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奥の細道序章に「松島の月 先(まず)心にかかりて」とあるように、芭蕉にとって松島は旅の大きな目的地のひとつでした。いよいよその地を目にした芭蕉は感動も極限となり、結局句は作れませんでした。あまりにすばらしいものの前では言葉を失う、という伝統に立ってのことらしく、「白河の関」と同じように「曾良」の句をあげています。実際は「嶋々や 千々にくだけて 夏の海」があるようですが、「細道」には取り上げませんでした。観光バスに乗ると『松島や ああ松島や 松島や』の句が紹介されますが、江戸時代の「松島図誌」(文政四年刊)に 松島やさて松島や松島や という句が 田原坊 という作者名で出ているそうで、この句は芭蕉の句でない上に もともとの形とも違っているようです。細道の句「松島や 鶴に身をかれ ほとヽぎす」は「(夜になって月明かりの中)ほととぎすが鳴いている。鳴き声はよいが姿は松島にふさわしい鶴に替えてくれ、ほととぎすよ」というような意味です。そこで、鶴とは似ても似つかぬほととぎすのように、性別・年齢を詐称した「女装子」が「鶴(女性)」を装っているよ、という句にしてみました。海が明るいために、逆光で顔が見えにくい分、夜のほととぎすの風情が出ているかもしれませんね。
2009.08.27
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山形領に立石寺と云う山寺あり。・・・・岩に巌を重ねて山とし、松柏年ふり、土石老いて苔なめらかに、岩上の院々扉を閉じて、物の音きこえず。岸を巡り、岩を這て、仏閣を拝し、佳景寂莫として、心すみゆくのみおぼゆ。 閑さや 岩に しみ入 蝉の声 「奥の細道」の句の中でも有名なこの句をどう料理するかが決まらずに、山寺詣でも延ばし延ばしにしてきましたが、このたび機会がありまして、大先輩高城景子姐と同行二人の旅をしました。ハイヒールで石段を登るのが粋なのよ、と颯爽と行く景子さん。わたしは一応スニーカーは思いとどまって、底の低いサンダルで出かけました。 思いのほか人が多く、駐車場もほとんど埋まるほど。人々は列をなして登っていきます。樹齢なん百年という杉木立ちの中、芭蕉が登ったのは七月中旬で蝉時雨が降り注いでいたのでしょうが、この日は梅雨入りしたばかりとあって、あいにくの雨・・・ひとまず芭蕉記念館でお勉強、をしているうちに雨も上がって、雨上がりのさわやかな空気の中の登山となりました。人々は「うわ~まだなの~~」「もう休もうよぉ」などと言いながら、ひたすら登っていくのですが、ふと『私たち』を見かけては「?」と思い、すれ違いざまに声を聴いては、驚いて言葉を失います。 もとの句も、初めは「山寺や石にしみつく・・」だったとかで、「山寺」を上五に持ってきて、「しづけさ」も「蝉時雨の中での静寂」ではなく、「お山をハイヒールにひらひらスカートで登る女装子を見た驚きの静寂」に摺り換えてパロディにしてみました。「この、見られる快感がたまらないの」と景子さんは仰るのです!わたしはそこまでの境地には達していなくて、目立たない、気づかれない、溶け込む女装を目指しているのですが、せっかく一緒に行動するときは、少々ポリシーを曲げたってかまいません(笑)その後も、さくらんぼを売るおじさんを値切ったり、おでんを買って店先の縁台で食べながら撮影したり、楽しい旅は続いたのでした。
2009.06.14
