戦国ジジイ・りりのブログ

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2012年01月28日
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カテゴリ: 旅日記(中国)
今回は、赤間神宮の大きな祭礼である先帝祭について。

先帝祭とは、毎年5月2日の安徳天皇の御命日を皮切りに、
3日間にわたって行われるお祭り。

見たこともないオマエが何で先帝祭について書くんだ、
と言われそうだけど、このお祭りは青森といえばねぶた、
岸和田といえばだんじり(笑)・・・みたいに、下関とは切っても切れない関係に
あるからですよ!

ここにも実にすごい様々な歴史が秘められているのだ。



安徳天皇、入水2



亀山八幡宮の 「大坂屋玉紫の玉垣」 にも少し書いたけど、
戦をからくも生き延びた平家の女官や女房たちは、
港に泊まる旅人に花を売って生計を立てていた。
実際には花売りだけで生きていけるとも思えないので、
花だけでなく春も売っていたと私は思うけど。

しかし、御幼帝の命日には身なりを整え、威儀を正し、
供養のために参拝を続けたと。
これが今に残る「上臈(じょうろう)参拝」の始まりと伝えられる。


この「先帝祭」という名称については、『赤間神宮 下関・源平史跡と文化財』に
次のように書いてある。


  天皇陛下にとっては、昭和天皇の御命日祭のことになるのです。

  下関の先帝祭も、勿論その起りは源平船合戦に入水された安徳天皇の御霊を、
  後鳥羽天皇が先帝追福のために祭られたことに始まっているのですが、
  都を遠く離れた下関の地では史上空前の大法会でありましたから、
  市民にとって「先帝祭」は一大行事となり、それ以来、

  毎年「先帝祭」としての祭礼が続けられ、ついに歳時記にも記載される
  固有名詞となって現在に至っているのです。】


ああ、言われてみればそうだよね~。
「先帝」は現職一人につき一人しかいないはずなんだ。

「先帝祭」と初めから固有名詞として聞いちゃうから、
何の疑問も抱かないけど・・・


この『赤間神宮 下関・源平史跡と文化財』(以下『赤間神宮』)は、
安徳天皇没後・・・壇ノ浦の合戦から800年の記念にまとめられた冊子で、
上記の他にもかなり興味深い様々な事が書かれているので、
本文を引用した箇所の他にも、ブログの中で多々参考にさせて頂いていることを
ここで申し添えておきます。

で、上臈参拝については次のように続く。

 【現在では、いわゆる遊女の時代の名残を留めているため、
  全体は過去の遊郭における太夫道中の姿にならって、
  先頭から稚児・警固・官女・禿・上臈の順に列立参進しているのですが、
  この列立からもお判りのように、官女がまん中に来ていること、
  しかもそのすぐ前に警固という役が前行していることは、
  官女のすぐ後ろの禿(かむろ)が本来は後衛の警固役であったことをあらわし、
  前に二人、後ろに二人を配し、その真ん中に位置して参進する、
  この姿が古風なのです。】

つまりは、この官女が主役なんだと。
まあ、由来を考えればこれも当然のことなんだけどね。

でもやっぱり、きらびやかで独特の外八文字道中なんかやっちゃう上臈に
見物客の目はいっちゃうみたいだけどね。

この上臈は、かつては稲荷町(現・赤間町)、後には豊前田・新地の
郭の女性がこれを引き継ぎ、現在では舞踊協会の方々がその役に
あたっているとのこと。

拍手の両手を帯の前で止めて打ちこまない作法を初めとして、
結髪や衣裳など、「先帝祭」全体が下関の無形文化財に指定されている、と。



上臈参拝は、祭の期間は高いところに陸橋(天橋と呼ばれる)が設けられて
そこを官女たちが進むんだけど、赤間神宮の前身・阿弥陀寺の古い絵図にも
この道は描かれていて、当時は仮設じゃなく常設だったみたい。

だから相当古くから行われているという事がわかるのだけれど、
長い歴史の中にはやはり衰退していた時期もあって、そんな時、
玉紫さんのいた大坂屋の主人が店をあげて下関の活性化のために祭礼を応援して、
今のようなスタイルになったものと『赤間神宮』の中では推測している。

そして参拝の中心である官女、
 【明治維新のあと各宮中行事が復興された時、
  装束のうちの一具である「裳(も)」は、先帝祭の官女のそれを参考にし
  復元したと言われております。】
と『赤間神宮』に書いてあって、これには驚いたね~。

宮中で廃れていたものが、遠い下関の地に残っていて、
それをまた宮中で吸収した・・・



※ こちら (関門TVさんのサイト)から参拝の様子が映像で見られます。
 全部で約23分と少々長いですが、官女と上臈の所作の違いや美しさをお楽しみ下さい。
 最後に座布団をそそくさと撤収する場面が笑えた



さて、話は変わって安徳天皇の御遺骸を引き上げたという中島四郎太夫政則。


政則の子とその家来5人は平家再興を願い、小門王城山(おどおおじょうざん)に
隠れていたものの、その希望も消え、ついには海賊となって彦島の竹ノ子島を襲い、
ここを占領。
その時に上陸した場所は今も「六人武者の江良」と呼び、
この島は鬼ヶ島とも言われた。

付近を荒らし回った六人武者の海賊に対し、豊前から兵150人、船63隻が討伐のため
福浦の江良に上陸(今も「六十三隻江良」という地名が残る)。

150人対6人。
しかし、たった6人が兵を蹴散らし、撃退(笑)・・・はしたものの、
平家の残党であることがバレてしまったため、家来はそれぞれ遠い地へ散ってゆき、
政則の子だけがその地に残り漁師となって血統を残したという家系らしい。
ただの漁師なわけじゃないんだね。

この戦いを由来とする地名は他にもあって、「鶴の江良」「仁蔵の江良」は
六人武者に殺された鶴五郎・仁蔵の死んだ場所、さらにその二人の首を埋めて
供養した場所が「田の首」だと言われておるそうな。


で、その中島さんちは安徳天皇の御尊骸を引き上げたという功により、
先帝祭では官女の参拝に先立って、中島家一家が大紋に威儀を正して天橋を渡り、
参拝を行うならわしが現在も続けられている。

また、本宮から御旅所(遺骸が一旦安置された場所)まで神輿(鳳輦)が渡る
御神幸祭では、中島家がこの御旅所に待機して、鳳輦が到着すると
神饌を恭しく供する役を担っているのだと。

ほえ~



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最終更新日  2012年01月28日 18時15分54秒
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