(スワトウ)近辺だそうです。ベトナムでも、1970年代まで(現在も?)ありふれた農村の風景だったのでしょうか。みひらき『かわいい風景』。厦門(アモイ)。左上、おや、外で御飯をたべるなんて、行儀がわるいな、と皆さんは思うでしょう。ところが、支那ではこれがあたりまえで、大人でも平気で外でたべています。 支那では昔から国がみだれて、人々の生活がひじょうに不安だったため、その日その日の御飯をたべられることが、まず何よりの喜びだったのです。それで、そのことを人にも見せて、ほこりたい気持ちが今にのこって、こうして外でたべる習慣になったのだということです。🏠家の外で家族がふつうにお食事している光景は昨年ベトナムのホーチミンにいったときも、よく見ました。暑いので夕涼みがてらかな?とそのときは思いましたがベトナムは昔から中国文化の影響つよい土地柄なので、習慣の関連ももしかしたらあるかもしれません😊。右、町の通りでロンガンを売っている店の坊やが、いつかスヤスヤと眠ってしまいました。何の夢をみているのか、時々ニッと笑っていました。道ゆく人々も笑いながら、そっとお金をおいて、ロンガンを買ってゆきました。こんなかわいい店の品を、だまって持っていく人は、支那にだっていないのだ、と思いました。左下、ある家の庭さきで、子供たちがせっせと落花生のくずをよりわけていました。日本の水兵さんがいっしょにてつだっていました。夕方になって、この家のお父さんたちがかえってきたら、子供たちはきっと『今日は日本の兵隊さんがてつだってくださったのよ』と、お話しすることでしょうね。若い水兵さんは、きっとあどけないこどもたちに郷里の弟妹の面影をかさねていたのでしょうか・・・?胸にこみあげてくるものがあります。『たのしい学校』わが軍に占領された町には、どこへ行っても新しい学校がひらかれ、子供たちは、日本語をはじめ、新東亜の民としての勉強をねっしんにやっています。 この写真は、海南島の海口の学校でうつしたもので、ちょうどこのとなりには日本の国民学校もあり、休みの時間には、上のように日支仲よく遊んでいました。支那の子供で一ばん感心させられたのは、筆の文字の上手なことで、綴り方などもみな筆でかいています。 私はこんどの旅で、新しい平和の中に、元気に生きる子供たちの姿を見るにつけ、わが兵隊さんのお骨折りを思い、心からの感謝をささげたのでした。古くて紙質はよくないけれど陽光の眩しさと子供たちの明るい表情にページを繰るこちらも口の端がほころんできます。読者につたえたかったのは、おそらく大東亜共栄圏の、夢。それ以上に、いきいきしたこどもたちの姿やふるまいを慈しむ、カメラと文章から愛情がつたわってきますね。もうすでに、80年の昔。現在からは想像つかないほど貧しかった当時の日本のために、がんばってくださった先人たちに敬意を表し、つよく誇りに思いたいです。人気ブログランキング本・書籍ランキングにほんブログ村にほんブログ村
2020.05.23
古写真がみれる写真集や書籍はなかなか見つからないのですが(もしかして日本語だから??😅😂)検索すると昔日の興味深い動画がたくさん出てくる、ネット💻は便利です。(がんばって、ちょっとはベトナム語もよめるようにならなきゃ😂・・・)100年前の映像と銘打たれていますが、もっと新しく、せいぜい1930年代前後のような気がします。自転車にまじって牛車、人力車。今ならバイクの洪水にタクシー🚖?しかし、道路は現在よりずっと綺麗に舗装されているような、ふしぎふしぎ😲。手元にある新書サイズの古書『佛領印度支那』(南進社刊・1941年発行)の口絵から(以下・同)、華僑の本拠チョロン中央市場の偉観・・・とあるけれど、これはベンタイ市場?佇まいは現在も面影かわらないけれど、市電が走っているあたり21世紀現代より交通べんりだったりして😅。安南人のアマと街頭風景このアマは、ベビーシッター、御守役でしょうか。西洋人形のように愛らしい、フランス人のこどもたちにかしずくアマ、現代ではみられなくなった光景ですね。1940年代の希少なフィルム。国際都市サイゴンはますます発展して、ハイセンスなファッションに身を包んだ女性たちが闊歩する。賑わう波止場、繁華街。モボとモガが突撃する建物はプレスルーム。こちらは1900年から1945年と時間に幅のある動画。王族らしき高貴な人々から労働に従事する一般人、支配階級であるフランス人とおぼしきヨーロッパ系の人々の優雅な日常、動画のラストあたりには仏印進駐する日本軍もちょっとだけ登場。コロニアルの夢はロマンティックだけど、現地の人々にとっては過酷な日々のみ。『佛領印度支那』には「フランスはこれだけ天然資源の豊富な土地と二千三百萬の住民を支配してをりながら、その支配に値する経済開発を行い住民を幸福にすることには少しも骨折っていない。それどころか、常に経済開発を妨げ資本も技術も自国だけで独占し、住民は厭抑して文化的向上の 芯を止める方策をとっていたのである。恰もイギリスの印度における如く、佛領印度支那はフランス人に滋養物を供給する乳牛以外の何物でもなく、その搾取ぶりは一層苛烈であった。」と、あります。いっぽう、現地人について、「・・・安南人は質素勤勉で一般に教育を尊び、社会各層を通じて読書、詩舞、音楽の趣味深く上流者はかなり発達した藝術的情操をもっているが、一面には詐り多く賭博を好む悪風を有し一般に経済観念に欠けている。男女ともに喫煙を愛好しキンマを噛み阿片を吸い・・・」と、いささか相反する評価😅。2015年に宝塚歌劇で上演された『舞音-MANON』は『マノン・レスコー』を仏領インドシナ時代のサイゴンでフランス軍青年将校シャルルと踊り子マノンの悲恋におきかえた作品ですが、宗主国であるフランス人男性の現地妻となったベトナム人女性のかなしいエピソードはめずらしくなかったのかもしれない・・・と過ぎ去った時代が偲ばれます。『舞音-MANON』/『GOLDEN JAZZ』人気ブログランキング本・書籍ランキングにほんブログ村にほんブログ村
2020.05.03
主婦と生活昭和24(1949)年11月号付録。なぜか表紙はあでやかなチャイナドレスでほほえむ美女ですが、内容はなかなかシビア。第二次大戦後すぐの、もののない時代。たべるものも、着るものもなく、国民ぜんたいが貧窮のどん底にあえいでいたころ。いっぽう、やけのこった和服をといて活動しやすい洋服につくりかえるニーズがあったことから、雨後の筍のように洋裁ブームが起こり、厳しい生活のなかでも平和がよみがえったよろこびに、女性たちがせいいっぱいの工夫でおしゃれを謳歌していた雰囲気が伝わってきます。毛布をコートに。は、なんとなくわかるのですが、左下のあざやかなグリーンのツーピース。な、なんとビリヤードの台のグリーンの敷布が材料!?こんなことができるんだと眼からうろこの思いもよらない着想。紳士服のスーツや男子用国民服も仕立て直して婦人服に。左下のメンズジャンパーは旧制高校のマントから。1949年は学制改革の年で、同時期に作家の北杜夫先生がいわゆる最期の旧制高校生のおひとりだった。木原敏江先生の少女漫画『磨利と新吾』のような学帽に学ランの上からマント、げたばきのバンカラ・スタイルがみられた最後の時代だったでしょうか。ともかく、旧制高校生のマントも和服用コートの『とんび』も布がたっぷりして、ほかの服につくりかえるには重宝されたことでしょう。別珍のカーテンからコート、映画『風と共に去りぬ』ではヴィヴィアン・リー扮するスカーレット・オハラが南北戦争直後の窮乏期に、お屋敷の古いカーテンを目の覚めるようなドレスにして装うシーンがありましたね。そしてつらつらみていると、和服から洋服に仕立てるのは当時の人々が皆ふつうになさっていたこと、新しい布が手に入らないこともありますが、なによりほどくと全部直線で一枚の四角い布にもどる着物はべんりだったのでしょう。ぎゃくに洋服(生地でなく)から着物に仕立てるのは、むずかしそうですね。時代は代わり、現在は古い着物をほどいて洋服やバッグ、パッチワーク等つくりかえるのはむしろぜいたくな趣味になった。とはいえグローバルには、おなじ世界でもものがなくて困っている地域は少なくないし、不要なものを利用してつくりかえる「ゆとり」があるのはとても恵まれたしあわせなことだと実感せずにいられません。本・書籍 ブログランキングへハンドメイド(リメイク) ブログランキングへにほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村
2017.01.27
去年の古書市でゲットしました。昭和8(1933)年少年倶楽部復刻版。おそらくは1975~76年の復刻版、1975(昭和50)年当時、『少年倶楽部』全盛期にあたる昭和6・7・8年版の復刻プロジェクトがあったようです。一冊800円でした。800円×6冊・・・は、分に過ぎた買い物でしたが、復刻版でなく戦前のオリジナルなら数倍のお値段になったかも。縁あって(笑)復刻版、昭和7年版は全巻そろえることができました。あとは昭和6年版も入手したい・・・(何月号だったか、表紙を破って顔を出すライオンの表紙画(笑)が印象的ですね)いつかめぐりあえると望みをいだいています。残念ながら(というべきか)、わが父が子供のころ愛読したのはもう少し時代が下がり(少なくとも7~8年後?)すでに紙が欠乏してページ数も薄くなっていた戦時下の窮迫した時期でしょうか。ともかく昭和戦前の児童文化の申し子、その新年号より。今から84年前ですからさすがにちょっと古めかしいですが書いてあることは現代に通じるというより、現代にこそ回復してこうあってほしい機運を痛感させられます。『少年倶楽部』万歳。人気ブログランキングへ本・書籍 ブログランキングへにほんブログ村にほんブログ村
2017.01.05
暮しの手帖第90号。昭和42(1967)年夏・刊。ほぼ半世紀まえですね。お母さん、縫ってみませんか。1型紙は、洋裁を少しも知らなくても作れること2ミシンを使わなくても、手縫いで、いわゆる運針ができる人なら、 洋裁を知らなくても、誰にでも縫えること3着せてみて、こどもが可愛くみえることこの三つを目標に、暮しの手帖の衣服グループが研究してきた結果です。すばらしい。 そして、その作り方は意外にも直線裁ちよりはるかに本格的。きちんと胸囲や着丈を測って型紙をつくり、型紙にあわせて裁断、えりあきや前立ては見返し袖ぐりはバイアステープで始末。一見シンプルですがとてもオーソドックスな裁縫ですね。胸囲の1/10を1マスにして方眼図をつくり、そこに線をひいて製図してゆきます。簡単ですが、既製服の囲み製図と同じ原理ではないでしょうか。じつに合理的。ボタン付きのデザインバリエーションもありますが前あきはほぼスナップ止めのようです。広がりをなくしてすそを短くすれば男の子のシャツも。えりとそでをつければ、本格仕立てのシャツ、打ち合わせによって男女どちらにでも。運動量の多いこどもたち、女の子なら共布でブルマーをそろえる心づかいを。大胆なプリントや、はぎれをくみあわせたりで印象も変わります。まず、えりなしそでなしの基本型のワンピースを縫って着せてみて、あとはえりやそでをつけたり、切り替えやギャザーをよせてみたり、好みで似あうスタイルを自分でくふうするのもだいじと暮しの手帖編集部は説きます。この当時の育児中の若いお母さん、1950~60年代に娘時代をすごしたかたは、洋裁を学んだ人口(衣服も手づくりしないと物がなかった時代)が非常に多いので多少なりとも心得のあるかたは手順通りに型紙をつくってミシンをつかえば1日で4~5枚はらくらく縫えたのでしょうが、ぜんぶ手縫いで仕上げるなら、基本型1枚に1日、2日以上はかかりそうです。「洋裁を少しも知らなくても大丈夫、ミシンもいりません」という名コピーはわが実母やお祖母ちゃんのようなタイプ(たいそう不器用なうえにお金もない、同じく私も)にはひじょうに魅力的(笑)だったでしょうが洋裁の前知識が全くない人が教えてくれる人なしに、はじめから完成までぜんぶ自分でできるかというとかなり難しかっただろうと思われます。企画じたいは大好評だったらしく、翌1968年初夏の暮しの手帖95号に新デザインふくむ続編が載りましたがそれきりで残念ながらロングシリーズにならなかったのはそのあたりの逡巡があった、のかもしれません。1967年といえば、私はまだ生まれたての赤ん坊(恥)でしたが、写真も素敵で今みるとなつかしいです。 東京湾付近でしょうか。「ドラえもん」に出てくるような、土管がころがっている空き地で縦横無尽に遊ぶ子供たち。21世紀現代では見られなくなった風景です。本・書籍 ブログランキングへにほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村