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これ今より百余年前、橘南谿が「東遊記」に記せる所なり。継信・忠信は源義経の家来なり。平家の盛なりし頃、義経は奥州に下りて身を藤原秀衡に寄せしが、兄頼朝の兵を挙ぐる由聞きて、急ぎて鎌倉へ馳せ参じぬ。継信兄弟も従ひ行きしに、其の後義経京都へ攻上り、平家を追落して武成著しかりしかども、頼朝と不和になりて、再び奥州さして落延びたり。然るに継信は屋島の合戦に能登守教経の矢にあたりて斃れ、忠信も京都にて討たれしかば、同じく従ひ出でたりし亀井、片岡等の人々は無事にて帰国せしに、継信兄弟は形見ばかり帰りぬ。母は悲しみに堪えず、せめて二人の中の一人にても帰りたらばと、悲嘆の涙止む時なし。兄弟の妻は母の心根を察しやがて夫の甲冑を取出し、勇ましげにいでたちて、母の前にひざまづき「兄弟唯今凱陣致し候ひぬ。」と言ひしかば、母も二人の嫁の志を喜びて、涙をさめてほゝ笑みたりとぞ。佐藤基冶・乙和夫妻の墓の隣に樹齢数百年の椿の古木があり、子を失った母の悲しみによりつぼみのまま落ちてしまって開かないため「乙和椿」と名づけられている(石碑の文字読めますか?)ちょうど椿は開花の時期で、境内にも多く咲いていたが、ここだけは花が咲いていないのでなんだか薄暗い。左下アップの写真、また石碑のところにも落ちているつぼみが見えている。不思議な現象だ。女性としての感性を多少とも模倣してくることができたのか、この「母心」も以前よりは痛切に感じられる。一方、「花を開かず日陰に終わる」という姿にカミングアウト(正体を明かすこと)できない女装子としての自分を重ね合わせて、感慨はひとしおであった。
2008.05.10
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「おくのほそ道」で佐藤庄司と書かれた人物は、平泉の藤原秀衡のもと、信夫、伊達、白河あたりまでを支配していた豪族佐藤基治である。初代清衡のころから、奥州藤原氏は中央の藤原氏の庇護を受けながら、荘園の名目で領地の私有化を進めていた。基治は、その秀衡の私有地の管理を任され、荘園管理の職名を庄司と称したので「佐藤庄司」と呼ばれた。平治の乱の後、源義経は平清盛に捕えられ鞍馬山に入ったが、その後密かに平泉の藤原秀衡のもとに下り保護されていた。治承4年(1180年)になって源頼朝が挙兵した時、義経は平泉から奥州各地の兵を引き連れながら鎌倉に駆けつけ、福島からは基治の子、継信(つぐのぶ)と忠信が加わった。継信と忠信は、父の願い通り平家討伐に偉功を挙げ、剛勇を称えられることとなる。兄の継信は、屋島の合戦で平家の能登守教経が放った矢から義経を守り、身代わりとなって戦死したが、継信の死は源氏方を勝利に導き、後の歴史に大きな足跡を残した。弟の忠信は、頼朝と不和になった義経とその一行が吉野山に逃れたとき、危うく僧兵に攻められそうになるところ、自らの申し入れで僧兵と戦い、無事主従一行を脱出させている。後に六條堀川の判官館にいるところを攻められ壮絶な自刃を遂げた。その後、無事奥州に下った義経一行は、平泉に向かう途中大鳥城の基治に会って継信、忠信の武勲を伝えるとともに、追悼の法要を営んだと言われる。継信と忠信の妻たちは、息子2人を失って嘆き悲しむ年老いた義母、乙和御前を慰めようと、気丈にも自身の悲しみをこらえて夫の甲冑を身に着け、その雄姿を装ってみせたという。寺に入りて茶を乞へば、ここに義経の太刀・弁慶が笈(おい)をとどめて什物(寺の宝物)とす。笈も太刀も五月に飾れ帋幟 五月朔日の事也。(端午も間近、男子の節句にふさわしい義経の太刀や弁慶の笈を飾り立派な丈夫に育つように祝うがよい) なんだ、一文字しか変えてないぞ、とお思いでしょうが、漢字交じりで書くと お芋達も五月に齧れかみのぼり(噛み砕き、としてはやりすぎと思いまして・・・)ということになっていまして、焼き芋を齧っている写真を撮りたかったのですが、近所のスーパーでは売っていなかったのと、ポテチやポテロングというのもどうかな、と思いましたし、お寺の境内で食べ物を持ち出すのもなんとなく気が引けて、こういうことになりました・・・・・芭蕉の感動の世界からあまりにも離れてしまったようですが、俳諧の基本にはそういう滑稽・おちょくりも含まれていたと言うことでお許し願いましょう。