戦国ジジイ・りりのブログ

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2012年02月13日
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カテゴリ: 旅日記(中国)
さてと、赤間神宮での目的をすべて果たしたので、

トイレに寄ってくことにした。

で、境内の一番低いところ、この写真の前を横切っていたらば、
すぐ右脇に、なにやらびっしり文字の書かれた石碑があるのに気がついた。

赤間神宮2

石碑の材質と文字の字体だの大きさだのがマッチしてなくて、
とにかく大変読みにくい石碑だったんだけど、
タイトルは「太閤石由来記」とあった。


かわら版みたいなものなんだから、読めなきゃ意味がないじゃ~ん!!とか
思ったけどね。
これから石碑を建てようとお考えの方がいたら(いるか、そんな人?)、
はっきり文字が読めるようなデザインのものを作っていただくよう、
お願いしますね(笑)。

「太閤」と聞いて、おそらく9割くらいの人がまず1人の人物を連想すると
思うんだけどね、その太閤殿下のことなのか!?と思って
頑張って読んでみたらば、大ざっぱに言ってこんな内容らしい。

  大坂城築城にあたり、肥前の国からいかだで大量の石が運ばれてきた。
  ところが、赤間の急潮に阻まれ、月日を費やしているうちに大坂城が完成。
  もはや用をなさなくなった石たちは、赤間の海へと捨てられてしまった。


海を渡れずにモタモタしてるうちに城が完成しちゃったって、
どんだけ難儀したの~!

いやいや、笑っちゃいかんな。
赤間ヶ関は、幅は狭いけど、ホントに流れは速いから。

それで、何百年ぶりかに陽の目を見た石たちで水天門の下の石垣を


これって、いわゆる「残念石」に入るよね?
残念石自体はあちこちにあるけど、残念石で石垣を組んだのって
初めて聞いたし、初めて見た気がするけど!
なんか、すごくない~!? 

残念石ってのは、修羅(ソリ)からぽろりと落ちたとか、
端が欠けちゃったりして、せっかくお城の一部を構成するために切り出されたのに、
結局お城の一部になれなかった残念な石たちのこと。

各地で長い間やっかい者扱いされてきた残念石に比べると、
立派な石垣になっただけ、ここのはまだ幸せかな~とか思うけど・・・
まあ、石に残念も幸せもないか(笑)
人間の勝手な思い込みかな。

この石碑には、天正15年3月に殿下がここに来て、
安徳天皇の御影を拝し、献歌をしたと書いてある。

へえ、亀山八幡宮の太閤ソテツに続いて、殿下のスポットは2ヵ所めだ。
この他にも、直接的にではないけど、殿下のゆかりのスポットが
いくつか出てきますのでね、それについては、おいおい・・・

で、トイレに行ったんだけど、
このトイレがまた、水天門とかと意匠をあわせたデザインでね。

当然、写真を撮りましたが、これもダメになった。

大体、トイレとか色んな貼り紙とか写して公開する人間なんていないべ~。
そんな、誰も見向きもしないような地味に面白いものも
私にとっては大切な旅の記録なので、あえて公開する。
これが戦国ジジイ流・・・なんちって


トイレでスッキリしたところで、今度は神社の正面から出て国道を渡り、
赤間神宮の駐車場へと向かう。

駐車場の隅っちょには、安徳天皇を抱いた・・・確か二位の尼の
彫刻があったんだけど、正直言ってあんまり好きじゃない像だった・・・

この駐車場の奥には、「朝鮮通信使上陸淹留(えんりゅう)之地」碑がある。

朝鮮通信使ってのはあちこち見にいくと結構聞く名称だけど、
朝鮮から来た人達ね、くらいにしか思ってなかった。

ところが、今回の旅にあたって、
「朝鮮通信使とは、何ぞや?」
って今さらながら素朴な疑問が湧いてきて、あれこれ調べてみたら、
これがまた面白いのだ。

全部書いてると、それだけでまた5話くらい軽くいっちゃうから(笑)、
かいつまんでの説明にとどめますが、興味のある方はぜひご自分でも
調べてみてくだされ。


さて、ここ下関は、その立地から朝鮮半島との交易・交流の歴史は古く、
西暦561年の 「日本書紀」には、新羅の国使が当時の迎賓館であった
「穴門館」に立ち寄ったという記事がある。

朝鮮通信使の始まりは1404年の室町時代。
当時、倭寇で困っていた朝鮮国が、倭寇を退治して安定を得るのではなく、
国交を結び、貿易を正式に認めることで対応しようとしたもの。

そして朝鮮国と日本が対等の外交関係を開き、使節が派遣されることとなったが、
この使節は、
 朝鮮側→「通信使」
 日本側→「国王使」
と呼ばれた。

この「通信」って言葉は、「信(よしみ)を通わす」、
つまり信義を通わせるという意味なんだと。

室町時代には、朝鮮通信使は7回計画され6回実行されたものの、
そのうち来日を果たした通信使は3回。
主に、足利将軍家の将軍襲職の祝賀や日本の国情探索、
それから倭寇の禁圧要請などを目的とした。


下関は、朝鮮通信使が初めて接する日本の都会で、
潮待ちや風待ちなどのため、必ず滞在する必要があった。
そのため、最後の通信使を除く16度の通信使が下関に寄港している。

特に、倭寇の禁圧要請が最大の使命となっていた室町時代の通信使は、
倭寇に影響力を持つ大内氏とも信(よしみ)を通わす必要があったので、
通信使はここ下関で必ず大内氏の当主と対面し、
倭寇禁圧や海賊が横行する瀬戸内での通信使船の航行安全などを要請したと。

という訳でこの時代、下関は通信使の成否を握る重要な地であったんだと。

外国との貿易で莫大な利益を上げていた大内氏にとっても、
通信使の成功は大切なものだったはずだしね。


しかし、大内氏は滅び、時代が下ると豊臣秀吉の朝鮮出兵により両国関係は破綻。
朝鮮側からは2度、和平のために朝鮮通信使を派遣したものの、
殿下がこれを無視・・・
さて、どうなる!?

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最終更新日  2012年02月13日 21時38分47秒
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