2016.07.24
手もとにある、時事新報社刊『少年』。えらんだわけではないのですが、偶然にも大正2(1913)年の同年発行。色刷り木版画ふうのほのぼの感。当時の世界的有名人・極地探検家スコット卿の悲劇などリアルタイムで本文にとりあげられています。さすがは新聞社。こちらは、ランダムに明治44(1911)年から大正3(1914)年発行の実業之日本社刊・『日本少年』。な・なんと、1冊200円の、ほぼ投げ売り状態(爆)でした。これだから古書あさりはやめられません・・・。すでに本文で竹久夢二、川端龍子といった当時の新鋭が活躍なさっています。ほどなくして『赤い鳥』『金の船』『コドモノクニ』等々児童向け出版の隆盛でキラ星のごとく、新たな才能が続々登場。こちらは大正元(1912)年の『日本少年』増刊号。乃木大将の自刃・殉死がすぐに子供たちにも届けられています。表紙だけみていても、昭和戦前の雑誌文化爛熟期(この約25年後?)とは雰囲気が明らかに違いますね。表紙も本文も、とても素朴でシンプルな感じです。大正3(1914)年創刊・後発の『少年倶楽部』も創刊当時はほかの雑誌と似たり寄ったりだったのでしょう。20~30年間で、社会も政治も科学も生活の文化水準も、時代が大きく様変わりしたであろうことを実感させられます。やがて大正末期には他社ライバルを抜いて少年誌トップの地位を確立した『日本少年』、昭和時代の『日本少年』や博文館の『少年世界』も願わくばぜひ拝見したいですね。上記の『日本少年』より竹久夢二の詩画。思い出『郵便ほいお上の御用でえっさっさ』『えっさっさ』郵便脚夫のうしろから学校帰りの子供等がえっさえっさとついて行く。『郵便ほいお上の御用でえっさっさ』・・・いまみると、古き良き時代。明治の終わりごろは、または夢二さんが幼いころはまだ飛脚のような郵便やさんがいらしたのでしょうか。人気ブログランキングへ本・書籍 ブログランキングへにほんブログ村にほんブログ村
2016.07.06
わりに肌寒い日が多かった6月から一転、うだるような猛暑にへたりきっている週末です。たまってきた古雑誌の整理をしようとひっかきまわして・・・なんとなく感無量。1941年から1945年の主婦之友。上段左から、1941年3月号・5月号・1942年新年号・4月号・6月号下段左から、1942年12月号・1943年6月号・8月号・1944年3月号・1945年3月号。1943年、昭和18年から急激にページ数が減って薄くなり、紙質のわるさはいわずもがな、表紙画にも戦時下の窮乏が如実にあらわれているようです。(消火訓練? バケツリレー?)ただしく表紙画は語る・無言の心の叫び。こちらは同じく、1944年、敗戦色濃くなった昭和19年発行の主婦之友および婦人倶楽部。いずれも、片手で折り曲げられるほどの薄い本誌。銃後の女性たちのかなしみがダイレクトに伝わってくるようで瞑目するのみ。戦争の根絶・恒久平和を祈念します。人気ブログランキングへ本・書籍 ブログランキングへにほんブログ村にほんブログ村
2016.07.02
昭和戦前の主婦之友、今から77年前の雑誌。すでに歴史的遺産になりそうです。本文グラビアより。西條八十作詞の『長期建設大陸音頭』にあわせて若き日の山田五十鈴さんの舞姿。艶やかな日本人形のような美しさ。大東亜共栄を標榜しながら、日中戦争が泥沼化していた時期でしょうか。人気連載山本有三の『新編・路傍の石』。和田三造画伯・画。成績優秀なのに家が貧しく進学できない鬱屈感から、子供どうしの自慢話のさなか汽車のくる鉄橋にぶらさがったことがあると口をすべらしてしまい、みんなのまえで実行させられるはめになる吾一。運転士が線路に横たわる姿を見つけ、緊急徐行したために間一髪助かる、朋輩の京造と抱き合う吾一、しゃくりあげながらお互いをかばいあう二人を見つめるおとなたち。路傍の石のようにたあいなく過酷な運命にほんろうされながらも真っ直ぐに生一本に生きぬこうとする吾一少年の姿は時代をこえて感動をよびます。が、年とってから(笑)再読すると、とある疑念が(ひねくれてますねえ)・・・ちょうど、見事に言い当ててくださっている内容がヤフー知恵袋にあがっていました。山本有三「路傍の石」について・・・両親のふがいなさはともかくクラス担任の先生や先生の友人で慶応出身のインテリの本屋さんあたりが、知恵や情報をつけてくれそうなものですが、それではお話が成り立ちませんね。ともあれ、明治がすでに30年近い昔になった当時の昭和戦前でも、家が貧しく進学できないどころか口べらしに奉公に出されたり女の子だと遊郭に売られたり苦難にあえぐ子供たちは少なくなかったのでしょう。しかもまもなく第二次大戦、戦局はあっというまにエスカレートして進学組も大学生の学徒出陣、それより年少の旧制中学や女学校の生徒は勤労奉仕で工場動員と、勉強したくてもできないたいへんな時代が到来。苦難の時代を懸命に生きぬいた子供たち筆頭に、当時の先人のみなさんに、低頭するのみ。家計をあずかる主婦必読のマネー講座ずばり、『お金に不自由せぬ法』執筆者の和田見治氏は、現在でいうところのフィナンシャルプランナー、財務のプロとして大活躍なさっていたであろうことがうかがえます。その説くところは意外にも、いや普遍の真理というべきか、現代にも通ずる、最近のマネーコンサルタントの指南書にも書いてあるような内容。まず眼鏡と算盤を用意しなくちゃならん、何をするかって?年がら年中ピイピイしている人の懐をのぞいて、パチパチ計算してみるのですよ。すると、ここに不思議な現象が現れてくる。ピイピイしている人の大部分は、実はピイピイしないですむ人なんです。収入と生活との調和がとれていない。『どうして、そんなにお金に困ることが好きなのか』と言いたいほど、お金の使い方がへたなのです。月給70円のサラリーマンが月30円の借家に住んでいたり、6、70円もする洋服を着ていたり、純益80円の商人が毎日晩酌をやっていたり、そんなことでは 不自由するのが当たり前じゃありませんか。 大ざっぱ(笑)に換算して、月収35万円で月15万円の賃貸マンション住まいだったりおしゃれな人だと30~35万円もの洋服を持っていたり・・・現在でもありそうですね。毎日飲み歩いていたら、そうとうな出費になりそうだし。 ・・・私は自分の体験から割り出して言うのですがね、金に困らぬ第一番の先決問題は、どうのこうのと理屈を言わずに、収入の1年分をあっさり貯めてしまうことですよ。これがそんなにむずかしいことでしょうか。いやいや決してむずかしいことはない。もちろん安直な考えでできることではないが、心がけ一つ、決心一つで案外大した苦労もなくやりとげられるのですよ。日収1円の給仕さんなら365円、50円のサラリーマンなら600円、80円の人なら960円、100円なら1200円、これだけはどんなことがあっても貯めなさい。そして、そのうちのひと月分は現金でしょっちゅう持っているようにして、残りの11ヶ月分を、利率は低いが安全な郵便貯金にしておくのです。なるほど。これはいけてる(実行はむずかしいけど)。月収25万円なら、めざすは貯金300万円。(・・・遠い道のりかも。)平成時代に郵便局は民営化して、ゆうちょ銀行が一般の都銀全般とくらべてより安全かとなると、ちょっとむずかしいけど(さいわい(笑)我が家の場合は両方に困るほどの預金もありませんが(苦笑))。 どうです、これがお金に不自由せぬ原則ですよ。同時に、貯金の第一課ですよ。これだけを最低の貯金にして、使ったらすぐに補充する、収入が上がったら増加するという風にして、これを一生涯繰回したら、ピイピイすることなんかあるもんですか。収入の1年分をそっくり出さなきゃならぬ場合なんて、人間一生のうち滅多にあるものではありませんよ。ごもっとも。経営者でもない一家庭で、一般的な一挙に法外な支出といえば・・・・お子さんが遠方の大学入学・同様に、外国留学・お子さんの結婚披露宴・家族の葬儀・お墓の建立・長期にわたる怪我や病気療養・マイホームの頭金とかでしょうか。ただし時期と場合によっては何件か重なるケースもままありそうです。まあ万全とはいかないまでも奨学金や高額療養費制度、病気で就労できなくなった場合の障害年金などの社会福祉は現代のほうが進んでいるでしょうし、冠婚葬祭費は家族葬など工夫しだいで出費をおさえられる可能性がありますが。 ・・・さて最後に、勤倹力行してお金に不自由していない人の生活ぶりは、そろいもそろって見事なものだが、その中から皆さんの参考になるような、数々の美徳を拾い出してみましょう。第一に、お金を大切に取り扱う。第二に、物を決して粗末にしない。第三に、人を大切に扱う。第四に、礼儀が正しい。第五に、自分の身体を大切に取り扱う。第六に、恩義をじゅうぶんに心得ている。第七に、決して無理をしない。いずれも、現代にも通用する真理ですね。和田見治氏の著書、とくに戦後の昭和30(1950~)年代に上梓された本、(敗戦で戦前の制度は瓦解し、リセットしたのちの再建)いちど拝読したいのですが現在アマゾンでも品切れか、在庫あっても相当高価なようです。時代にうもれた先人の皆さんの叡知に、大いに学びたいですね。人気ブログランキングへ本・書籍 ブログランキングへにほんブログ村にほんブログ村
2016.05.09
昭和14(1939)年婦人倶楽部10月号付録・『毛糸編物大全集』。再生糸・残り糸代用糸利用のキャッチコピーに時局の逼迫を感じさせられますが、まだ雑誌が大判の付録を出せていた頃。出征兵士慰問用編み物も発表慰問用編み物とはなんぞや・・・と好奇心がわきました。その解答。兵服の下に着るらしき メリヤス編みのシャツ(いわば「お父さんのラクダのシャツ」?)やズボン下、腹巻にくつした、今でいうネックウォーマー?大陸出征の、越冬の厳しさが思いやられます。意外にもズボン下や腹巻、くつしたやネックウォーマー、当時から輪あみのあみものが多かったのですね。私がこのなかでできそうなのはせいぜい腹巻とくつしたぐらいかなあ(^_^;)、シャツやズボン下のような大物はとてもとても・・・当時のあみものできる婦人、年配の主婦から女学生まで、奉仕活動でせっせと編みためたのでしょうか。もちろん徴兵された息子・配偶者・きょうだいの無事を願いながら編み針を動かした多くの女性の思いがあったことでしょう。時代を越えた女性たちのかなしみに、ただこうべをたれるのみ。人気ブログランキングへ編み物 ブログランキングへ本・書籍 ブログランキングへにほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村
2016.05.07