石像のほうは中央が義経公、向かって右が兄の継信公、左が忠信公です。皆さん凛々しいですよね。宝物殿には芭蕉も見た「弁慶の笈」「義経の太刀」が陳列されており、感動もひとしおでしたが、そこでの撮影は禁止。それにしても、たとえば真田十勇士といえば立川文庫の創作であるように、源義経は歴史上の人物でも、武蔵坊弁慶とか伊勢三郎義盛とかって猿飛佐助や霧隠才蔵と同類に思っちゃったりするんだけど、「この笈背負って安宅の関で勧進帳読んだんかなぁ・・」とか感慨がありました。
2008.05.06
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あくれば、しのぶもぢ摺の石を尋て、しのぶのさとに行。・・・・ 早苗とる手もとや昔しのぶ摺「しのぶもぢ摺り」は、当て字を使用し、古来「信夫文知(文字)摺」などと表されている。 この石の存在を伝える文献としては「おくのほそ道」が最も早いとされており、その中で書かれた巨石・文知摺石が、文知摺観音の敷地の中に柵に囲まれて鎮座している。この石は、芭蕉がここを訪れたとき半分ほど土に埋まっていたそうで、付近の子どもがその経緯を次のように語ったという。昔は此山の上に侍しを、往来の人の麦草をあらして、此石を試侍をにくみて、此谷につき落せば、・・・ (その石は、むかし山の上にあったのですが、ここを通る人たちが麦の葉っぱを取り荒らしてその石にこすっていくのを嫌い、村の人がこの谷に突き落としたものだから) この文知摺石には、次のような伝説があり「鏡石」とも呼ばれる。嵯峨天皇の皇子で、河原左大臣こと中納言源融(みなもとのとおる)が按察使(あぜち)として陸奥国に出向いていたが、ある日、文知摺石を訪ねて信夫の里にやってきた。源融は村長の家に泊まり、美しく、気立てのやさしい娘・虎女を見初めてしまう。融の逗留は一ヶ月余りにもおよび、いつしか二人は愛し合うようになっていた。しかし、融のもとへ都に帰るように綴られた文が届き、幸せな日々に区切りを置くことになる。別れを悲しむ虎女に融は再会を約束し、都に旅立った。残された虎女は、融恋しさのあまり、文知摺石を麦草で磨き、ついに融の面影を鏡のようにこの石に映し出すことができた。が、このとき既に虎女は精魂尽き果てており、融との再会を果たすことなく、ついに身をやつし、果てた。源融は二度と虎女と会うことはなかったが、虎女との恋の内に次の歌を残した。みちのくのしのぶもぢずり誰故に乱れむと思ふ我ならなくに (古今和歌集)(あなた以外のだれのために、みちのくのしのぶもぢずりの乱れ模様のように心を乱す、わたしでありましょうか。)「伊勢物語」や「百人一首」では、下の句が「乱れ初めにし我ならなくに」と改められている。 当然、芭蕉は「歌枕」としてこの伝説を念頭においての訪問だったわけだが、恋の歌を下敷きにしつつ、やや視点を変えて「早苗取る」乙女の手つきと「しのぶ摺り」の手つきとをあわせて詠んでいる。320年を経て訪ねたその日も近隣の田では「田植え」の真っ最中、ほとんどが機械化された中、昔ながらの手作業の姿も見受けられた。実はこのスカート、以前ペンキ塗りたての柵に寄りかかってしまい、茶色のペンキがどうしても落ちないので、紅茶で染めて「白」から現在の色にしたもので、さらに「草染め」してみるのもいいかな?という句にしてみた。実際は日陰なので「苔」では色もつかなかったのだが・・・・・GWとはいえ、訪れるひともちらほらで、ゆっくり散策ができ、資料館ではお茶もご馳走になった。「どちらから来られました?」からいろいろお話させてもらったが「秋の紅葉がまたすばらしいんですよ」と言っていただいたので、また来て見ようかと思う。
