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翌朝は6時過ぎからすでに弔問客はやってきた。お通夜の前に近くで顔を見たい、とやってくる人たちの数は減るどころか増え続けていた。時間を見つけて順番に身支度を整えホールに向かう。義実家の周りではまだ自宅葬をする人たちのほうが圧倒的に多いのだが、ホールにしてくれて良かった。収拾がつかなくなる寸前だった。つつがなく通夜も終わり、また義実家に戻り食事を取る。おなかが減っているのか、減っていないのか分からない。ただ、時間だから口に入れているだけだ。とりあえず、通夜が終わったことにほっとして次の目標は翌日の告別式、という感じで本当に一つ一つクリアするだけだ。こういうとき、お葬式というのは故人のためと言いつつも、残された遺族に、少しでも現実を直視するのを緩やかにするためのものでもあるんだな、と思う。やること、やらねばならないことがあれば泣いてばかりはいられない。少しでも忙しくして悲しい気持ちを和らげる意味もあるんだな、と。でも、人付き合いが多かった義父の手帳を見ては毎日びっしりと色々な予定が、律儀な義父らしい、几帳面で達筆な字で書き込まれているのに涙がこみ上げ、遺影の写真を選んでは秋の旅行を楽しみにしていただの、この微笑み方は義父らしいだの話しては涙がこみ上げ、現実を直視する一瞬が訪れる。翌日も、朝6時過ぎには弔問客はやってきたらしい。7時過ぎに義実家に行くとすでに疲れた顔でみんなは朝食を食べていた。何度、義父の顔を眺めただろう。今日でもう、こうして義父の顔を見ることはできなくなるのだ、永遠に。子供たちには「もう、写真以外ではじぃちゃんの顔を見ることが出来なくなるから。いい?よく顔を見て覚えておきなさい。」とみんなで顔をなでて、最後のお別れをすると、義父は焼却炉の向こうに消えて、その扉は閉ざされた。控え室に行くと宗二が「トイレに行きたい」と言うので一緒に行くと、手を洗いながらじっとしている。そして「俺、涙が出てくる」と言い、あたしの胸に顔をうずめた。骨になった義父を、子供たちはどんな気持ちで見ていたのだろう。あたしもそうだが、骨を見てもう取り返しがつかなくなってしまったと気付く人が多いのではないだろうか。それなのに、それと同時にこの斎場で働く人の毎日を思うと本当に手を合わせてお礼が言いたくなった。生まれて一番初めにお世話になるのが助産師の仕事なら、人生最後にお世話になるのがこの職員の方。毎日毎日、悲しみで張り詰めた空気の中、本当に大変で、意義のある仕事だと思った。「ありがとうございました。本当に大変なお仕事だと思いますが、義父のために一所懸命していただいてありがとうございます。」と声をかけてホールに戻った。今回、あたしも旦那も自分の関係には連絡をしなかった。こういうときはどの程度の人にまで連絡をすればいいのか分からなくなる。連絡を受けたほうは聞けば来なくてはならないだろうし、特にあたしは旦那が喪主だとはいえ、嫁ぎ先の親なので来てもらうのが申し訳ない気がしたからだ。それなのにお通夜・告別式と2回とも来てくれたりょうちゃん家族。他にも何人もの友人たちが義父のために手を合わせてくれた。また、市長が旦那の隣に立ち、式が終わるまで親族と一緒に頭を下げてくれた。義父と市長との関係の一端は初七日の、同僚だった人と市長の挨拶で明らかになった。義父は東京で商売をしていたが、両親に呼び戻されて実家に入った。そして地元の工場に就職するが、そこでの働きから何度も感謝状をもらっていた。そこで、部署が違うこの同僚が「どうすれば成績が向上するのでしょうか?生産性を高めるためにハード面で力を入れていることは?」と聞くと、そうじゃない、といったそうだ。そしてとにかく「5S」を徹底させたそうだ。「5S」というのは整理・整頓・清掃・清潔・躾の事を指す。朝は誰よりも早く出社し、他の社員が出社する前には掃除を終わらせていたそうだ。毎日、毎日。その姿を見て同じ課の人間が、部の人間が、そして社内のすべての人間が義父の姿に賛同し、工場の生産性がぐっと上がったそうだ。その実績を見込まれて退職後は市長からじきじきに依頼され、ある社団法人に再就職した。それまで下位にあった実績と件数はあっという間に上位にまで昇り、義父が退職したあとは、あっという間にもとの順位にまで下がってしまったそうだ。そのときもハード面を向上させるのではなくソフト面、つまりその職場で働いている人たちへの心遣いがやる気を起こして成績が上がった。もちろん、部下に対して感情をはさまずに指示することも必要だが、そのあとのフォローや心配り、そうしたものに対して人がついてきてくれた、と。