今回の古書即売会の収穫。時事新報社刊・『少年』大正2(1913)年2月号・3月号。そっくりな表紙で、入稿ミス!?と一瞬かんぐり(笑)ますが、版色がびみょうに異なっています。明治末期から大正初めにかけて、少年雑誌の大御所というべき存在が博文館の『少年世界』、つづいて『少年』、金港堂の『少年界』、ややおくれて実業之日本社『日本少年』。そして大正期は北原白秋や野口雨情が児童文学界に新風をふきこみ『赤い鳥』『金の船』から詩も画も新しい才能がキラ星のごとく活躍します。コサックの軍装で佇む少年は、重患の噂ある露国東宮殿下(目次より)すなわちロシア皇太子アレクセイ殿下。このとき御年満8歳。その薄幸な運命を思えばやるせない気持ちになります。一コマ漫画に登場するのは、マーク・トウェイン若き日のエピソード。 なんとなくハイカラなのは、流行の和洋折衷の気風のせいでしょうか。ユーモラスな笑い話。古典落語にも通じるような、思わず口の端がほころびどこかなつかしい小咄、この系統は昭和戦前戦中の『少年倶楽部』や『主婦之友』まで人気おとろえなかったようです。われらが(笑)不世出の児童向け雑誌大日本雄弁会講談社が『少年倶楽部』を創刊するのは翌大正3(1914)年。さあ・・・もう、すぐ。わくわく。ところで蛇足ですが・・・大正9(1920)年『世界少年』7月号の読者投稿欄より。一部抜粋、剽窃について・五月号剽窃に対して如何にすればよきかとの御問に左の通り愚見申し述べます。 一、剽窃または暗号者は今後投書を禁じること 一、投書をなすも没書のこと 一、愛読者の資格を失うこと(HI)・水野葉舟先生・・・五月号の作文欄を読んで剽窃が実際にあると聞いていやな気持になりました。しかし私も何時の本だか明らかではありませんが焼き直しを見た事でありました、私は他雑誌より本誌の作文欄がほんとの正直な文の集まりと信じております。また本誌に投書する人々に不正な人は居ないと思います。歌壇や句壇にはちょいちょい不正なのを見受ける事がありますが・・・もしあるとすればわかり次第発表するが一番だと思います。(東京K)・葉舟先生、前号俳句入賞、青森※※君のは日本少年四月に入賞したのを又世界少年に投書したのです。今度からそんな人があったら、すぐ証拠物件を添えて通知の方に書物をあるいは物品を呈するとしては如何です、私は病床でこれを書きました。乱筆は御免ください。(大分M)・我が神聖なる世界少年文壇に於いて焼き直し又は剽窃等のいまわしい語を耳にして私は失望するをえませんでした。今後そのような者が現れたら・・・・遠慮なく厳重な処置をとってください。即ちその者に対して賞品の発送を停止する勿論は今後一切投書を拒絶しては如何ですか私の思うところを腹蔵なく。(福島H)剽窃つまり盗作、もしくはパクリ。・・・昔も、今も、たいして変わりませんね。ただ、同じ作品を別紙に投稿するというのは・・・雑誌Aで不採用でも雑誌Bに掲載されることはありうるので、その場合は責められないのではと思うけど、この事例はいったん入賞した作品をまた別の雑誌に投稿しているとのことなので、これはNGかな。しかし時代が代わり人代わっても、編集や企画は刻々進化するけれどもいつの時代も読者をよろこばせたのしませようとする編集部や執筆者の奮闘、いつも新刊をたのしみにする読者の気持ちはかわらない。そしていつの時代も、だれにとっても子供の存在は未来への明るい希望であることは、唯一絶対の真理でございます。人気ブログランキングへ本・書籍 ブログランキングへにほんブログ村にほんブログ村
2016.05.05
今年も、ひょこひょこといってきました。四天王寺で年2回、春と秋の古書即売会。境内の広大なスペースに(一般店舗なら何軒ぶん???)膨大な古書、古本屋さんが集結する名物。手にしてめくれば、出版された「時代」がみえる、無尽蔵な掘り出し物のマーケット(どれだけ莫大な「お宝」をみすごしていることか・・・)。ちょうど憲法記念日でもあり、昭和戦前のレトロ感満載なポスター。左から、艦船と航空機、日本酒メーカーの和服美人、天女。陸軍省のポスターかと思いきや、小学生向け学習参考書・問題集の宣伝広告・・・らしい。勇ましいなあ。『幼年倶楽部』表紙のようなほのぼの感、てっきり白木屋か三越デパートの広告?とみまちがえそうな、第一徴兵保険(すごいネーミング)株式会社ポスター。『可愛いお子様の為に 徴兵保険 結婚保険』1930年代がよみとけそうです・・・。人気ブログランキングへ本・書籍 ブログランキングへにほんブログ村
2016.05.03
昭和14(1939)年3月号主婦之友よりミシンと令嬢。割烹着でかいがいしくミシンがけしているのは、実業家・栗原貞夫氏令嬢、美恵さま。『私、七人姉弟の一番上でしょう。だからとても忙しいんですの。今も、寛子ちゃんが学校から帰るまでには、仕上げたいと思って・・・』と、シクラメンの匂う日当たりのよい縁側で、セーラー服の衿付けをしていらっしゃる美恵様。のち館野栄一氏(現・タテノコーポレーション4代目社長)と結婚。おつかいのミシンはシンガー、おそらく当時の最高級品にして世界中で大ヒットしたスフィンクスのミシンと思われます。同じく主婦之友写真部撮影の扶桑海上火災(現・三井住友海上)専務・小山九一氏令嬢、富美子さま。 『戦地のお兄様からの便り? ええ、ありますわ。家中の生活日記を送ってくれなんて・・・これ私の古くなったドレスですけど、お兄様の一人っ子の信ちゃんのコートにしようと、裁断に苦心してますの』この廃物利用の傑作もまた日記の一ページとなって戦地へ送られることでしょう。いずれもシネマのワンシーンのようなポージングで映画スターかと見紛うほどの美しさ、当時の令嬢はいまのアイドルに匹敵する雑誌のあつかいだったであろうことが伝わってきます。何不自由なき令嬢も、家族の衣類を自らあつらえる、それを銃後のひっ迫とみるべきなのか、どうなのか・・・当時、女性の教養とされた茶道、華道、歌舞音曲、料理や洋裁和裁もプロなみに仕込まれ、お嫁入り前から身につけた一級の技術で戦後の激動期をのりこえたかたも、あるいは少なくなかったのでしょうか。四半世紀後、主婦の友昭和40(1965)年8月号付録『家中の簡単服』裏表紙は、なつかしきリッカーミシン広告。1965年、高度経済成長期後半の生活感がみえるようです。既製服が出回り、ミシンは生活必需品ではなくなりつつあったとはいえ、まだお嫁入り道具のイメージはつよく(笑)ミシンメーカー各社は花形企業だった時代。ミシンの形状もより機械っぽくなり、ジグザグはじめ各種縫い模様が付加されてベルトを取り付ければ従来のあしぶみミシン、モーターと電源コードをつなぐと電気ミシンと2ウェイから、やがてヘッドトップのみの電動ミシンにチェンジする、過渡期。進化に進化をかさねて、結局古き昔の黒ミシン、直線本縫いミシンが使用感、パワー、頑丈さ、壊れにくさ、縫い目のうつくしさすべてを凌駕するミシンの最高峰であるとずっと後の時代になってからわかる、なんという皮肉。人気ブログランキングへにほんブログ村にほんブログ村
2016.04.29
古書即売会の収穫。昭和17(1942)刊『婦人の生活』第2冊 とあります。1000円でゲット。戦前の生活史がみられるかとパラ見して・・・え? とびっくり。写真。レイアウト。活字。編集。見出し。カット。これは・・・なにもかも、他社の追随許さない独創的な生活誌として戦後を席巻した『暮しの手帖』にそっくり・・・否、まんま『暮しの手帖』だ ! ! !目次を凝視。執筆者もそうそうたるメンバー。装幀は、佐野繁次郎画伯。画業のかたわら戦前戦後とも個性的なブックデザインで活躍なさっていますね。写真は・・・創刊当時から『暮しの手帖』で記事の写真撮り続けたフォトグラファー松本政利氏。やっぱり。・・・なのに、なのに。とうぜんあるはずのお名前が、唯一載っていない。なぜ ? ?錯乱しかけましたが(爆)、そこはネットの時代。ありがたくも(笑)、検索かけてわかりました。こことこちら。 ウェブ掲載してくださったかたに、ただ深謝。なぜか『安並半太郎』が稀代の編集者、のち『暮しの手帖』名物編集長・花森安治氏のペンネームだそうです。経済的・活動的にしてつくりかたが簡単でみためもよいとして、戦後『直線裁ち』を提唱した花森氏はキモノ👘にも造詣深かったのですね。あらためて、その多彩な内容におどろき。太平洋戦争開戦直前に発刊、そして初期とはいえ戦中に重版。(全10冊刊行予定だったらしいのですが、残念ながら頓挫したそうです。)タイトル『外国雑誌を見誤るな』当時、海外のファッション誌を閲覧できた家庭はどれほどあったのでしょうか。右写真はいわゆる「二号さん」の装いなのだそうです(^^;)・・・財閥や新興成金?? いずれにせよ桁違いな世界。右の写真は当時美容界のトップリーダーのおひとりだった吉行あぐりさん考案の「うちで結える髪」。洋装・和装どちらにも向くようです。鏝やカーラーでかたちづくるのはたいへんな手間ひまでももののない時代だけに、おしゃれの渇望は深く・・・マンガの「サザエさん」はじめ、多くの女性が自分でヘアスタイルをきめたのでしょうね。左は「胴はぎ」の婦人服。戦後デザイナーとして華々しく活躍した伊東茂平氏考案。中原淳一先生なども同様な企画を手がけたころでしょうか。和装が洋装に転換するのは時代の必定だとしても、やがて「ぜいたくは敵だ」とエスカレートしてスカートはもんぺに。古い着物地を利用して洋服にリメイクする、マス・ケートさんの提案。戦後の衣料不足でいっそうニーズは高まり、のちの『暮しの手帖』にもひんぱんに登場する企画。時代はかわり、21世紀現代では昔ながらの日本の生地、紬や銘仙を洋服にしたてなおすのは贅沢な趣向に変貌。ともあれ、『暮しの手帖』の萌芽は戦前からあったのですね。すでに前世紀の戦前を知るかたが少なくなっているなか、花森氏のお仕事の一端ふくめあらたな側面をみせてもらうことができました。花森氏および氏が生涯かけて志向・追及したうつくしい暮しに敬礼。人気ブログランキングへ本・書籍 ブログランキングへにほんブログ村にほんブログ村
2015.10.14
『あなたが舞踊をやりだしたのは幾つからですか』『昭和二年、十六歳で東京へ出てきたのです』『十六歳で』『ええ、石井漠先生のもとに三年いて、それから十八で京城へ帰りました』『なるほど』『すると、親たちが早く結婚しろというのを押し切って勉強を続けました』『しかし、二年してすぐ結婚したんでしょう』『ええ、それは朝鮮というところは大体芸術家は卑しいものとして、お嫁にしない風があるのです』『お嫁にしなきゃ何にするんですか』『パトロンがついて、妾にするんです』『あなたにもそのパトロンが申し込みましたか』『ええ、随分煩かったですわ。だから私、そういうパトロンから逃げる為に防風林みたいなものが必要だったのです』『へ、防風林 ?』『ところへちょうど兄のお友達で年は二つぐらいしか違わないけど、今の夫と・・・』『ちょっと、待って下さい』『何ですの』『その防風林というのは夫のことですか』『ええ』『風除けとはけしからん。あなたは夫を愛していないのですか』『愛していますわ、そりゃ』『エヘン』と次の間から満足の咳払いが聞こえる。『しかし、私小さい時から周囲の人から愛される立場であったから、自分から積極的に愛する立場になったことがないの、だから愛に対する本当の経験が無いわ』『あなたは子供があるでしょう』『ええ、子供も愛しているわ』『じゃ、家庭生活は円満だな。夫も愛しているし、子供も愛しているから・・・』『ええ』『ファンからのラブレターや誘惑は来ませんか』『ラブレターなんか来ません。世間では私に夫があること大抵知っているから・・・』『誘惑は ?』『舞踊に夢中になっているから、そういうものを受け入れる暇がありませんわ。それに私は自我が強いから駄目』『エヘン』と再び満足の咳払いが聞こゆ。『あなたの子供は幾つですか』『五歳』『あなたは幾つですか』『二十五歳』『じゃ、結婚するとすぐ出来たのですな』『ええ』『やっぱり脚が長くて跳ねますか』どうもこの質問のコトバはよくない。まるで馬の子みたいだ。『門前の小僧習わぬ経を読むっていうのでしょうか。私の真似をよくするのですよ。パタンと転ぶところなんかやって見せるわ』その位なら僕でもやって見せる。愛娘の勝子ちゃん、のちの安聖姫は自身も優れた舞踊家になり、一家の帰国後モスクワに留学したり、数々の国際コンクールに出場しました。当時の雰囲気がつたわってきます。『あなたのその髪はなんですか』『ただの断髪』『人見絹枝嬢もそういう断髪をしていたな、彼女とあなたはよく似ている』『そうですか。今度オリンピックは日本でしょう。私、走ろうかな』『孫選手と一緒にお走りなさい』『ええ、ホホホホホホ』今度のオリンピックは日本とは、1940年開催予定だった東京オリンピックをさしていると思われます。『あなたは何が好きですか』『映画を見ることと・・・』『別に僕が奢るわけじゃないから遠慮なく好きなものを並べてください』『私はあんまり、好きでたまらんというようなものはありませんわ。ただ眠ることが好きなの』『眠ること・・・それならタダだ。ウント眠りなさい』『一日に十も踊るんでしょう。そりゃくたびれますわ』『もう、そろそろくたびれましたか』『ええ』『それじゃ眠りなさい』僕は立ちあがって、最後に、『あなたは化粧をしてないようだが、ふだんはしないのですか』『簡単ですわ。眉を引くのと、唇を描くのと・・・・』『あなたの、その唇は中々いい格好だ』僕は唇を誉めて、『そういう唇はキッスがとても上手なものですよ』といったら、次の間から、『エヘン、エヘン、エヘン ! ! 』と三つも大きな咳払いがした。僕、急いで帽子をとって、ステッキを抱えて・・・『いや、どうもお邪魔しました。』(をはり)明眸皓歯の美しい舞姫に、悩殺される邦坊画伯(^^)。『婦人倶楽部』本文以外の画像は、すべて『世紀の美人舞踊家崔承喜』(エムティ出版)より。1936年、崔承喜は芳紀25歳。新進舞踊家として絶賛され、家庭も円満で公私ともに順調。彼女の劇的にして数奇な波乱万丈の人生で最も安定して幸せだったのがこの東京時代でしょうか。とても切なくなります。よりくわしく知りたい方に、西木正明氏の『さすらいの舞姫 北の闇に消えた伝説のバレリーナ』小説ですが、秀れた評伝になっています。人気ブログランキングへ本・書籍 ブログランキングへにほんブログ村にほんブログ村