2008.05.06
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奥の細道紀行は春から秋だったのと、岩手・山形・新潟・岐阜となるとなかなか足が出ません。だいぶ間が空いてしまったので、「細道」以外の作品から本歌取りさせていただきました。もとの句は「この道や行く人なしに秋の暮れ」です。この句には「所思」という前書きがあって、芭蕉の心境、つまり、俳諧への道を志して、たとえ自分だけになってしまってもひとりで歩いていくという孤高の孤独感が詠い込まれているといいます。この後すぐ、大阪で病に伏し他界します。すでに死期を悟っていたのかもしれません。で、「秋」を「冬」に変えただけなんですが・・・「冬の暮れ」という季語はあまり使われません。冬はすぐに暗くなります。この撮影をした日は、冬枯れの樹に夕陽がさして、雪の白さとの対比がとてもきれいでした。芭蕉翁にとって「この道」とは俳諧の道ですが、私は同じハイカイでも「女装徘徊」のほうなわけで、「行く人」の少ない超マイナーな道ではあります。人前に出るようになって約5年、だいぶ板についてきて、街でも店でも振り返られたりじろじろ見られることはめったになくなりました。それとも、そういう文化が定着してきたのでしょうか。ネットで写真だけをお見せしているとオトコとは気づいていただけない方もいるので、こちらのブログを案内しています。「なぜ、女装の道なのでしょうか?」このブログの最初のところにもあるように「女性の目や感性で自然や風物を見る」ことで視野と感性を広げ、さらに豊かに生きるという喜びがひとつ。自分自身が監督でありカメラマンでありモデルでありという立場で「女性美」を表現した写真という作品を創造する、喜びがひとつ。メイクが進むにつれ衣装を着けるにつれ、別人が現れる「変身の快感」、もうひとりの自分になる喜びがひとつ。同じ心の人、理解してくれる人、きれいだねといってくれる賛美者の人、との新しい人間関係を結ぶ喜び、がひとつ。振り返ってみると、20代30代40代とやったりやめたりの周期があって、今回の三度目は本格的です。「かわいいおばあさん」になるまで続けるかも知れません。同じ「行く人なし」の道でも、冬の道です。雪の道です。確かな足跡が残っていく、そんな道です。そして、確かについていたと見えた足跡が、いつの間にか溶けて消えてしまう、そんな道なのかもしれません。確かにいるようでいてどこにもいない、「佐藤麻衣」の今後を温かく見守ってください。
2008.02.17
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見送りについて来た弟子たちとの「別れ」を「鳥啼き魚の目は涕」と詠み、「矢立の始め」として「細道の旅」が始まりました。深川の芭蕉庵(跡)記念館、神社、「住めるかたは人に譲って」移り住んだ「杉風が別所」の跡、などをめぐり、「深川丼」の店なんかをのぞいたりして、歩き回りましたが、そうなると問題は「足許」なわけです。私たちのような趣味のものによくある悩みとして、合う靴がない、ということがあります。ハイヒールフェチを自称されるかたともなれば、金に糸目はつけないんでしょうが、私らパート者としては、バーゲン品あさりなので、なかなか会うものに出会えません。長さは良くても、幅や甲高が足りずに、擦れたり皮がむけたりといったトラブルはしょっちゅうです。「ウオノメ」というのは誇張ですが、泣きそうになったことは何度もあります。というわけでこのたびは「スニーカー」にてお邪魔しました。芭蕉翁も旅の草鞋ですから「おそろい」ってことで、2ショットです!全国各地にある「奥の細道像」は曽良さんとお二人のが多いので、こうして女の子と一緒というのはどう思っておられるでしょうねっ?
