戦国ジジイ・りりのブログ

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2012年03月25日
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カテゴリ: 城(中国)
さて、ここまでの解説板であまり全体の概略について述べてるのはなかったので、


南北朝の時代、正平年間(1346-70)に上神太郎兵衛尉高直が
石山に城を構えたのが文献に現れる最初という。
時代が下って、大永年間(1521-28)に金光備前が在城するが、
その子・宗高の代になって、宇喜多直家に滅ぼされる。

直家は石山の城を大々的にリフォーム。
直家の子・秀家は、父の城・石山城を取り込んで西方の岡山に居城を移し、
秀吉直伝の派手さをもって、延べ7年かけて大規模な城を築く。


ひでくんは配流の身となり、八丈島での公式史上最初の流人となる。

代わって関ヶ原で大活躍の裏切りをした小早川秀秋が
岡山城主となり、改築。
が、秀秋は関ヶ原からわずか2年で早世。
子がなかったため、小早川家は改易。これは徳川政権で初の無嗣改易だった。
岡山城には、「はじめて物語」がつきまとうなあ(笑)。

その後は池田輝政の子が2代続けて入り、あとはずっと
廃城まで池田家が城主を務めた。
池田さんちも色々ごちゃごちゃあるけど、後に書く機会もあるので
今は割愛。


さて、天守。

岡山城本段

岡山城本丸書院

前の記事と同じ写真で恐縮ですが、上の写真が南からの撮影、下の写真が西の
中の段からの撮影。

見る角度によって、幅が全然違う。
そう、岡山城天守は東西に平ぺったい構造なんです。



大型の櫓を書院造の豪華な建築に造り替え、皆びっくりの高層建築を出現させて
「天主」と命名したことに始まる。

天守の構造には2種類あって、入母屋屋根の上に別の建物をちょんと載せる望楼型、
1階の平面を維持したまま一定の逓減率で上に行くほど小さくなる層塔型に分かれる。

建物の構造が単純なのは層塔型なのに、層塔型が世に現れるのは遅かった。
なんでか?


「1階の平面を維持したまま」と書いたけど、それが理由。
つまり、層塔型の天守を建てるには、正確な矩形(くけい。長方形や正方形)の
天守台を築く技術が必要だった。

天守は防衛上、天守台をめいっぱい使って建てるのが望ましいとされたので、
天守台の歪みはそのまま天守の一階平面に反映される。
その歪みを上階に持ち越すと、大変不格好な天守が出来上がるというワケ。

ちょっと歪んでるくらいならいいけどね、例えば平ぺったい岡山城で
層塔型天守を造ったら、最上階は薄く切ったカステラみたいな形になっちゃう(笑)。
しかも大きく歪んでるから、カステラだったら、

みたいな・・・

しかし望楼型であれば、入母屋の上に載せる建物部分で修正すればいいので、
天守台そのものにそれほど高度な技術は必要としない。
ので、安土城から慶長13年(1608)年の姫路城完成に到るまでの約30年間に
建てられた天守は、すべて望楼型。
岡山城天守もこの望楼型全盛期の築造。


史上初の層塔型天守は、築城名人・藤堂高虎の今治城とされる(1608年頃)。
2年後の丹波亀山城の築城にあたって、高虎は天守を徳川に献上、これを移築。
この丹波亀山城は天下普請だったため、動員された諸大名は初めて見る
層塔型天守を自らの居城にも応用した。

外観上は望楼型よりも層塔型の方がすっきりはしているけど、
層塔型でも格式を高めるために、天守には様々な意匠を凝らした。
ところがこの献上された今治城の復元立面図を見ると、
それがほとんどない。

天守の意匠といえば、まず破風(屋根の端部)が一番目立つけど、
今治城は正面から見ると、この破風が一番上にひとつあるだけ。

当時、最上重には必ず破風を飾ったので、
「とりあえず、慣例に従って上に破風だけはつけましたけど~」
って高虎のセリフが聞こえてきそうな位、今治城天守には飾りがない。

ただでさえ新式の構造なのにこの外観だから、初めて見た大名達の目には、
層塔型だけに相当斬新に映ったのではなかろーか。
・・・すみません、オヤジ出ちゃいました

層塔型は石垣は大変だけど、建物部分は旧来の望楼型天守に比べて構造が単純であり、
部材の規格化が容易・工期が短縮できるなどの工事上のメリットもあったので、
急速に全国に普及し、折しも慶長の築城ラッシュのさ中。
以後は層塔型が主流となっていった。



さて、岡山城天守は歪んだ五角形の天守台の上に建つ。
望楼型で、上階にいくにつれ少しずつ歪みを修正して四角形にしているので、
1階から6階まですべての階が違った平面を持つ。

四角形以外の天守台は安土城(八角形)とここだけで、
さらに五角形の天守台はこの岡山城天守だけという。

天守の基本的な平面は、中央に身舎(もや。母屋とも書き、部屋のこと)を置き、
その周囲に入側(いりがわ。武者走りともいい、通路状の部分)を廻らせたもの。
だから、ここでいう「平面」は部屋と廊下を合わせた部分のことだと
お含みおき下さい。

で、岡山城天守の平面は、

 1・2階はほぼ同じ間取り。72畳。
 3階は十字の形。85畳。
 4階でようやく平面が正しい長方形となる。56畳。
 5階は正方形の身舎(もや)に南北出窓が付いて、「エ」の形。17畳。
 6階は正方形、17畳。

※天守内部の平面図を見たい方は こちら
(The Lit City Museum/岡山市デジタルミュージアム様のサイトへリンクします。
 図の「天主閣○階」のところをクリックすると、各階の平面図が見られます。)

1階平面は上にも書いた通り、そのまま天守台の形なので
歪んだ五角形だけど、身舎はこのフロアから四角形。
その分、入側で調整している。

広さについては、岡山市デジタルミュージアム様のサイトを参考にしているけど、
図面を見比べてみても1・2階と3階の広さがどうもおかしい。
たぶん、1・2階が85畳で3階が72畳の間違いなんじゃないかと思う。

上がるにつれ、次第に身舎の形は修正されていくが、屋根はどの階も複雑で、
身舎に比べて図面上は変な形となっている。

ところでこの図面は、上記リンクにもあるように、
当時早稲田大学の学生だった仁科氏が学友の協力のもとに実測し、
昭和2年に卒論として提出したものだそうな。

それが唯一の岡山城天守の実測図となったっていうんだから、
何がどうなるかわからないもんだね。

この実測図と古写真を元に、外観はほぼ旧状通りに復元された。
築城から廃城までの間に、城全体としてはあちこち改修などが加えられ、
天守も延享3年(1746)に修理が行われ外観の一部が変更されたが、
天守の構造自体はひでくんの頃のままを廃城まで維持していたので、
オリジナルではないけど、ひでくんが満足して見上げたであろう天守と
おおむね同じ外観のものを、400年経った今でも見ることができる。


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最終更新日  2012年03月25日 21時27分23秒


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