2015.10.13
昭和11(1936)年の『婦人倶楽部』10月号に和田邦坊画伯による崔承喜のインタビューが掲載されていました。和田邦坊画伯は当時の人気漫画家、中学・高校時代に歴史の教科書に載っていた成金の風刺画の作者といえば、思い当たるかたも多いかもしれません。いわばタレント文化人、芸能レポーター?昔も今も大して変わりませんね。全文引用してみようと思います。邦坊女人問答・崔承喜さんの巻五尺四寸二分で体重十四貫六百あるというから大変である。換算して、五尺四寸二分は1メートル64センチ、十四貫六百は54.75キログラム。だいたい身長165センチ前後、体重55キロでしょうか。理想的なバランスですね!彼女はひじょうに長身だったといわれますが(170センチ以上はあったとの情報もあり)、160センチ以上なら当時の成人男性よりも大きく、現代なら180センチ近いスーパーモデル並みの感覚だったのでしょう。僕は先年、死んだ人見絹枝嬢に『こっちへいらっしゃい』と手をひっぱられてころんだ経験がある。女だって大きいと男より力は強い。『あら、よくいらっしゃいましたわね。サ、こっちへいらっしゃい』と崔承喜さんが歓待の両手を差しのべた時に、僕は思わず手をひっこめた。また、転がされたらみっともないと思ったからだ。背が高いから腰かけると裸の向う脛がこっちへニュッと突き出た。僕はこの隆々と肉のしまった向う脛を(変なところを見つめて失礼だが)顔を近づけて一生懸命見つめながら、ああ立派な脚でござる。これは絹枝嬢と同じような脚でござる。さぞ走ると早いことでござろうと独りで考えて、『あなたの脚は生まれながらに動かす商売に出来ている』といったら、『長いでしょう』と自分で眺めて、パチンと向う脛を叩いた。『僕も叩いて見てもいいですか』と訊ねたら、『いい』というから、パチンと叩いた。別に変わった音色が出たわけではなかったが、肉がしまっているので、音は丁度絹枝嬢のと同じだった。『この脚なら走っても早いだろうな』『早いわよ、孫(そん)選手だってどうです』と威張った。なるほど、半島が生んだ、マラソンの超人、孫基禎選手は彼女の仲良しであった。グルネワルトの杜に二十四年待望の大日章旗を揚げて、大いに日本のために気を吐いた孫選手、こうなると彼女の鼻息は荒い。『内地の方が勝つより私何倍か嬉しいですわ。朝鮮生まれの人が全日本の爲めに働いたなんて、こんな愉快なことはありません』『郷土愛だな』『私、あの朝、孫さんが勝ったラジオ聞いていて、思わずコドモを握りつぶしたのよ』『え ! 子供って ?』『鶏のコドモ』『鶏の ?』『ええ、卵を握り潰したの』やれ、安心した。子供を握り潰したというから、また彼女の一粒種を本当にやったのかと思った。なるほど、卵なら鶏のコドモに違いない。『女ではあなたが選手だ』『でも、私なんか』という。謙遜しているんだ。この位の体格になると謙遜する嬌態(しな)だって容易じゃない。『私、大きいでしょう。大きいと大根芸といって、ニューとしているからアラがよく見えるのよ』『損だな』『ええ損ですわ』『そのかわり、夫婦喧嘩の時は得だ』『ところが、うちのひとは私より大きいから・・・』それじゃ、何にもならないや。『あなたは幾つのとき結婚したのですか』『二十歳の時・・・』『恋愛結婚ですか』『見合いみたいな、恋愛みたいな・・・』『変な結婚だな』『私の兄のお友達だったのです』『そこで互いに交際している内に、つまり・・・その遠くて近きは男女の仲、近くて遠きは聾の中って・・・』『それ何ですか』『浪花節にあるんですよ。つまり、何時しか恋愛になったのでしょう』『いいえ、交際はしたのよ。でも、兄の家で見合いして結婚したのだから・・・』『でもあなたの主義は、恋愛至上主義だというではありませんか』『そうよ、恋愛至上主義ですわ』『それに、見合いみたいな、恋愛みたいな、ややこしい結婚ならあなたの主義と違うじゃないですか』『私がそうじゃないから、結婚を前提とした恋愛至上主義なの』『つまり、夢を持っているんだな』『そうですそうです』と彼女が嬉しそうに、『自分の無い世界だから始終夢を追っているの、この気持ちは芸術家にはいいことでしょう』なるほど、こいつ頭がいいぞ。『その夢をあなたは大事にしなさい』『モチよ、踊りのうるおいもこの夢から自然に生まれ出るのじゃないでしょうか』といって、今度は彼女は膝坊主を叩きながら、眼を細くした。二重瞼の茶色の瞳だ。彼女の兄上も、夫君の安漠氏も、ともに日本の大学に留学した当時の知日派インテリグループ。同じグループ内での彼女の結婚は想定内、必然な出来事だったのでしょう。弟子がソーダ水を運んで来た。僕はストローをすぐ取ったが、彼女はぼんやりとまだ眼を細くしている。・・・・あんまり姫には夢を見過ぎる。『もう、夢はその位にして、次の問答に移ります』といって、『あなたは男役ばかりやって、女役はどうしてやらないのです』『女役やりたいけど、私がこんな背が高いでしょう。私の相手の男役なら、どうしても五尺七寸くらいなくちゃいけないわ』五尺七寸は約172センチ。こちらの画像から、男役が多かった当時の彼女が偲ばれるでしょうか。五尺七寸・・・・か。なるほど五尺七寸の相手をさがすのは骨だ。『それで、男役ばかりやっているんですな』『ええ、ノッポも困るわよ』という。僕、うっかり、『この脚を少し折るといいんだな』といったら、『エヘン』と次の部屋に咳払いあり。『夫君がいるんですか』と親指を出して見せる。『ホホホホホホホ』と彼女が笑っていた。人気ブログランキングへ本・書籍 ブログランキングへにほんブログ村にほんブログ村
2015.10.13
図書館でみつけた雑誌バックナンバー、表紙に躍動する美女の写真。思わず手にとりました。戦前、日本で成功して活躍し、世界的な名声をえた朝鮮半島出身の舞踊家・崔承喜。桑原甲子雄氏が撮影した有名な写真。1934年、鎌倉・由比ガ浜で行われたオリエンタル写真工業の撮影会でモデルをつとめた崔承喜とあります。・・・不思議なのですがとても今から80年も前の古い写真にはみえません。着用している水着(当時最新流行?)が古風といえばいえるけどのびやかな肢体、若さ匂いたつ健康美。21世紀現代のCMでもじゅうぶん通用しそうです。舞踊の実力に加えて天与の美貌。彼女は当時の大スターでした。舞踊家・石井漠に師事、修行を積んでいたころの崔承喜。16、7歳ころでしょうか。『世紀の美人舞踊家崔承喜』(エムティ出版)より。美少女ですね。舞踊以外にも、各種広告やファッションモデルにひっぱりだこの多忙ぶり。画壇でも、安井曽太郎や鏑木清方のような当代の一流画家がきそって彼女を描いたといいます。いつか拝見したいですね。『世紀の美人舞踊家崔承喜』(エムティ出版)より。昭和11(1936)年主婦之友9月号より。万人向けのする軽快な流行型の婦人用ブラウス秋のブラウスに、ぜひお召しくださいませ。これは、崔承喜さんだけによく似合う・・・のではありません。どなたにも向く流行のスタイルです。・・・と本文にあります。恩師・石井漠の回顧録・昭和30(1955)年・産業経済新聞社。『崔承喜』に1章をもうけています。・・・その時に、当時京城日報の学芸部長をやっていた寺田寿夫氏の紹介状を持って、私の楽屋を訪れた二人の兄妹があった。兄承一君の話によれば、自分の妹をどうしても舞踊家に仕上げたいのだという。どうか世話をしてくれるようにとのことであった。その妹というのは云うまでもなく今の崔承喜ではあるが、その頃の崔承喜は、淑明女学校を卒業したとはいうものの、まだ十六才の小柄な少女に過ぎなかった。・・・・・・私達は承喜を連れて、二等車の人となった。大勢の見送り人と挨拶を交わし、いざ発車という時になると、改札口の人混みから、一人の日本婦人の止めるのも聞かず、白衣の婦人が朝鮮語で承喜の名を呼びながら、狂人のように駈け出してくるのを見て、私達は吃驚した。 そのうちに汽車は動き出す、承喜は私達のおさえるのも聞かず体をのりだして「オムニー、オムニー」と涙をふきふき、金切り声をあげて母を呼ぶ。あの時の光景は忘れられない。 しかし見送人の影も遠ざかり、やがて龍山の駅に着いた頃は、承喜の気持も和らぎ、窓から顔を出したまま、学校で教わった日本語の唱歌を歌っているので、私達は思わず顔を見合わせて微笑まずにはいられなかった。あの時の日本婦人は女学校の受持の先生だそうで、母親には東京に行くことを全く内証にしていたことが後でわかった。・・・・・・大正天皇の亡くなられたのはそれから間もないことであった。多摩御陵行きの御霊柩の列車が通るというので、私達一同は中央線の線路ぎわにお見送りすることになった。承喜もその中に混じっていた。いざお通りになる時になって一同黙とうしていると、承喜は何故か後ろ向きに突っ立っている。私はそれとなしにたしなめたがきかなかった。後で、その理由を聞くと、「私は、日本の天皇さんを拝む気持にはどうしてもなれません」と、はっきりいわれたのには言葉が出なかった。それほど、その当時、日本に対する民族意識が高まっていたのである。 私はこの時、天皇様に限らず、どんな貧しい人の死に対しても、敬虔な気持で見送ることのできないような人は、決して立派な人になれないことや、芸術家になる資格のない人間であることを、よくいい聞かせると、さすがに利口な子供だけに、涙を流してうなずいた。・・・その後三年の月日が経って、私達が北海道の公演をすまして東京に帰ってくると、崔承喜は急に帰国を申し出た。ちょうどこの頃の半年ほど前に、山陰道の旅行中私は眼病にかかり、失明を伝えられて間もない頃で、奥の室で来訪医師の手当てを受けて、眼を包帯したままソファーに横たわっていた時だった。そこで極力それを引き留める勇気もなく、そのまま別れることになったわけだが、その後、崔承喜は京城において、かなりの奮闘をつづけている噂を時々耳にしていたのである。 そのうちに私の眼も奇蹟的に快方に向かって、それからまた度々京城を訪れる機会に恵まれたわけだが、それから二年後の夏、京城に行った時は、安という早大露文科出身の青年と結婚していたばかりでなく、大きなお腹を抱えて出迎えの人の中に立っていた。そして承喜夫妻は、つくづく前非を悔い、再び東京に行って指導を受けたいと懇願するので、気の弱い私達夫婦は遂にその談判に負かされてしまった。・・・・・・・それから三年目に、いよいよ崔承喜の第一回舞踊公演を明治神宮外苑の青年会館で催すことになった。現代舞踊家は、バレエの場合と違って、それぞれの特徴を持っていなければならない。この意味でやがては朝鮮舞踊の研究をやり、それを国際的手法によって、その精神を再現することが崔承喜のためにも、世界の舞踊界のためにも、最も意義のあることだといったようなことを話し、嫌だというのを無理に朝鮮舞踊を一つ、プログラムに入れさせることにした。・・・それからというものは、崔承喜の名声がとみに高まり、独立して崔承喜舞踊団をつくり、全国的に公演を行うようになったが、例の『半島の舞姫』の映画が製作されたのも、この時分であった。・・・・その後、間もなく承喜は映画が完成すると、アメリカに渡り、ヨーロッパ、南米の公演を行い非常な成功を収めて、再び日本に帰るに当り、崔承喜は共産思想をもっているという噂のため、上陸を危ぶまれたらしく、このことを書いた長い手紙を受け取ったが、云われるままに船に迎えに行くと、大したこともなく私の身体にすり寄るようにし、どうにか事故なしに上陸出来たことは嬉しかった。それから後、十八年八月には帝劇を借り切って、二十五日間の単独公演をやり、連日満員の盛況を呈したが、これなどは、日本では勿論のこと、単身でこのような長期公演をやった例は世界にも類のないことである。・・・その後、崔承喜は帝都電鉄沿線の永福町に立派な洋風の邸宅と研究所を作って、そこで研究をつづけていたが、そのうちにいわゆる大東亜戦争の機運が高まり、承喜夫妻は弟子達と共に大陸へ軍隊の慰問に行っていたらしいが、そのまま日本には帰ることが出来なくなり、結局、北京におちつくことになったということを、風の便りに知った。そのうちに、朝鮮は南北二つにわかれ、崔承喜は夫の安君と共に、北鮮政府の中でも重要な地位をしめるようになり、承喜は芸術方面に、特に、舞踊方面に力を入れているらしく、先年ソビエトに招聘され、国賓待遇をうけながら、圏内の各都市を公演し、非常な賞賛を博したということを耳にしたが、あの利口そうな承喜の、素振りから顔までが、頭の中に浮かび出て嬉しかった。また三年程前に、チェコスロバキアのプラーグで、民族舞踊のコンクールがあって、承喜の一人娘の勝子ちゃんが、安聖姫と改名して出演、最高の栄誉を勝ち得たという報道にも接して、私としては重ねて嬉しいかぎりであった。最近、崔承喜来日の噂が高く、そのために、よく新聞社あたりからも尋ねられて弱っているが、しかし、私としてもそういう時期の一日も早く来てくれることを、待ち望んでいる次第である。年譜では、『おどるばか』上梓されて2年後の1957年、モスクワで開催された平和友好祭で師弟はつかのまの再会、だきあって喜ぶ感激のひとこまがあったようです。・・・その後しばらくして崔承喜一家の消息は完全にとだえてしまうのですが彼女の恩師である石井漠先生の語調には、遠くない将来再会して、ふたたび自由に交流できる日を切望する未来への明るい期待が感じられますね。いっそう悲しい。人気ブログランキングへ本・書籍 ブログランキングへにほんブログ村にほんブログ村
