草加の爺の親世代へ対するボヤキ

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2020年01月22日
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艱難汝を珠にする、という言葉があるが、今回はこの事について考えてみることにします。

 艱難とは、目的を達成するまでに経験した、大変な苦労を意味する。艱難辛苦という成語があったが、

今日では殆ど使われることもなく、辞書の中の索引の一つとして眠ったままの感がある。

 しかし、人生では好むと好まざるとに拘らず、艱難は我々の生活に常に付き纏うことは、現代と言えど

も何ら変わることがない。そう、艱難辛苦は私たちが生きる上での必然的な宿命のようなもの。

 例えば、今更のごとくに世間を騒がせている虐め・苛めの問題一つをとりあげても、被害者にとっては

「大変な苦労」どころか、それこそ人生を大きく狂わしかねない一大問題として、突如頭上に襲いかかる

非常な災厄なのだ。

 ところが、加害者には単なるその場の気晴らし程度の意味しか持たない場合がしばしばであろう。それ



 この被害者と加害者のあまりに大きな意識の断絶が、問題を複雑で、面倒至極なものにして、「我が校

には苛めはありません」などという極めて素頓狂な校長の発言として、現わされたりする。

 今はイジめ問題にはこれ以上は深入りしないが、人生にはかくのごとき目にはっきりと見えない種々の

陥穽がいたるところに身を潜めていて、私達をいやが上にも生き難くしている。

 備えあれば憂いなしとは、大地震、津波、台風などの自然災害に対処する心構えだけではない。常に

様々な外界の「迫害」にあらかじめ備えて、それにしっかりと対処する賢明さを求められている。

 だからこそ、可愛い子にこそ旅をさせる、親としての心構えが必須となるのである。

 こういう事があった。とても育ちの良いお嬢さん育ちの母親がいた。最寄駅から自宅までの道のりで徒

歩では十分程度の暗い道がある。可愛い娘に危険な思いをさせないために、車で必ず学習塾からの送り迎

えをしなければ心配でたまらない、と学習塾教師の私に、当然のこととして語った。

 私は面談の際に、何気なくその優しい母親に言ったものだ。「そのくらいの危険は、体験させておいた



ない、そんなことは考えただけでできません」と、天から問題外で、議論の余地などないと言うように頭

を横に振ったものです。勿論、私は親を指導する越権行為を犯すつもりなどありませんので、それ以上は

深追いせず、その事はそのままで済ませてしまった。

 仮にその優しいお母さんが私の娘であるか、ごく親しい懇意の方であったならば、そして私に本当の意

味の親切心があったならば、もっともっとこの問題にこだわって、真剣に議論を戦わせ、場合によっては



 世のお母さん方、子供が可愛いのは人情の自然であり、お好きなだけ可愛がったら宜しい。けれど、説

教がましい言い草に聞こえるかも知れませんが、世の中には世にも恐ろしい危険が、いたるところにあ

り、何時、如何なる場合に危険が待ち受けていて、私たちの身に降りかかってくるのか、知れないので

すよ。親が可愛い子供を庇うのは極めて限られた、特殊な条件が整った際にだけに限られるので、九十%

以上の場合に、本人がその危険に対処するしか方法はない。それが人生という危険に満ち満ちた戦場なの

です。親の教育の範囲は、極端なレアーケースで子供に手を貸すことではなく、子供本人が様々なケース

に臨機応変に適切に対処出来る能力をつけさせることに主力を注ぐことしか出来ない。そのことを、親

も、そして子供にもよくよく認識させるしか、手はないのですね。どうしても。

 一から十まで自分の子供の面倒を見て、可愛い我が子を安全地帯に置きたいと願う親心は理解できる。

しかし、それは誤りである。それはある種の危険思想に近い。そう断言せざるを得ない。残念ながら。

 今日の全体的にひ弱で、生命力の希薄な世相を身近にしていると、大人や親の世代の過剰な過保護意識

が、子供達の正常な発達や成長を根本の所で阻害している危険性を感じてならない。

 人生は危険に満ち充ちた修羅の戦場、食うか食われるかの闘争場なのだ。表面がいかに平和で、柔和な

表情をしていても、である。その本質を見誤らない限り、お上品で、優雅、エレガントな世界観を保持し

ようと、各人の勝手なのだが。

 さて、初めの備えあれば憂いなしに戻ろう。有り体に言えば、備えには限度があり、真の意味の憂いは

残るのである。その真実の覚悟を固める為に、謂わば実相を見極める目的で、様々に「備え」を工夫した

り、危険に対処する万全を期そうと考えを巡らしてみる。結果、我々に出来ることには限度があり、万全

はとても期し難いと、悟る者は悟であろう。悟らない者は、いつまでたっても悟りには至らずに、右往左

往するであろう。

 つまりは、備えはあっても、憂いは去らない。それどころか、賢い者ほど憂いが逆に増すことに気づく

であろう。そして、どうなるか? どうにもならない。根本の所で、人力などという柔な物をもってして

はどうにもならないことを骨の髄まで知るにいたる。世にこれを解脱の境地、本当の悟りと称する。

 解脱、悟りの後で何が起こるか? 何も起こらない。真の意味の覚悟が定まる。

 そして、苦は楽の種と肝に銘じて知り、人生をエンジョイする道に自ずから進むことになるだけだ。一

休禅師の狂逸をそう解釈する者は幸いである…。

 旧約聖書を「申命記」まで読み進んだ段階である。





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最終更新日  2020年01月22日 15時03分05秒
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