お上人様からは、義父の戒名のことを教えていただいた。院号に「詮」という字を入れていただいたのだが、この字には特別な意味があり、実際にこのお上人様も戒名に使うのは今までで2人目だ、とおっしゃっていた。そして、それだけ惜しい人を亡くしてしまった、と。お上人様から見た義父の人となりを聞くうちに外での「義父の顔」をほんの少し垣間見れることが出来た。聞く話、聞く話はすべて新鮮だった。民生委員をしていたときの義父、区長をしたときの公民館建設時の取りまとめの話、ひとつ管理林があるのだが、何人もの地権者の取りまとめ役としてどれだけ義父が尽力したのか、など。そういえば昔、議員に立候補してくれ、と近所から担ぎ上げられそうになり家族全員で反対したこともあった。義父の人望の厚さと行動力には驚いた。そして、そうやって上に立つ人だったんだ、と改めて感じた。最後に旦那が挨拶をした。旦那の挨拶に、みんなが泣いた。泣いて、泣いて、骨になった義父を見て、死んじゃったのか、と少しだけ理解できた。でも、月命日にお線香を上げに義実家に行くとまだ、掘りごたつの義父の席に、パソコン部屋に、義父の姿を探してしまうのである。
2009年08月30日
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7月の初旬、義父が倒れた。猛暑になるかもしれないと予感させるような暑い日だった。義母と一緒に畑に出たが、他の畑の雑草が気になるからと一人でそちらへ向かった。義父のことを「兄貴」と慕ってくれる近所に住むTさんが義父のいる畑の前を車で通りかかり、こんなに暑いんだから帰って休め、と身振りで示すと義父はお前はあっちに行け、と笑顔で追い払うしぐさを返した。「あのときに無理やり帰せばよかった。」Tさんはそう言ったが、義父の性格を考えるときっと、誰が何を言っても気になることを放っておけない義父は帰らなかったと思う。義父が倒れているのを見つけた人は最近、実家で同居を始めたばかりの夫婦だった。うつぶせに倒れている義父を見つけてくれたが、畑の場所で所有者が誰かなんてわからない人たちだった。だから義母を呼びにいくこともなく、自宅へ戻り、救急車を呼んでくれた。救急車のサイレンを畑で聞いていた義母はサイレンの鳴る位置を確認しながらどこの家に行くんだろう、とぼんやり思っていたそうだ。義父が救急車で運ばれた、という連絡を受けたとき、あたしは旦那の先輩の誕生日ということで手土産にアクアパッツアを作っていた。とにかくどうなるか分からないから、すぐに出かけれるように身支度を整えておけ、といわれて保育園と空手の道場へ子供を迎えにいった。手土産を合流するはずだった後輩に託し、子供たちにおにぎりを食べさせていると運ばれた病院へすぐに来るように、といわれた。救急処置室のベッドの上には徐々に体温が消えていく義父が横たわっていた。思いもかけないことだった。10年ほど前、心筋梗塞で倒れて一度は心臓が止まったのに息を吹き返し、心肺蘇生をしている医者に「痛いじゃねえか!」とつかみかかりながら起き上がった義父。2年前に倒れたときにも1時間後には意識を取り戻していた。でも、今回はだめだった。あれだけ悪運が強いと皆から言われていた義父が亡くなった。そっと手を握っても握り返してくれることはなかった。「じいちゃん、顔に土がたくさんついているね。かわいそうだからとってあげる。」と顔の土を払う宗二。自分が見ている、今の情景が信じられなかった。2年前に救急車で運ばれたときのことがダブっているのに、今回はなぜ、目を開けてくれないんだろう?死んでしまった、もう、義父と話すことができない、ということがどうしても信じられなかった。家族の待合室に行くと、知らせを聞いて駆けつけてくれた人が何人もいた。みんな、あたしと同じように何が起きたのか信じられずに呆然としていた。実は今回はもう駄目かもしれない、と思うようなことがあった。あたしが病院に向かうために着替えをしていたとき、どこからか歌が聞こえた。どうしてこんなタイミングに、と思ったのだが、それはこの歌だった。私のお墓の前で泣かないでくださいたまたまだとは思うのだが、これは義父からあたしたち家族への最後のメッセージなのかもしれない、と覚悟を決めたのだ、この瞬間に。なのに、実際に義父と対面して義父の顔を見ていると次の瞬間に目を開けて「おう。心配かけたな。」と言う言葉が出るような気がする。そのくらい、穏やかでリラックスしているような顔だった。警察が来て検視が始まった。それからきれいに清めてもらい、自宅に帰ると言うので子供を連れて義実家へ向かった。