2015.10.12
待ちに待った秋の古書即売会。それなりに収穫はありましたが、残念なことに(笑)今回も大正期の『少年倶楽部』はじめ少年少女誌、婦人誌はみつからず(私が見落としているだけかもしれませんが・・・)。ショーケースにおさめられた『少年倶楽部』。みただけで、胸が熱くなります。昭和15(1940)年刊。加藤まさを・山川惣治・梁川剛一・江戸川乱歩絢爛たる執筆陣。しかし・・・すてきなお値段。値札など気にせず、すいすいと(笑)大人買いできる身分に・・・なってみたい。さらにハイグレード(笑)な、『講談社の絵本』。がんばって、貯金(笑)しなくては。ライバル誌の実業之日本社刊『日本少年』もいつか手に入れたいなあ。人気ブログランキングへ本・書籍 ブログランキングへにほんブログ村にほんブログ村
2015.09.14
つかのま、両国国技館にゆく機会をえたおかげで、思い出しました。『世界少年』大正10(1921)年1月号『新年特別号』に掲載された、スターの紹介記事。第31代横綱、常ノ花関が大関に昇進してまもない頃、ニューヒーローとして脚光あびていた若き日の勇姿。このかたは現在まで、岡山県出身の唯一の横綱で戦後の角界の復興と発展にも尽力されたかただそうです。すぐ検索できる、やはりインターネットは便利。・・・丁度土俵の上では日の出の勢いの栃木山が、入れ代り、立ち代り打つかって来る幕下の木っ端力士を、毬でも投げるかの様に何の苦も無く手玉にとって土俵外に投げ飛ばしていましたが、あたりをみまわし相手欲しそうに、「オーイ、寛ちゃん、一丁」と挑みかけますと、声に応じて彼方で「ヨーシ、来た」と返事を致しました。・・・と本文中にある「栃木山」とは、軽量ながら歴代最強と謳われた同じく大正時代の名横綱、栃木山関と思われます。両雄ならび立つ、相撲ファンにとってはとても楽しみな時代だったのでしょう。本・書籍 ブログランキングへにほんブログ村にほんブログ村
2015.07.21
戦前、1930年代にロングセラーになったとおぼしき『講談社の絵本』。10年ほど前に、そのうち選りすぐりの20冊が『新・講談社の絵本』として復刊されたのは記憶に新しいところです。『乃木大将』は古書市での掘り出し物、復刊された『安寿姫と厨子王丸』は図書館で借りてきました(いつもありがとうございます)。日露戦争で長男・勝典中尉、次男・保典少尉をともに亡くした乃木大将の悲劇。多くの将兵の犠牲のすえに、旅順陥落。明治天皇の仰せによって学習院院長に任じられた乃木大将。初等科時代に大将の薫育をうけた昭和天皇陛下は、『院長閣下』をお慕いになり、生涯尊敬申し上げていたとつたわります。伊藤幾久造・画池田宣政(南洋一郎)・文。有名な乃木大将の学習院生徒への訓示。100年以上前なので、さすがに古めかしいですが今に通じるというより、現代にこそ頷かされる、普遍的かつ根源的な教育。詳しくは、こことこちらを。今暫し、むずかしいかもしれませんが同シリーズの『東郷元帥』『広瀬中佐』とともに、復刊してほしいですね。『安寿姫と厨子王丸』は、須藤しげる画伯・画。私がこれまでにみた『安寿と厨子王』『山椒大夫』関連の本のなかで最も美しい絵本です。山椒大夫の下人としてこきつかわれながら、お互いをいつくしむ姉弟。日本画を連想する艶麗な描線と美しい色彩、和様の美。自らの身はかえりみず、弟をにがす安寿。かなしくもけなげな場面なのですが、絵巻のような美しさ。80年前に、ほぼ同時期の20世紀前半の欧米の『絵本黄金期』、アーサー・ラッカムやデュラック、カイ・ニールセンの傑作にも比肩するわが国の「絵本」が出版されていた誇るべき事実。未来にも語りついでゆきたいですね。人気ブログランキングへ本・書籍 ブログランキングへにほんブログ村にほんブログ村
2015.07.11
台湾有数の観光スポットとして名高い、国立公園・太魯閣国家公園。絶景の太魯閣峡谷は、ヒーリング・スポットとしても大人気で、世界中から観光客が訪れるようです。今をさること約80年前。昭和11(1936)年9月号の『主婦之友』に、なんと当時の地元の若い娘さんたちの座談会が収録されています。ウィキペディアには、日本の台湾領有後、山地原住民は「生蕃」(後述)と呼ばれ、領台40年後の1935年(昭和10年)に秩父宮雍仁親王の要請において公式に高砂族(たかさごぞく)と改称された。とありますが、1936年の『主婦之友』ではまだ『生蕃』と記されていますね。取材に訪れた記者は、集まった娘さんたちまず伝統衣装の民族舞踊、ついでゆかたに着がえて日舞のおひろめで歓迎され、その達者なことに瞠目したようすが語られています。カラーでみたい、伝統衣装。元来台湾に住んでいる人たちはポリネシア系の民族で、褐色の肌に黒曜石のひとみ、まさしく『南洋美人』。彼女たちはゆかたが好き、伝統の織の粗い着物にくらべて日本の着物は肌触りがよく、かるくて快適だといいます。地元駐在の役人や警官の夫人たちが裁縫の先生になってゆかたの縫い方を教わり、着付けもマスターしたのだとか。簡単服(当時流行のアッパッパ、いまのチュニックワンピースのような感じ?)を町で買ってくる人もいたようですね。このころは、幼いうちに伝統の入墨をする風習がふつうにあったのですね。そしておしゃれに気をつかう若い人にとって決してよい習慣ではなかった事がつたわってきます。上の画像・右の山月橋、いまもタロコ名物でしょうか。左は写真が小さくて恐縮ですが『警官に敬礼するタロコの少年達』・・・教育所の屋根を葺く草を取りにいっての帰り道です。警官はお髭の深城忠一氏、タロコの青年男女から慈父のように慕われている人。・・・と、あります。乙女たちの理想の夫君は・・・元気でよく働く人。心の優しい人。お酒を飲んで怠けたりしない、規律正しい人。そのまま、現代にも当てはまりますね。と同時に、当時はまだ内地の日本人、現地人の明確な差別があり、口には出さないけれども彼女たちも身にしみて感じている、切ない気持ちが思いやられます。そして統治者側の現地啓蒙政策への努力。産婆さん、今でいう助産師の講習をうけるのがお嫁入り前の娘さんたちの一種のステイタスであり、年若い乙女がりっぱに助産師を勤め上げる、記者いわく・・・レベフさんは、そんなに上手な産婆さんで、頭脳もよいし、重い荷物を背負って7里の山坂を歩いても平気なくらい身体が丈夫だし、そのうえ、ハーモニカを吹いたり、『酋長の娘』を歌ったりする朗らかさもあるし、ほんとに、いいお嫁さんになれますよ。おっしゃるとおりで、有能で頭脳明晰、気立てがよくて明るくて、働き者で峡谷で鍛え上げた健康美、これだけ非の打ちどころの無い女性は、どんなに望んでもめったに見つかりそうにないですね。(あえてイメージするなら、なでしこジャパンの皆さんがそれに近いかなあ)さらに、素直な気立てに「芯の強さ」をかねそなえた乙女たち。実母が「子」より「恋愛」を選択するのを許し、幼い妹たちの養育をうら若い乙女の身でひきうけていっしんに働くアッパイさん。親に決められた「家」どうしの婚姻に反発、覚悟して自分の意志を通し結婚破棄、請求された慰謝料も一括返済したイワルさん。記者は「どちらも、よい意味でのタロコの新しい女であり、先覚婦人」「花も実もある立派な大和撫子」と、絶賛しておられます。往年の台湾をしのばせる、泰弘さまのすばらしい記事です。ぜひごらんください。日本統治時代の台湾風光・・泰弘さま、リンク引用こころよく許してくださりありがとうございました。泰弘さんの〔追憶の記〕です・・・現在も、世界有数の親日国・台湾。わが国を好きであってくださるのは、とてもうれしいですね。『主婦之友』誌上の座談会はなごやかですがこの後の第二次大戦、戦後、大陸を脱出した国民党の統治と、時代の大激動、とうぜん彼女たちの人生にも大きく影響したことでしょう。80年前の乙女たち、その子孫の皆さんが、当時よりいっそう幸せでありますようにと祈ります。人気ブログランキングへ本・書籍 ブログランキングへにほんブログ村にほんブログ村
2015.07.06
明治時代の少年誌、明治38年(1905)年2月発行の時事新報社刊『少年』と、明治28年(1895)年2月発行の博文館刊『少年世界』。『少年世界』の口絵。時あたかも日清戦争たけなわ。『少年世界』本文より。銅版画の流麗で緻密な挿絵、トランプの手品などハイカラですね。こちらは10年後の『少年』から。『雪の朝』、風雪に耐えてできるかぎり着込んだ子供たちの登校風景でしょうか。石版画のやわらかい色調、画はむしろあたたかい印象ですが暖房のなかった当時、実際はたいへんだったことでしょう。『少年』には有名な『三匹のくま』が紹介されています。挿絵も内容もハイカラでどことなくバタくさく(笑)感じるのは日英同盟の影響?ユーモラスなコマ絵(ひとこまマンガ?)。・・・説明はいりませんね。その気持ち、わかるわかる。こちらは同年、明治38(1905)年8月発行の金港堂刊『少年界』。洋装の男の子がまたがる自転車の両車輪に世界地図が入っている、和魂洋才、富国強兵、西洋列強に伍して大国たらんと奮闘する明治の高揚感・・・でしょうか。『少年界』みひらき。『少年界』より。りりしい明治の尋常小学生。全員が着物に袴ですね。あらためて、当時の児童向け出版物、編集部の意識の高さに驚かされます。子供だましなどではさらさらなく、執筆者も画家も心血そそいで名作を書いていらっしゃる、尊敬に頭の下がる思い。・・・ただし気になるのは、このような各社競合したハイレベルな雑誌を講読できる子が実際にどれだけいたかということ。一部の恵まれた階層に属する子をのぞき、子供たちの環境がひじょうに苛酷だった当時、向学心があっても貧しくて進学できない小説『路傍の石』の悲劇、それ以前に貧しい農村では小学校にもいけない子も少なくなかった、口減らしに里子や奉公にでたり、郭に売られる女の子、21世紀現在も途上国で問題視される過酷な児童就労が身近にあった時代。現実が現実だけに、むしろいっそう執筆陣の意識が高く、けなげに一生懸命生きる子供たちに夢や希望、たかい理想をもってほしいと意欲的になった側面もあるのでしょうか。・・・ほかならぬ『路傍の石』中に、「・・・かれらのなかで『少年世界』をとっているのは道雄だけだった」の一節があり、家が裕福で雑誌が購読できる子は小学校のクラスでひとりかふたり(旧制中学や女学校に進学できる割合とほぼイコール?)、あとはみんなでまわし読みしたのでしょうか。1905年、日露戦争がようやくおわった年。そして戦前の少年雑誌の金字塔として一時代を築いた『少年倶楽部』が創刊されたのが大正3(1914)年、この9年後ですね。こちらのすばらしいサイトも、ぜひごらんください。人気ブログランキングへにほんブログ村にほんブログ村
2015.05.07