2007.05.13
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「月日は百代の過客にして・・・・」と奥の細道は始まりますが、旅立ちに際してそれまで住んでいた芭蕉庵を人に譲り、今度は家族持ちが住んで、雛祭りの飾りなどもするのだろうな、という気持ちを詠んだとされるのが「草の戸も住み替わる世ぞ雛の家」の句です。私のところは男ばかりの兄弟で、「雛祭り」は幼稚園や小学校でしか縁がありませんでした。女の子の遊びの中に入っていくのも子供心に気恥ずかしく、生まれ変われるものならば女の子としておうちで雛祭りを祝ってみたい・・・・雛人形を飾れる家に生まれてみたい、という気持ちを詠んでみました。
2007.03.11
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細道紀行の方は、だんだん遠くなってきたので、ちょっと一休み(^o^)近場で秋の一日を過ごしてきました。人工の滝が上流にあって、夏の間は流れていましたが、春までお休みなのでしょうか、止まっていました。下の池の方には水がたまっていましたが、途中は枯れ川状態。そんなところに紅葉が降り積もって、「・・・もみじ葉は竜田の川の錦なりけり・・」という情趣には程遠いながら、瀬音が聴こえてくるような幻想に捉われたのでした。
2006.11.22
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「等窮が宅を出て五里計、桧皮の宿を離れてあさか山有。路より近し。此あたり沼多し。かつみ刈比もやゝ近うなれば、いづれの草を花かつみとは云ぞと、人々に尋侍れども、更知人なし。沼を尋、人にとひ、かつみかつみと尋ありきて、日は山の端にかゝりぬ。」現在の日和田に「安積山」はあり、市の花に選定された「ヒメシャガ」が植えてあります。「はなかつみおひたるみればみちのくのあさかの沼のこゝちこそすれ」(能因法師)と詠まれた歌があるように、歌枕としての安積沼を訪ねてきた芭蕉でしたが、「花かつみ」が何を指すかは、古来諸説あって確定せず、芭蕉の当時も土地の人さえ知らなかったと書かれています。名前だけがあって実体がよくわからない「花かつみ」のように、「佐藤麻衣」という名前があっても「実体」がわからない、地元の誰に聞いても「知る人なし」な「女装娘」という存在の不思議さというものは「人生は旅であり、仮の宿である」という日本の伝統精神と、あながち無縁のものではないのでは・・・・と思っているのですが、いかがですか?10月に訪ねたときは青々とした葉っぱばかりでしたので、5月の開花期に再訪しました。芭蕉が訪れたときもこの時期だったはずですが、どうも見つからなかったようですね。
2006.10.31
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奥の細道、須賀川の段に「左に会津根(磐梯山)高く、右に岩城・相馬・三春の庄、常陸・下野の地をさかひて山つらなる。かげ沼と云所を行に、今日は空曇て物影うつらず」のくだりがあります。「かげ沼」は、そのむかし蜃気楼現象が広く知られ、鏡沼の伝説も残っていますが、物影が写らなかったのは空が曇りのせいだったかどうかは、わかりませんよね。伝説というのは、「建保元年(1213年)、信濃源氏の泉親衡が北条討伐の謀反を策し加盟者は捕らえられた。和田胤長もこれに参加した為、岩瀬郡稲村に配流され、5月9日誅された。夫の身を案じた妻は鎌倉よりこの地に至り里人に夫の死を知らされ、鏡をいだき沼に入水して果てた。以来この沼を鏡沼というと伝える。(現地の案内板から)」というものです。写真も電話もない時代、恋しい人の姿は「(水)鏡」に映すという「お約束」があったようです。このあと訪ねる「信夫もぢずり石」では京の恋人の姿が石に現れ、鏡石ともいわれたとあります。今では沼も小さくなり、そこに佇むのがフェイクガールとあっては、沼も映しようがないですよね(笑)立ち寄る人もめったにいませんが、近年、芭蕉と曽良の石像を配置し、説明板やあずまやを整備して、市の教育委員会や観光課はがんばっているようです。訪ねたのは昼下がりで、駐車場には営業車で昼寝中のかたが何人かいたぐらいで、ただ蝉の声だけが降り注いでいました。
2006.09.11
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曽良の日記によると、(旧)4月27日の項に「芹沢の滝へ行」とあります。丘陵地の小川が作る落差3~4メートルの小さな滝で、晴れの日が続けばただの岩壁か石段になってしまうようなところです。戦後はゴミ捨て場になっていたところを、近年整理したとのことで、道路から100メートルほど木立の中を行くのですが、入り口には駐車スペースや説明の立て札もありました。初めて行ったときは「なんじゃこりゃぁ~~」でしたが、前夜雨の降った翌日に行って、ようやく滝の音も聞こえ絵になりました。芭蕉一行もこれにはがっかりして、句も作れず、29日の項には「石河滝見ニ行」とあって、こちらは曽良も感動したのか滝の様子を長々と書いています。先回紹介した「五月雨の滝降りうづむ水かさ哉」の句はこちらのものに違いないと思うのですが、この「芹沢の滝」のあたりの地名を「五月雨」といい、芭蕉の句が元になっていると言い伝えられているらしく、不思議に思いました。 雨の降ったときだけ「滝」になるこの滝と、白粉や香水を振ったときだけ「女性」になる自分とを対比させてみました。蕉風には程遠いですが、師の作品のない地では自由に作らせていただくというスタンスで旅を続けようと思います。今回の衣装、どうせ化けるならと思い切って若作りしちゃいました(笑)いかがですか?
