戦国ジジイ・りりのブログ

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2012年03月23日
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カテゴリ: 城(中国)
再び泉水まで戻って、続きをば。

岡山城表書院1

この辺りには的場があり、その脇に伊部(いんべ)櫓、
ずーっと南側まで行くと大納戸櫓があり、さっき見た北側の数寄方櫓から
すべて多門櫓でつながっていた。
あ、ちゃんと解説もあった。

 【多門櫓

  石塁の上に建てられた長屋を多門櫓といいます。大納戸櫓と伊部櫓の間には
  長さ37m、幅4mの平屋の多門櫓が建っていました。壁には下見板が張られ、


ここの石塁の上からは、大納戸櫓の石垣も見える。

岡山城多聞櫓から2

大納戸櫓は岡山城最大の三階櫓。
南北に20メートル、3階建てで沼城の天守を移築したともいわれている。
この付近の石垣は、下部が解体修理されているらしい。


大納戸櫓の近くには、また展示施設が・・・
今度はなんだろ~
と思って階段を降りていくと、また!!

岡山城・ひでくんの石垣2



 【 <この石垣はどこまで続く>
  北へは、展示施設の壁を越えてあと25mほど真っ直ぐ延び、そこで103度の角度で

  また、南は石垣としては残っていませんが、施設の壁から10mほどの所で
  鉤(かぎ)折れし、さらに10mほどの所で東に大きく向きを変えたとみられます。

  中の段では宇喜多秀家が築いた石垣のすべてが覆い隠されるまでに拡張工事が
  行われていたのです。
  そうしたことを含め、安土桃山時代から江戸時代前期の間に中の段が


<岡山城の史跡整備のみどころ>
  中の段の北西隅には月見櫓(国指定重要文化財)が建物の実物として残っています。
  また、史跡としての整備は、この場所にあった表書院(藩の政治の場や藩主公邸)
  の建物の間取りの表示と、小庭園の泉水の復元を一つの柱としています。
  これは現在の地表面に明治維新を迎えた時の様子を表示したものです。

  いっぽう、発見された埋没石垣は、築城期の実物です。
  このように、岡山城の史跡整備は、実物と復元物を取り混ぜ、対象時期が二時期に
  わたる立体的なものとなっています。】(現地解説板より)

そして、中の段の歴史を表した図もある(左から古い順)。

岡山城・ひでくんの埋没石垣解説2

「北に拡げた」って文章を読んでもピンとこないけど、
図だとわかりやすい。
なるほどね、こーゆーことなのか~!

そしてさらに、ここにはもう一つ、すごいものがある。

岡山城・400年前の造成土

 【石垣を埋め立てた四〇〇年前の造成土

  この場所にあった土層の断面をそのまま剥ぎ取って展示しています】
  (現地解説板より)

すげえ!

さらに解説。

 【宇喜多秀家が築いた中の段の西辺石垣

<南側に石垣がないのは>
  もともと、石垣は南に続いていましたが、城を改造する時に石を抜かれたからです。
  石は新たに築かれた外側で現役の石垣に転用されたと考えられます。また、
  北側が石垣の形を保つのは、南を崩すだけで石の量が足りたか、石垣の上に建っていた
  長屋状の櫓(多門櫓)を中の段内部の建物として残したからでしょう。

<石垣の特徴は>
  石垣の本来の高さは10mほどあり、下の段から積まれています。
  頂部は壊れていますが上方の高さ約3m分を露出展示しています。石は主に花崗岩で、
  加工を施さない自然石を横向きに積んでいます。石垣の傾斜は58度で、城の石垣
  としてはずいぶんと緩やかです。また、上方ほど傾斜が急となる「反り」の
  技法をとらず直線に立ち上がり、古い時期の特徴を持っています。

<ここから金箔瓦が出土>
  石垣を埋め込んだ造成土からは、金箔をおした桐の文様の瓦が出土しました。
  平成8年のことです。桐は宇喜多秀家が豊臣秀吉から家紋として
  与えられたものです。
  この石垣の上、つまり秀家期の中の段には、こうした瓦を葺いた華麗な建物が
  あったのです。】(現地解説板より)

金箔瓦が出土した位置は、上の造成土の写真で上から3つめの札のところ。
解説板には出土した瓦の写真もあり、大型の金箔瓦は直径26cmとある。
直径26cmの金瓦・・・キラキラやんけ

4つめの札には、
 【城の周囲の地山であるマサ土や川砂を採ってきて、入念に盛った様子がわかります。
  瓦や陶磁器の破片も混ざっていました。】
とある。
あいにく、土のことはわからないけど、こうしたものから
色んなことがわかるんだね。

しかし、結構な厚さだったよ~。
地表から金箔瓦のところまでで、1mちょっとあったもんね。
当然、工事はすべて人力だから、かなり大掛かりな工事だったでしょうね。

地面の下でひでくんの頃に想いを馳せながら、満足して展示施設を出る。
ここから少し本段側に行ったところが、表書院の玄関。
中の段では、南にあたる位置。

「君主は南面する」という中国の思想から、南向きの敷地が好まれたというから、
これもそういった流れからきてるのかもね。

ちなみに、君主が南面、すなわち南を向いて座れば、
それに向き合う臣下は当然北を向いて座ることになる。
つまり、臣下は北面する。
ここから「北面の武士」という言葉ができたそうな。

歴史って、知れば知るほど面白い。

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最終更新日  2012年03月23日 22時08分01秒


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