大正から昭和戦前(たぶん戦後も?)に活躍した幻の画家・森田久。『世界少年』誌上にも、そのはなばなしい活躍の一端がかいまみれて、うれしかったです。申し遅れましたが、大正9(1920)年7月号の表紙『蛸壺(たこつぼ)』も、森田ひさし画。同じ出版社系列で『子供の科学』が創刊されたのはこれから4年後の大正13(1924)年、有名な『少年科学探偵』の挿絵をはじめ森田久が『子供の科学』でも活躍したことは想像にかたくありません。小酒井不木も、『少年科学探偵』序文で森田への敬意を述べておられます。『少年科学探偵』の初版本、いつかみたいなあ。探偵小説の、鋭利な挿絵。やはりどことなく見覚えがあるかのような懐かしさ。私のカンにくるいがなければ(これはわれながらひじょうにあやしい)、昭和戦後も、児童向け大人向けとわず、挿絵・イラストで大いに活躍なさっているかたではないでしょうか。うってかわって、ユーモラスなマンガ。大正年間にスキーを楽しむとは、なかなかハイカラ。こちらは、子供の落語ふう。『高原の夕』と題された口絵。右上に「ひさし」と記された細長い署名が、こちらの美人画の署名と似ています。女性や少女向けの本や雑誌では、またそれにふさわしい美しい絵をたくさんこなされたのでしょう。時代にうもれて現代は知る人の少ない閨秀の画家や文人、少なくないのでしょうね。もっと見つけられるといいな。人気ブログランキングへ本・書籍 ブログランキングへにほんブログ村にほんブログ村
2015.05.06
大正時代の『少年倶楽部』がほしくて古書市とみるとほっつき歩いていますが、まだめぐりあう機会を得ません(みつかっても、あまりに高価だとこれまた買えませんが(笑)(泣))。今回、四天王寺の古書即売会で発掘したのは新光社刊の『世界少年』。新光社は現在の誠文堂新光社の前身、現在も発売中の『子供の科学』創刊は大正13年、その少し以前。くわしくは、こちら。大正9(1920)年7月号。大正10年1月号・2月号。当時、人気・売り上げともにトップだったのが実業之日本社の『日本少年』、大日本雄弁会講談社の『少年倶楽部』はすでにメジャーな地位を確立していたとはいえ、少年誌のトップ独走・全盛をきわめるのはやはり昭和戦前になってからのようです。大正デモクラシーのなか自由な表現を希求する新たな才能がつぎつぎ現れて創刊された多くの雑誌が売り上げを競っていた時期、本誌も同じく、小学校高学年から中学1,2年あたりの児童・生徒対象の人気雑誌だったのでしょう。看板作家のおひとりだったと目される『藤波美登里』。ネットで検索しても何も出てこないので残念ながら来歴はわかりません。男性か女性かもわかりませんが筆名ややさしい文体から、うら若き女性を連想します。感傷的ともいえるたおやかでどこか寂しげな文章と内容、しかしその文面にはめぐまれない人々の境遇(貧しい子や親のない子)への思いやり、共感と同情がこめられている。やはり、若い女性の作家でしょうか。・・・女学校時代から詩や文に親しみ、やがて雑誌に投稿するようになり、採用の期待に胸ふるわせながら出版社にむかううら若き文学乙女・・・と、勝手に連想してしまいました。水野葉舟も執筆。ピーターラビットふう?挿絵画家不詳ながら、『鳥獣戯画』をシャープにしたような描線が素敵。水野葉舟はこの2、3年後、同誌上でお得意の怪奇心霊物を発表して人気をあつめたようです。編集者がおしのびで説話の主人公を訪ねる設定の、ユーモラスなよみもの。おそろしげな大江山酒呑童子は記者に葉巻をすすめながら、記者のすすめた砂糖豆(甘納豆?)にふるえあがり(節分の豆まきにひっかけてある?)、白い髭の好々爺、浦島太郎は商魂たくましく「竜宮の絵葉書セット」を強引に記者に売りつけて記者をへこませる。江戸の偽作、滑稽本の流れをくみ、たどりつく先は現在のギャグマンガでしょうか。なつかしいのに、どこか新しく、時代を経ても変わらないのは「人々の気持ち、思い、人の心」。人気ブログランキングへ本・書籍 ブログランキングへにほんブログ村にほんブログ村
2015.05.05
昭和12(1937)年『主婦之友』新年号付録の『花嫁さん全集』。B6サイズの小判ながら分厚いずっしりした本です。ざっと80年前の、新婚生活マニュアル。花嫁衣裳の髪の結い方や着付けにはじまり、式場(神前式)の作法、新婚旅行、その後の生活(結婚に関する法律、保健・衛生知識、親戚づきあい、夫や妻の交友、家庭経済、家事のきりまわし方、夫の操縦法まで)なんでも書いてあります。夜具(ふとん)一式の作り方。ふとんやねまき、ゆかたや丹前(旦那さんのも)は購入するのではなく「つくる」んですね!(地方の名家などでは、娘さんのお嫁入りじたくでお母さんや姉妹全員が協力してひと揃い縫いあげたのかも)都市部には大きなデパートや商店があり実際には買いそろえたかたも少なくなかっただろうと思いますが、現在あたりまえに使用している家電製品(冷蔵庫、洗濯機、掃除機、電子レンジ)がまだなかった当時、家事の労力はくらべものにならないほどたいへんだったろうと察します。「家運を開く家庭の持ち方」お掃除上手の花嫁ならきっと家運を開くべし塵芥(ごみ)箱や便所を清潔にする花嫁は必ず一家を繁盛さすべし履物(はきもの)をきちんとしておく花嫁は一家繁盛の主婦となるべし神棚や仏壇を綺麗にする花嫁は一家をきっと繁盛さすべし現代でもあなどれない教え。そうじがゆきとどいて家が清潔なことはたしなみというよりさらに家運の隆盛になる。・・・ただ、わが身をはじるばかり(さあ、そうじしなくちゃ)。夫婦仲のよい円満な家庭はお料理上手の家に限る一日忙しく働いて疲れて帰ってきて、ぜいたくでなくても美味しいてづくりの料理で迎えられる、ご主人にとってこれほどのよろこびはない・・・不変の真理だなあ。共働きの多い現在はなかなかこういかないかもしれませんが、(ご飯のしたくも、当番制になるかも)いちばんたいせつなことは、じつはごくごく単純なこと(だけど、単純であたりまえなことを、継続していくのがむずかしい)かもしれません。新婚生活のやりくりのすすめ。「天引き貯金をなさいませ」「ボーナスなどの特別収入も、決してあてにしないで貯蓄に心がけること。ボーナス景気で、御主人様をお供に思いきり買い物をするようなことは、よく漫画の材料になるけれど、堅実な予算生活の家庭には禁物のこと」「花嫁時代は準備建設の時代です」・・・これも、即、現代に通じるおしえです。1920~30年代は給与生活者、サラリーマンが確立した時代でしょうか。また、なかなかひとに聞けない言えないようなこと、防犯や思わぬ苦境に陥らないための心得、・・・昭和後期になってからも、マンガの「サザエさん」や「おばけのQ太郎」に登場する押し売りはコミカルですが、現実にはとてもとても・・・「・・・コレを買わないと家族に不幸があります」とかいわれると後味わるく、しまつにおえません。たちのわるいものは枚挙にいとまなく・・・現在よく話題になる消費者金融トラブル、いまに始まったことでなく、昔から連綿とつづいていることに、いまさら驚かされます。昭和初期の大恐慌はあったものの産業が発達し技術革新、都市型生活を謳歌する人口がふえて情報のるつぼからさまざまな誘惑に手をとられ足をひっぱられ・・・なんだか現代に、とても似ているような・・・。なつかしくも既視感あり。「人の心」「根本的にたいせつなこと」の不変のみならず、どこか危うい惨禍すれすれに、つねに岐路にたたされているような繁栄のかげに不安あり?繁栄がつづくにこしたことはありませんが、激変する時代、ふだんの(べんりで安全な)生活に感謝して現状を省みるのも、ときには必要に思います。往年の花嫁さんたち、家庭を支えつづけた女性たちに、敬礼。人気ブログランキングへ本・書籍 ブログランキングへにほんブログ村にほんブログ村
2015.05.04
明治39(1906)年発行の『女学世界』をめくっていたら、美しい女性の肖像写真をみつけました。伊東中将夫人マリーフラパーズ。伊東中将とは伊東義五郎海軍中将、ウィキペディアによればこの掲載の翌年1907年に男爵に列せられた明治のセレブリティー。武者小路実篤氏は縁戚にあたるそうです。夫人に関しては簡潔に、妻 伊東満里子 テオドール・フラパース(フランス海軍軍人)の娘、フランス名マリ・ルイーズ・フラパースとあるのみ。明治時代の帝国軍人が、西洋人女性と結婚とは、意外に感じましたが、なんとなく明治は保守頑迷で国粋主義にこりかたまった時代のように思い込んでいるのですが、明治維新の大転換がありそれまでの伝統価値観が覆されたまさしく『ご一新』の激動期、あんがいリベラルでフレキシブルだったのかもしれません。外務大臣井上馨卿にしてからが、西洋列強に匹敵する国力増強のために、日本人と西洋人の混血策をおしすすめて『新しい日本人』をつくろうと一時期本気でもくろんでおられたそうです。明治の国際結婚といえば、民間ではラフカディオ・ハーンやイタリア人画家と結婚して夫君の国にわたったラグーザ玉、日本人女性の印象が強いのですが陸奥宗光のご長男がイギリス人のエセル夫人と結婚されていますね。NHK朝ドラ『マッサン』で、竹鶴リタさんをモデルにしたヒロイン・エリーに扮したシャーロットさんの好演は記憶に新しいのですが、19世紀末や20世紀初頭、とくに欧米人にとっては未開な極東の国ニッポンに、海をこえて嫁いだ女性たちの苦労や努力はなみなみならぬものがあったであろうと思います。少女マンガの名作『はいからさんが通る』で、読者のハートをつかんだ日独ハーフで金髪碧眼の美青年の少尉、当時は(だってマンガだもん、実際にハーフの日本軍人なんていたわけがないよ)と子どもながらに思っていましたが、このマリー夫人、そして太平洋戦争中に活躍した『青い眼のサムライ』来栖良さんというかたの実在を知って、あながち絵空事ともいいきれない・・・と、逆にわくわくしてきました。『女学世界』本文では、夫人マリー、フラパーズは仏国巴里に生まれ、今より十七年前妙齢十八歳の身を以て八重の汐路を渡り、遥遥と今の海軍中将伊東義五郎氏に来嫁されました。人と為り優雅誠実、良人と琴必(きんひつ)頗(すこぶ)る相和し、四女一男を挙げられたので、家庭教育の健全精到なるは申すまでも無く、・・・・・夫人は婚家の初めより我邦(わがくに)夫人に親交を求めらるること熱心で、特に赤十字社、愛国婦人会などの会務には一身をささげて働かれつつあり、実に彼国(かのくに)の長所と我国(わがくに)の美質を兼備せられた御方と申して宜しいのでございます。・・・・・・・・・扉を推開(おしひら)いて出で迎われたる夫人は、中肉にして丈高く愛のこもれる明眸、威の備われる秀眉、締まった口元など、希臘(ぎりしゃ)の女神像を其の儘と思わるる風姿、房々とした金髪でなく眞髪(しんぱつ)(想像するに、ブルネット?)は薔薇の如き双頬を引き立たせるので、紫紺色ビロードの洋服長裳をサラリと引かれ、靴音徐(しづ)かに歩み寄られし御物腰は、天の使かと存じられたのです。夫人の日本語は極上品で、淀みなく訛りなくスラスラして居る上に、表情を惜しまぬ真率な話調で・・・お世辞もあるかもしれませんが、ルノワールが描いた名画のように美しいひとだったのでしょう。伊東義五郎は叙爵、貴族院議員と栄達の出世街道を歩みますが、マリーさんの実人生はどうだったのか、ご夫婦仲良く幸せな一生を歩まれたのであれかしと祈ります。愛妻を労わり尽くし生涯かけて幸福にする、これぞあらまほしき日本男児の本懐なり。人気ブログランキングへ本・書籍 ブログランキングへにほんブログ村にほんブログ村
2015.05.03
今回の古書即売会の、収穫(笑)。明治39(1906)年1月発行の『女学世界』と大正12(1923)年11月発行の『編物之新粋』(なんと、和とじ本)。『女学世界』は和英対訳や西洋料理のレシピ(ビーフカツレツ、カスダード、スクラムブルドエッグズなどなど)も載っていて、なかなかハイカラ。同じ版元(博文館)の『少年世界』で活躍した巌谷小波の正月随筆。イラストに「満州軍司令部の歓迎」とあります。日露戦争がおわってまもない翌年のお正月、国威高揚の気風があったでしょうか。17年後の『編物之新粋』編物研究会編纂。和とじの古めかしい表紙に似ず、内容は舶来わたり(笑)最新のハイカラモード、おそらくアメリカの本の邦訳・・・というより、製図の段数目数は、日本人の平均にあわせて調整されているかもしれません。愛らしい女児服。女学生向けの「スエタースカーフ」(スカーフ付きセーターというより、ボレロふうカーディガン?)、21世紀現在、手あみで流行している『はおりもの』に先駆けたような、おしゃれ。編み方が・・・第一段 表編9目、裏編1目を繰り返します第二段 表編2目、裏編8目を繰り返します・・・こういう感じで、ぜんぶ文章でかいてあるので非常にとっつきにくい、まず製図ノートに全体図をかいてみないことには、私にはとうてい復元できそうにありません。日本工業規格で現在のあみものの記号がさだめられたのは昭和26(1951)年、それより4半世紀昔の発刊。もっとも、「なれ」の問題で、見慣れていると文章のほうがわかりやすいのかもしれず(現代も英文のニット本は基本的に文章の解説ですね)、それでも昭和戦前には、すでに模様編みの図示が登場します。最新流行のおしゃれを取り入れたのは、やはり都市部の富裕層の女性たちからだったでしょうか。現在よりシンプルですが便利な家電やハイテクもなくずっと過酷だった時代、それでもさまざまな情報をもりこんだ読み物はよろこばれ、新しい服飾(ファッション)やそのつくりかた装い方は女性たちの夢をかきたてたのでしょう。人気ブログランキングへ本・書籍 ブログランキングへにほんブログ村にほんブログ村