2006.08.25
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「曽良旅日記」によると「・・・石河滝見に行。須賀川より辰巳の方壱里半計也。川幅百二三十間も有之(これあり)。高さ二丈・・」とあって、「奥の細道」本文にはありませんが『五月雨は滝降りうづむ水かさ哉』の句が「俳諧書留」にあり、滝見不動堂の前に句碑が建っています。さみだれ、といえば「五月雨の降残してや光堂」「さみだれをあつめて早し最上川」の句をすぐに思い出しますが、この二句に比べればやっぱりちょっと落ちるかもしれませんね。紀行編集の段階で削除されたものでしょうか。 ともあれ、今年の梅雨前線は台風と組んで大きな被害をもたらしたわけですが、そんな増水した滝で撮影をしてきました。地響きが伝わってくる迫力で、ちょっと怖いくらいでした。奥の細道のガイド本に載っているこの滝の写真を、10数枚見ましたが、滝の上部の岩が見えてしまっているものがほとんどで、まさに「滝 降り埋む」という情景が撮れたと、最高のタイミングで撮影できる地元のメリットを感じました。
2006.08.14
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須賀川の弟子、相良等躬(さがらとうきゅう)の屋敷に滞在中、近くの庵に住む僧を訪ねたときの句が「世の人の 見つけぬ花や 軒の栗」です。現在、庵跡には四代めといわれる栗の木がそびえ、市街地の中のオアシスといった風情があります。 もう少し枝がこんもりしていると、花房も絵になったのにな、と思いながら撮影しました。 世の人の見つけないところで、ひっそりと咲いている・・・・そんな花の姿に自分を重ねてみれば、派手さも美しさも若さもないけど、まさに自己満足の極地とも言える趣味ですよね。 こんなブログをはじめたのがきっかけで、世の人に知られちゃっても困るんだけど・・・と、複雑な気持ちの今日この頃、でした。
2006.08.08
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「奥の細道」本文では芭蕉の句は記されていませんが、曽良の日記によれば三首作っているようです。あえて自作を載せず、歌枕の地を訪ねた感激を故事や古歌の引用で本文とし、曽良の句を持ってきたところに、芭蕉の創作意図を読み取るべきなんだと思います。白河の関に「卯の花」の咲くころ、田植えはとっくに終わっていました。農業技術の進歩で、当時と今ではひと月のずれがあるようです。古来、服装を正し晴れ着で越えた白河の関を、せめて卯の花を飾って越えていこう、との句ですが、那須を通ったときに衣服を借り、ここから返したという記録も残っているので、芭蕉先生「自分だけ?」ということなんでしょうか?(^o^)というわけで私もジーンズではなく春らしいワンピースで、ご一行の像とともに写ってみました。名物のおそばもいただきました。(私ってめんくいなんですよぉ)
2006.07.19
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風流の始めや奥の田植え唄「春立てる霞の空に白河の関を越えんと」第一の目標とした白河の関での芭蕉の句は「奥の細道」にはない。この句は須賀川の宿で「白河の関はどのように越えられましたか」との問いに答えての句とされている。私の旅も「田植え」からと思い、あちこち歩いてみると、すでに時代は「機械化農業」で「唄」などは郷土芸能保存会にでも行かないと聞かれないらしい。あきらめかけたところで、手植えの現場に遭遇!さすがに歌はなかったが、一緒に写真に収まっていただいた。こういう住宅地の中の小さな田んぼだからこそ、機械化しにくいわけだけど、農業用水に生活廃水が混じったり、ごみや空き缶が捨てられたり、虫が発生するとクレームが来たり、かといって農薬散布もしにくいだろうし・・・・など、いろいろ考えさせられました。
2006.07.17
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