途中、コンビニで子供たちのお弁当を買い義実家へ向かったのだが、今考えるとなぜあんな道順で向かったのか理解できないような帰り方をした。帰るまで普段の倍近くかかってしまった。普通に振舞っていてもかなり動揺していたんだな、と思う。義実家にはすでにご近所の奥様たちが待機していた。あたしは義実家の方のお葬式を体験したことがない。嫁であるあたしはとにかく教えてもらったとおりにするだけだ。組長の奥さんとTさんの奥さんに「何も分からないので足を引っ張ってしまうかもしれませんが色々と教えてください」と頭を下げてお願いするが、「こういうことは私たち近所がやるから子供たちを見て少し休んで。」と声をかけていただき、義父が戻ってきて祭壇を設置したあと帰宅した。遅い時間だというのに「おくりびとジョジョ」が車を用意してすべての支度を整えてくれた。ここまではもう記憶がおぼろげになってしまうくらい忙しかったほんの序章だった。翌朝、旦那は早朝からお葬式の打ち合わせで出かけた。結局次男の旦那が喪主を務めることになったのだ。あたしは喪服の支度や現金を用意してから義実家へ向かう。すでに何人もの弔問客が来ていてとにかくお茶を出して、下げて、洗う。それのみだった。こんなに何度も正座をして、お辞儀をして、立ち上がってという動作をしたことがなかったのでひざは擦れてガサガサになってしまった。夜までには義兄・義姉家族とそのほかの親族もやってきた。ホールの都合でお通夜は翌日になったのである意味慌しさも穏やかなものになった。義父の祭壇を見ながら皆でいろいろな話をする。まだ誰も義父が死んでしまったと信じる人はいなかった。確かに、みんな油断していた。以前倒れてから2年も経っていたのでなんとなく健康な体に戻ったと油断していた。義母は「私が少し疲れて調子が悪いと言ったからお父さんは無理してあっちの畑の草を刈りに行ったんだ。せめてあの時一緒にあっちの畑に行っていれば倒れてもすぐに心臓マッサージができたのに。そうすればこの前の時みたいに助かったかもしれない。」そう言ってみんながみんな、自分を責める。そして悔やんだ。あたしは義父が亡くなる数日前に義実家を訪れていた。帰り間際、義父に声をかけて帰ろうと思ったが疲れていたのか横になっていたのでそのまま黙って帰宅した。亡くなった次の週、子供たち3人が義実家にお泊りすることになっていた。ま、今度のお泊りのときにお礼を言えばいいや、と言葉を交わすこともなく帰宅してしまったことがとても悔やまれる。長患いもせずに逝ってしまったことは家族にも負担をかけず、とてもありがたいことなのかもしれないが、こんなに早く、さよならも言えずに会えなくなってしまってとても、さみしい。あたしたちも迷惑もかけたんだから少しくらい、面倒を見させてもらいたかった。みんな、ひそかに自分を責めながら飲んだんだと思う。心の中で義父に語りかけていたんだと思う。あたしは今度飲もうね、と残しておいた「百年の孤独」の残りの一本を開け、コップに注ぎ、死に水のために使う箸のガーゼの先に含ませて義父の唇を湿らせた。何回も、何回も。なぜか、そうすれば目を開けてくれるんじゃないかと思った。そして、そのままあたしたち家族も居間で雑魚寝してしまった。代行を呼んで自宅に帰る前に力尽きてしまったのと義父と一緒にいたい気持ちがあったのと両方だった。
2009年08月29日
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残暑お見舞い申し上げます。…って、もう秋の訪れを感じている今日この頃だけど。一足早い夏休みをいただいてからずっと放置のこのブログ。取り込んでいて時間がなかったことが一番の理由だけど、シリーズ化ネタになりそうな、でも書けそうにないことで時間を費やしてしまったり、気持ちの整理がまだつかず客観的に書けそうにないこと、そんなことも重なり、ずっと放置状態でした。心配をおかけし、メールまでくださった方が何人もおられたのでこの場をお借りし、近況報告とさせていただきます。あたしは元気でやってます。ひと段落着いたので、取り急ぎご報告させていただきます。ずっと調子の悪かったPCもやっと修理から戻ってきたのでぼちぼち再開の予定。もちろん、旦那、龍一、宗二、健三、キャン、ファルコンも元気です。新型インフルエンザも蔓延しているようですがどうか皆様も気をつけて、くれぐれもご自愛ください。山の斜面いっぱいのひまわり畑より 青 嵐
2009年08月28日
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