2015.05.02
昭和戦前から美容師の草分けとして活躍された吉行あぐりさんの訃報を聞きました。107歳。大往生でいらっしゃるはずなのに、なぜか(意外にお若い!)と奇妙な感覚にとらわれます。時代の激変をのりこえて、美容師ひとすじに生き抜かれた稀有な生涯。いっぽうで長寿ゆえの悲劇、お子さんたちに先立たれる逆縁も経験されて・・・いまは天国で淳之介さんや理恵さんと再会をよろこんでおられるでしょうか。手元にある昭和7(1932)年発行の『婦女界』7月号より、当時のあぐりさんは20代半ば、和子さんと理恵さんはまだ生まれる前。新進気鋭のヘアデザイナー、時代の先端をゆくモダンガールだったのでしょう。あぐりさん考案のヘアスタイル。片方だけ耳かくし、左右アシンメトリーなおしゃれな結髪。お客さんも今でいうそうそうたるセレブ、山の手の奥様や令嬢、華族や財界のかただったでしょうか。若き日のあぐりさんはきりっとした美女。さすがは母子というか、吉行淳之介さんに瓜二つ。美形の血筋ですね。「・・・彼女が山の手美容院の主(あるじ)であり、夫君のエイスケ氏が新興藝術派の闘士であり、ムーランルージュの文藝顧問であることは、皆様も承知の通りです。昔は、髪結い(失礼ですが)の亭主は、長火鉢の向こう側にアグラをかいて、女房に養われている存在に過ぎなく、女房のほうが有名なものですが、アグリ夫人の場合は、そうではないようです。エイスケ氏の文壇的盛名に引きずられて、彼女も有名になっていったかの感があります。しかしそれにしても彼女に商売熱心と研究心が、なかったら、今日ほどにはならなかったであろうことは、疑いないことです。」・・・と、あります。見目麗しく才長けて、華やかに東京山の手を闊歩するモダンガール。BGMは藤山一郎先生の『東京ラプソディー』(1936年大ヒット)で。・・・先人の偉大な功績をたどる事で「いま」をみつめなおし未来をよりよく生きる指標となるなどとかたくるしく考えるまでもなく、素敵な人のあゆみに思いをはせることは、とても楽しいですね。ご冥福おいのりします。そして吉行和子さんのいっそうのご活躍おいのりします。吉行あぐりさん107歳、死去 連ドラ「あぐり」モデルが歩んだ激動の人生吉行あぐりさん死去 NHK朝連ドラになったその人生とは本・書籍 ブログランキングへにほんブログ村にほんブログ村
2015.01.08
手に取った瞬間から、「これは『買い』だなー」とうれしくなった、お宝本。(このコンセプト、どこかでみたことがあるような・・・)と思ったら、リフォームの第一人者にして服飾デザイナーの森南海子さんがうかびました。くしくも、同じ1981年初版の森さんの著書。 本文より。森南海子さん提案の「かかし」スタイル。 鎌倉書房刊『パリの直線洋裁』より、チュニック丈コートの作り方説明。 森さんの著書より、「かかし」アレンジ。 (型紙のない)じか裁ち、直線裁ち、まっすぐ縫えば完成するという相似。両者に共通する「服作り」をつきつめれば・・・日本のキモノにゆきつくのでしょう。そしてほぼ30年後、その延長線上でさらにすてきな服のデザインを創造しているのが松下純子さんや渡部サトさんのような新たな才能。まだまだ作りたい服がたくさんあります。 人気ブログランキングへ本・書籍 ブログランキングへにほんブログ村にほんブログ村
2013.11.05
古本市で見つけました。1933年、まさに「時の人」だった荒木貞夫陸相。著作ではなく演説からおこした記録を、おそらく青少年向けにルビつきで印刷。国家の命運をになう若きひとびとを国威掲揚に導かんとする熱き思いが伝わってきます。質実剛健にして直情径行、曲がったことが大嫌いな頑固親父(いまや絶滅危惧種?)の熱血と愛する皇国によせる清らかな乙女のごとき純情をあわせもつ、魅力的な人物像。いっぽう精神論に傾注するあまり20世紀以降戦争の力学が科学と経済力にこそ裏付けられるようになった時代の変化をよみきれず、敗戦と国土の荒廃をまねいた限界をも感じざるをえません。やや気になるのは、荒木陸相の考え方と21世紀現代の田母神閣下のそれが似通っているのではないかと思えるところ。国を愛する心も視野広く、柔軟であれと願います。対して、高知の閨秀詩人・槇村浩。1980年刊です。幼少から英才の誉れ高く、早熟な文才を発揮した天才詩人はバイロンを愛読し、誰よりも自由を愛するがゆえに当時の非合法活動にのみこまれてゆきました。わずか26年の生を燃やし尽くしたその作品は清冽な叙情とみずみずしい苦悩につらぬかれていたましい感動をよびおこします。こちらで代表作がよめます。郷里の高知を拠点に活動していた、半島に旅行経験もない19才の若者がこんな壮烈な叙事詩をものするとは。(うちの娘もちょうど同年ですが、さかだちしてもこんな傑作かけない、あたりまえか・・・。)この、御二方。かたや権力の中枢であり、かたや無政府主義の闘士。水と油以上にかけはなれた存在でとうぜんお互いにもっとも大嫌いな不倶戴天の敵同士なのでしょうが同時代に活躍し、ともに閉塞した時代をきりひらこうとしてそれぞれの立場から真摯に生き抜いたふたりであることは確かですね。とてもせつない気持ちになります(後世の人間の幸運・・・)。にほんブログ村
2012.11.05
ゆきたいけど(金欠で)なかなかゆけない(笑)古書市。願わくば、大正時代の『主婦之友』や『婦人倶楽部』、『少年倶楽部』を発掘したいですね。昭和7年の『婦女界』7月号(1932年)。ちょうど80年前。結婚直前のうら若い独身女性対象の雑誌のようです。グラビアから。白木屋のデパートガールの皆さん。まだ和服が一般的だった当時、制服とはいえ年頃の娘さんがおみ足をすらりとみせる装いはかなりセンセーショナルだったのではないでしょうか。こちらは食堂の女給(ウエイトレス)さん。なんだかどこかでみたことあるなと思ったら、秋野不矩画伯の名作「紅裳」そのまんまですね。「紅裳」が発表されたのは1938年、ほぼ同時代です。花形ファッションデザイナーとして昭和戦前を華やかに駆け抜けた美しきモガ、マス・ケートこと平井 満壽子さん。このかたのことはもっと知りたくて、評伝を図書館で予約お願いしています。ゆきつけの美容サロンで語らうふたり。最先端の洋装に身を包んだモガが拳闘(ボクシング)の試合を楽しむ、保守的な親世代は眉をひそめるかも。・・・昔も今も、「ひとの心」はあまり変わらないような。世に憂さをはらす手立て・・・いのち短し恋せよおとめそして若さにゃ夢があるにほんブログ村
2012.11.02
いまさら・・・ですが10月の大阪天満宮の古書市でゲットした本です(^^)。とくに戦前の年代ものでひじょうに高価な稀購本もありますが、思いがけずお宝本(なにをもって「お宝」とみなすかはその人しだい(^^))をお安く手にいれたりできるのが古本市の魅力(^-^)。人気の平野レミさんのお料理本。豪華ムックながら200円(^^)。多国籍ぽかったりして、意外なレシピに開眼します。齢を重ねてもかわらない可愛らしさと美しさを保ち、美味しく楽しい料理とおしゃべりでみんなを幸せにしてくれるレミさんは、私の憧れの女性のひとりです(^^)。こちらはレミさんの父上、仏文学者で作家の平野威馬雄先生の本、100円。アスタロトとかベルゼブブとか、耳慣れない悪魔の名前がいっぱいでてくる、ハロウィーンにぴったりな(笑)本。1974年、空前の超能力ブームの年に出版されています(^^)。・・・さがしあぐねている(笑)『ネックから編む』シリーズの一冊。300円。まさか、ゲットできるとは思いませんでした!(^^)!(・・・図書館で借りて、せっせとコンビニでコピーしたあの苦労は(^^ゞ・・・)美本なので、もしや書店で在庫処分された放出品?と思いましたが、ページをめくるとゲージ計算の書き込みが・・・前の持ち主のかたの気持ち、思いやられます(^^)。今回の収穫のイチ押し、大阪丸ビルの前オーナー・吉本晴彦先生が丸ビルのオーナーになる以前のバリバリ(^^)な時代に上梓された本。300円。40年近く前、オイルショック直前の時代の本ですが、構造不況の長引く21世紀現在にそのまま通ずる提言が多くて驚かされます。西鶴せんせいの『世間胸算用』『日本永代蔵』の時代からめんめんとつづく、浪花あきんどの知恵と才覚、心意気にうたれます(^-^)。
2010.10.31
手もとにあるなつかしい雑誌です。今はなき婦人生活社の『手づくりママキディ』。編集アドバイザーにクライ・ムキ先生を迎え、ソーイングファンのママたちに大好評を博したヒット作(^-^)。この本で手づくりの楽しさにはまったママも少なくなかった、はず(^^)。残念ながら毎号買っていたのではなく、もっぱら図書館で借りてながめていました。娘が生まれてまもないころ、これはなぜか、お父さんが私に買ってきた本(^^)。本文より、本格的な裏地付きジャケットのつくりかた。いったんおぼえると、子供服・婦人服とわず活用できそうです。これだけわかりやすくて楽しいソーイング本、現在は見当たりませんね・・・。当時、文化出版局から季刊ででていた『サマンサ』も似たようなコンセプトの本でした。こちらはこども服ばかりでなくママの服のウエイトも高かった。ドレスのペアルックが多かったように記憶しています。93~94年にかけて買っていましたが、だんだん「てづくり」より「ファッション」「おしゃれ」の比重が大きくなったように感じて買わなくなってしまったのですが、それからまもなく休刊になったようです。ドレスメーカー学院との長年のタイアップで有名な鎌倉書房が94年におしくも倒産、洋裁ファンのバイブルだった『ドレスメーキングマダムのスタイルブック』最終号です。表紙はスーちゃんこと田中好子さん。まさに、ソーイングファンにとって黄金の90年代。出版不況の下、鎌倉書房、婦人生活社、最近では雄鶏社と、相次ぐ老舗出版社の終焉は寂しいですね。文化出版局、ブティック社、日本ヴォーグ社その他の各社のいっそうのご活躍に期待します。
2010.10.17
