戦国ジジイ・りりのブログ

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2012年04月07日
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カテゴリ: 城(中国)
さて、通説で撫川城の築城者となっているのが、三村家親。


はい、庭瀬城の解説にあった、三村元親のお父上です。

三村さんちについては、もっと後の方でまとめて書くつもりでした。
しかし、備中からはどかーん!とインパクトのあるご大家が出た訳でもなく、
世間一般ではマイナーな武将たちがこれでもかこれでもかと
ドンパチ繰り広げたところなので、マイナーすぎる事を一気に書きこんでも
読んでる方が辛かろうと思って(笑)、分割して備中の戦国時代を
簡単に紹介することにしました。


その中でも特に三村さんちは重要なポジションを占めているので、
触れない訳にはいかないのだ。



守護の起源については確定してないみたいだけど、
鎌倉期の備中国の守護は、「赤間ヶ関編」で一瞬出てきた土肥実平に始まる。
壇ノ浦後、追捕使として下関に来た人ね。

その後、めまぐるしく守護が入れ替わり、14世紀末には管領・細川氏の庶流が
守護職を継いでいった。
守護の下には、
 ・守護代・・・庄氏・石川氏
 ・国人領主・・・三村氏・新見氏・多治見氏
などがいた。


守護代が在地の支配にあたっていた。

自国にいない訳だから、その間に国人などによる領地の横領などが
行われるようになり、応仁の乱で世が下剋上ムードになってきた延徳3年(1491)、
守護代・庄元資が守護に反旗を翻す。

乱は鎮圧されたものの、守護・細川勝久の死後は守護は名ばかりの存在となり、

突入する。

永正4年(1507)年に大内義興が室町前将軍・足利義尹(もと義材、後の義稙)を
奉じて上洛した際には、動員された武田・尼子・毛利ら中国・九州の兵に混じって
三村宗親の姿もあり、三村氏の具体的な動向が確認できるのはこの時からという。

三村宗親は、家親の父。
宗親→家親→元親とつながるので、できれば覚えてね


天文2年(1533)、庄元資が上野氏を攻めて松山城を落とし、
備中最大の勢力となった。
庄元資は松山城に拠点を移し、猿掛城には庄氏一族の穂田(穂井田)実近を
城代として配した。


尼子詮久(のちの晴久)が天文5年(1536)に備中に侵攻してくると、
庄氏・三村氏・石川氏などは尼子氏の麾下に入った。

しかし、尼子詮久が天文10年(1541)に毛利元就の吉田郡山城攻めに失敗し
撤退すると、備中勢で尼子から毛利へ鞍替えする者が現れ、三村家親も
毛利氏に臣従。
家親は成羽に居館を築き、鶴首城を本拠とした。


庄氏は依然尼子配下にあって、三村氏と覇を競っていたが、
天文20年(1551)頃に猿掛城の穂田実近が三村領に侵攻。
これを受けて三村家親は毛利氏に支援を依頼。
ここから毛利の備中進出が始まる。

まあ、備中侵攻の足がかりは掴んだものの、この頃の毛利元就は
大内氏を牛耳っていた陶晴賢から、尼子に寝返った安芸の豪族の討伐を
命じられてたりして、実は忙しかった。

それでも天文22年(1553)、子の隆元・元春を従えて元就は備中に出陣。
三村家親は先鋒として猿掛城を攻撃した・・・が、応援に来た庄為資(元資の子)に
敗れる。

しかし、庄為資は講和を結ぶことを選択。

 ・三村家親の長男・元祐を猿掛城代・穂田実近の養子とする
 ・庄為資は、子・高資とともに松山城に居住

と取り決めて、戦闘終了。
この頃を大ざっぱに図にすると、こんな感じ。
備中相関図1
永禄に入って庄為資が死去すると、尼子と結んだ庄高資は
猿掛城の三村元祐と対立するようになった。
しかし、尼子から応援の将・吉田左京亮がやってくると、
庄高資はその圧迫に耐え切れず、猿掛城へ逃げ出した。

備中相関図2
で、1~5の流れで事は進み、3から毛利元就が出張ってくるんだけど、
5で庄高資の監視のために、三村家親も松山城に入れることにした。

庄氏に代わって備中の覇者となった三村家親は、松山城を拠点に
毛利氏とともに伯耆・美作・備前へと侵攻を重ねた。
この家親の代で、三村氏は備中のほぼ全域と備前の一部を手中にしていたという。


対外へも勢力を拡大していった三村家親は、永禄9年(1566)には
宇喜多直家の本城である沼城にも迫る勢いを見せた。

脅威を感じた直家は~、直家らしい方法で対処した。
家親の顔を知っていた鉄砲の上手、遠藤兄弟をスナイパーとして送りこんだのである。
重大任務を負わされた遠藤兄弟は、

と悲壮な決意を直家に残し、出発。

そして美作興善寺の陣で軍議中の三村家親に、夜だというのに火縄銃を命中させ、
任務成功。
これは要人狙撃事件としては最も早いものとされているらしい。
(杉谷善住坊が信長様を狙ったのは1570年)

しかし、三村陣中では家親の弟・親成が家親の死を隠して成羽に帰ったため、
混乱は起きなかった。

手応えを感じたのに、三村軍の静けさに 「おっかしいな~」 と思いながらも
遠藤兄弟は直家に暗殺の成功を報告。
まだその時は家親の死が公表されてなかったため、直家は最初信じなかったという。

三村軍が成羽に帰陣して家親の死が公表されると、
遠藤兄弟の兄・又次郎は浮田姓を与えられ、直家の偏諱まで受けて
(浮田家久と改名)褒章された。


一方の三村さんちは、当然このままでは気が済まない。
家親の弟・親成が必死に家中を収めるべく説得にあたるが、
一族の三村五郎兵衛らは100騎程度の軍勢を率いて、家親の弔い合戦に
沼城に攻め込んでいったが、直家の返り討ちにあい五郎兵衛以下ことごとく討死した。

家親の長男の元祐は猿掛城に養子に行っていたので、二男の元親が三村の家督を継いだ。
元親は親の仇・宇喜多直家を倒すべく、国内を固め備前の勢力にも根回しをし、
準備を整えていった。

直家もそんな事はもちろんわかってる。
そこで、明禅寺山に出城を築いて沼城の前衛とし、来るべき三村氏との
合戦に備えた。

そして永禄10年(1567)三村軍が備前に出陣、明禅寺合戦が始まった。

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最終更新日  2012年04月07日 22時19分31秒


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