古書市でほそぼそと(笑)あつめた手芸本から抜粋。昭和6年の婦人倶楽部付録の口絵です。セーターにスカートのさりげないおしゃれ、当時はこどもや若い女性は軽快な洋装でも、年配のミセスになると和服ですごす人がほとんどだったのでしょうか。リアル『サザエさん』の世界(^^)?中細ていどの細めの糸できっちりメリヤス編みしている様子、伝統柄のような細かい編みこみや模様編みはあまりみられず、せいぜい細いストライプやししゅう程度ですね。アランやフェアアイルがわが国に紹介されたのは、じつはごく最近なのかも。同誌に載っているメンズセーターの編み方。平編みでそで・身頃もぜんぶつなげてあみだしています。最後にわき・そで下をつづけてとじ、えりは別に編んでとじつけます。このタイプ(ドルマンそで?)のあみかたも、最近のあみもの本ではあまりみかけません。いつかやってみたいです(^^)。こちらは昭和12年婦人倶楽部付録より。配色コーディネートの見本帖。当時のトップイラストレーター・多田北烏画伯の画。今みると、なつかしき昭和テイスト(^^)。同じく、こども向け配色。地味で渋めの色合いが、かえってこどものかわいらしさを引き立たせるかも。同誌の裏表紙。ビクター毛糸(現・ニッケビクター株式会社)の宣伝広告です。『皇軍の慰問~』キャッチコピーが入るのは、やはり時代ならではですが、なんだか印象派の絵画をみているようなあたたかい色づかいですね(^^)。・・・私がちいさいころは、こんなふうにかせくりの毛糸をまく手伝いをさせられたのを思い出します(じつにしんどくてめんどくさかった(^^ゞ・・・)。マンガ『いじわるばあさん』にもありました。「毛糸? 巻いてあげましょうか」と、近所の奥さんからかせになった糸をあずかったいじわるばあさん、「かまうこたあない、どんどんひきちぎってやれ!(・へ・)」と、不誠実(笑)な巻き方をした結果、糸は裂けてずたずた、毛玉と結び目だらけ(>_<)。しかし。「これねえ、おばあちゃんにちゃんちゃんこ編んであげようと思って(^v^)」にこにこと、擦り切れた毛糸を編む奥さんに、あぜんとするばあさん。・・・最後のコマで、頭からすっぽり布団をかぶってシュンとしているいじわるばあさんが可愛かったです(^^)。「・・・ああ、ときどき自己嫌悪と孤独感におそわれちゃう・・・」これは年代不詳の婦女界付録。たぶん、昭和初期の発行と思われます。和服であみものする女性がおしゃれ(^^)、この和服の柄も、とても洋服ぽいですね。あみかたの紹介されている作品には着物のうえにはおるショールやちゃんちゃんこ、羽織などもあります。寒い時期は、着物の下にタートルセーターを着たり、当時は和洋折衷ファッションがふつうだったのでしょう。思い出しました。大正の傑作、岸田劉生の『麗子像』。この麗子さんはまさに和洋折衷、渋めの着物の上にはおった色とりどりの毛糸で編まれたショールがあざやかな光と影の対比で美しい。・・・それにしても、よく使い込んでいるのか美しいショールは糸が切れてほつれ破れていますね。(この画は麗子八歳の肖像、ショールを着た画は麗子六歳像あたりからさかんに連作されます。)画家は綻びた編み物までリアルに活写することでバロックの「ゆがんだ美しさ」を表現したのでしょうか・・・。にほんブログ村
2010.04.25
古書市でほそぼそとあつめた本から、あこがれ(笑)のミシンの広告をひろってみました。戦前から、婦人こども服に代表されるふだん着は家庭で作るかたが多かったようですが、手縫いの和裁の割合が高かったものが、戦後は深刻な衣料不足と活動的な洋服のニーズが大きくなったうえ、家計の助けにもなるということで洋裁を習う女性の人口が爆発的に上昇したそうです。ミシンは一家に一台、なくてはならない必需品でした。昭和12年(1937年)の婦人倶楽部付録より。現代のジャノメミシンが部品まですべて国産のミシン第1号を発表したのが昭和4年(1929年)ということですから、日本製ミシンの普及はそれほど昔のことではないのですね。戦後の洋裁ブームの時期はミシンメーカーも百花繚乱。昭和34年(1959年)「婦人生活」誌でリッカーミシンを前にポーズをとるのは知的美人・若き日の竹腰美代子さん。同じく「婦人生活」に掲載されたシンガーミシン広告。戦後家庭用ミシンの名機・シンガー191U。画像ではつぶれてみえませんが、価格28,000円とあります。同誌上の「家計公開コーナー」でディンクスの若夫婦(ともに郵便局勤務)の月収がご主人13,000円奥さん11,000円、大卒のエリート銀行員の男性が月収22,000円と記載されているところからみると決してお安い買い物ではないですね。戦後の復興期をむかえつつある昭和27年(1952年)主婦の友付録より。当時ミシンの最高峰はやはりシンガー、国産メーカーは追いつき追いこせと競合なさっていた時期でしょうか。ブラザーミシン広告。ブラザーの前身は「安井ミシン兄弟商会」、文字どおり安井ご兄弟が設立した会社なので「ブラザー」、ブラザーの製品か、同業他社か未確認なのですが「シスター」という銘柄のミシンもあったそうです。リズムミシンは中島製作所のブランド。中島製作所は戦時中は中島飛行機として、伝説的な陸軍の戦闘機・「隼(はやぶさ)」の設計・開発担当していました。ほのぼのしたパインミシン広告。「パインミシン」はジャノメの初期のネーミングですが、上にあげたように、戦前の1937年の段階で「蛇の目ミシン」となっているので、このパインミシンがジャノメか、他社なのかは不明。この子たちの着ている服もお母さんのお手製かなとイメージします。さかのぼって(笑)、昭和7年(1932年)婦人倶楽部付録の表紙。和服でミシンがけするお母さんをみつめる女の子は洋服。当時のありふれた光景でしょうか。お母さんが作っているのは洋服、それとも和服?気になります(^^)。上の付録の本文グラビア。当時の有名百貨店が競って発表した最新モード。もちろん作り方が載っています。小さなモボ・モガ(^^)。にほんブログ村
2009.10.18
キンモクセイが甘く香る時季になりました(^^)。またまた、先日の連休の話題で恐縮なのですが、四天王寺で開かれた古書即売会をのぞいてきました。四天王寺といえば、毎月21・22日の骨董市が有名ですね。着物も出店されるようで、アンティーク着物ファンには見のがせません。最寄のかたはぜひ、おこしください。四天王寺~谷九~上本町かいわいは本来お寺町だったためかビルやマンションと昔ながらの寺社、駅前商店街が混然一体となったどこかなつかしいふんいきがあります。昔(独身時代から、こどもが産まれるまで)すぐ近くに住んでいた気安さもあり、このあたりをほっつき歩く(笑)のはいまも好きです。お賽銭を投げてまずは家内安全・無病息災(笑)を祈願してきました。四天王寺は聖徳太子とゆかりの深いお寺。いいことばだな・・・と身につまされます。まだまだ煩悩だらけで、このとおりにできないわが身がかなしい(^^;)。収穫(笑)の一部。映画化された『チップス先生さようなら』(新潮文庫)『アラバマ物語』(暮しの手帖社)いずれも現在も重版中のロングセラーですが、翻訳者の菊池重三郎氏が家庭に題材をとった私小説、1955年刊。時代にうもれた傑作・佳作は膨大にあるのでしょうね。これから発掘したいです(^^)。沖田総司研究家として、沖田ファンの女性たちにブームを呼んだ森満喜子さん。あの司馬遼太郎氏に沖田総司関連の資料を提供したことでも知られています。2004年はNHK大河ドラマで新選組がとりあげられたこともあり、森満喜子さんの作品が多数復刊されるかと期待したのですが・・・残念でした(^^;)。小説は、あまり史実にこだわっておられないようです。1974年刊。文化服装学院を卒業して、デザイナーの修行をつみオリジナルブランドの洋服屋さんをたちあげた津野いづみさんの若き日の奮闘記。商品企画から発注、販売のタイムスケジュール、工場とのタッグなど知られざる? ショップ経営の実態をかいまみせてくれます。著者の明るく前向きな姿勢、きびきびした文章が心地よく西村玲子さんのイラストも楽しい(^^)。1982年刊ですからもう4半世紀前の著書ですが、津野さんがつくった『タイガーママ』は現在も吉祥寺で営業中、根強いファンの多い人気店のようです(^^)。服の素材も、色合いも、コンセプトも実にステキでぜひいつかいってみたいですね!(^^)!
2009.10.16
6月といえばジューンブライド。ということでかこつけて(^^)・・・、時代を感じさせる、1951年発行の杉野芳子先生の『ニューデザイン独習書』のグラビアです。50年代の映画ブーム、アメリカ文化へのあこがれが怒涛のように流入していた時代で、若い女性たちにはまさにシネマのワンシーンのような、雲の上の世界だったのでしょうか。・・・と思っていたら・・・、戦後まもない1946年 、ナゴヤドレスメーカースクール発行のテキストに、はやくもウエディングドレスの製図が載っていました!旧・山田家政女学校、現・名古屋文化短大の前身、ナゴヤドレスメーカースクール。 戦後すぐの物資不足の時代、はたしてどのくらいの人数のかたが、手づくりのウエディングドレスで結婚式をあげたのでしょうか。あるいは大切にしまってあった、お母さんやお祖母さんの白無垢や白喪服が材料になったかも・・・。やはり、和裁・洋裁にかぎらず服をつくる人にとっての最高峰はブライダルコスチュームかもしれません。江戸や明治時代、裁縫塾に通う娘さんは花嫁衣裳となるときそって縫いたがったといいます。さらに、まさに太平洋戦争直前の1941年5月発行の文化服装学院すみれ会(文化服装学院のOB会)・『すみれ』12号。国民が統制経済下に管理される暗い時期、ゆううつな時局を払拭するかのように、ウエディングドレスの製法が掲載されているのにびっくり。考案したかたにもためらいがあったのか、あるいは率直な気持ちを述べておられるのか「・・・この際花嫁の式服を洋装にしたらと云うことを主張したいのであります。・・・人と場所を得ればこれほど簡素でしかも清純な美しさを発揮した服装は他に見られぬところで、結婚の式に臨む清浄な乙女にこれほど似つかわしいものはないではないかと考えます。それに使用する布は全部純白ですから後で染めて何にでも利用できますし、和服と異なって布に応じてスタイルを臨機に考えて無駄なく更生させる事ができる点、誠に経済的で非常時国策に適応したものではないでしょうか。・・・丈も床すれすれ位にすれば時局に応じた、つつましい感じになると思います。」と、いまの目線でみればいささかいいわけがましいような(^^;)。デザイン画のバックスタイルも美しく、本来ウエディングドレスに流行はあまり関係ないのかもしれません。時代をこえた「美」に感動させられます(^^)。当局の圧力があったのか、時勢への配慮か、当時法制化された国民服の内閣告示もしっかり記載されています。こちらは生地店の広告。いまみるとレトロっぽいのがおしゃれ。当時のモダンガールの好みをかいまみるようです。実際の自分自身をかえりみるのはさておき(笑)、「きれいなもの、うつくしいもの」に魅かれる気持ちはいつも大切にしたいですね(^^)。 にほんブログ村
2009.06.11
コレクションというとおおげさですが、ローカルな古書市や古書店をめぐってほそぼそと(笑)集めた愛蔵本です(^^)。実用に向くか向かないかはさておき(笑)、洋裁関連の古本が大好きで(^^;)いつもさがしているのですが、なかなか(特に古いものは)見つかりません。想像ですが、洋裁・手芸本というのは「書籍」というより「雑誌」とみなされて古紙回収にだすかたが多いので、古書市場には少ないのかもしれませんね(/_;)(^^;)。昭和26年(1951年)発行のホームライフ社刊・ニューデザイン独習書。ドレメ式洋裁の創始者・杉野芳子先生の著書です。500円。口絵イラスト。軽やかなショートコートはおしゃれでいまの若い人たちにも似合いそうですね(^^)。もちろん作り方説明付き。こちらは、天満の古書街でみつけた『それいゆ』。昭和の生んだ不世出のデザイナー・中原淳一先生が戦後の雑誌文化の先端をになった、伝説の本。1000円で入手しました。飯田深雪先生のおしゃれなサラダ(^^)。昭和30年代、戦後の発展期に入っていたとはいえ一般の家庭では野菜の献立といえばまだまだお漬物、煮物が多かったのでは・・・中原淳一先生らしく、おしゃれもリサイクル(^^)。消費文化としてのファッションが見直され、依然しずかなリメイクブームの現代にも、応用できるヒントがあるかも? (^^)グラビアから。ファッションモデルの草分けとして、のちにパリでも活躍した松本弘子さんと二枚目俳優・岡田真澄さん、若き日の貴重なツーショット。今はおふたりとも他界なさっていますが、まさにフィフティーズ、50年代の青春の雰囲気がみなぎっていますね(^^)。若い女性向け雑誌にふさわしく(笑)、スター紹介コーナーもあります(^^)。テレビ全盛時代になる前の、『映画スター』ということばが輝いていた当時、あこがれのスターたちはまさに絶世の美男美女だったことでしょう。大成を期待されながら、のちに事故で早世した不遇のスター、森美樹。上の画像からは想像つかないけれど、時代劇出身で、デビュー作は『沖田総司』役だったといいます。やがて司馬遼太郎先生の『新選組血風録』『燃えよ剣』が映画化・ドラマ化され、沖田総司に扮した島田順司さんの好演もあって新選組ブームが巻き起こるのですが、一大ブームが起こる以前の、昭和30年代前半に、こんな端麗な沖田総司がいらしたとは・・・、驚き(^^)。中原淳一先生が、最後に情熱を燃やした雑誌、『女の部屋』(昭和45(1970)年・5号で休刊)も、いつか拝見したいなあ(^^ゞ・・・。というわけで、これからぼつぼつ収集した古本の紹介(笑)もしてゆきたいです。にほんブログ村
2009.05.24
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