戦国ジジイ・りりのブログ

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2012年04月29日
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カテゴリ: 城(中国)
鉄門の石垣の上に立って、ありし日の櫓門を想像したり

後から上がってきたお姉ちゃんが鉄門に着くなりデカい声で

「あ~!お城が建ってるう~!!」

と叫んだので、大爆笑をこらえるのが大変だった。
城に来て、「城が建ってる」とはこれいかに。


この鉄門の脇には、松山城の沿革を記した解説板がある。
備中兵乱のところまでは大体書いたので、関ヶ原以降の部分だけ引用しようかな。

 【関ヶ原の合戦後、全国の実権をほぼ掌握した徳川家康は、毛利領の中で最も東にある
  備中松山城に国奉行として小堀正次・政一(遠州)父子を赴かせた。

  備中松山城の修築を行っている。その後、政一は所管常陸下館から成羽を経て、
  寛永19年(1642)、水谷勝隆が入城する。

  水谷氏は、勝隆、勝宗、勝美の三代が備中松山藩を治めている。初代の勝隆により
  玉島新田の開拓や高瀬舟による高梁川水路の開発など、主に経済基盤が整備され、
  県下三大祭りとして有名な「備中松山踊り」もこの頃に始まっている。

  さらに2代の勝宗は、天和元年(1681)から3年にかけて備中松山城の大改修を
  行い、現存する天守や二重櫓、その他の櫓、大手門、二の丸櫓門、搦手門など
  全容が完成している。

  しかし、3代の勝美が若くして急逝、跡継ぎがなかったため水谷氏は改易と
  なっている。
  元禄6年(1693)水谷氏断絶後、播州赤穂藩主浅野内匠頭長矩が城の受け取りに


  その後安藤重博・同信友次いで正徳元年(1711)に石川総慶が城主となり、
  延享元年(1744)に石川氏に代わって伊勢国亀山(現三重県亀山市)から
  板倉勝澄が入城する。板倉氏はその後、勝武・勝従・勝政・勝おき・勝職・勝静・
  勝弼と7代続き廃藩置県を迎える。】

※板倉「かつおき」さんは、漢字が環境依存文字(←楽天ブログでは使えない)なので



明治の廃城令の際には、

「壊すにはカネもかかるし、どうせ山の中じゃからわからんじゃろう」

と壊したって報告だけはしといて、山上の城郭は放置されて荒れ放題・・・
猿の城にまでなっていたなんて話もある。
本丸には、天守と二重櫓だけがかろうじて残っているような状況だったと。


手元にある昭和初期の天守の写真を見ると、
白黒だし木に覆われててはっきりとはわからないが、
まさに廃屋。
よくこれで残ったもんだ、って思うね。

昭和3年になって二重櫓・土塀の修理からスタートし、
その後、松山城保存会が生まれ、昭和12年二重櫓・土塀の一部が修復された。

松山城復興のムードはさらに高まり、昭和14年には当時の高梁町長が
町財政の大半を投入して、天守の解体修理や二重櫓・土塀の補修にまで
漕ぎつけたという。

今ののん気な時代からすると、
「よくやった、町長!」
って気軽に言いたくなるけど、昭和14年って1939年・・・
第二次世界大戦の勃発した年ですよ。

結構、これって大変な事だったんじゃないのかな~。

時代が下って、平成6年には本丸跡の本格的な復元工事が始められ、
五と六の平櫓、土塀、南御門などが復元されて現在の姿に整えられたという。




二の丸から本丸へは、手前側の石段を上がっていく。
五の平櫓に設けられた石落としから狙われないように気をつけて、っと(笑)。


備中松山城・本丸2


備中松山城・本丸3


狭い石段を上がっていくと、そこが受付。
これより有料。

受付のすぐ前は、五の平櫓と六の平櫓の間にある本丸南御門。
古写真や発掘調査の結果を元に復元されたもの。


もらった「備中松山城」ってリーフレットには、南御門について

 【木造本瓦葺き、棟門、開き戸。復元された五の平櫓と六の平櫓の間にあり、
  本丸の正面玄関にあたる。大手門についで格式が高かったといわれる。】

って書いてあるんだけど・・・
どうもこれ、納得がいかない。

棟門(むねもん)ってのは城門の形式の一種ね。

通常、ちゃんとした門には下の写真のように、
門の基礎となる柱(鏡柱)の他に、背面にもう1本支えの柱(控柱)を立てて、
安定性を高める工夫がされてる。
(下の写真でいうと、手前側の柱が控柱になります)

大津・和田神社の移築門
        (膳所藩の藩校・遵義堂の移築門)

ところが、棟門ってのは2本の立った鏡柱に冠木を通して、
その上にポンと屋根を置いただけの簡素な造り。

支えがなくて不安定だから、石垣に挟まれた狭い通路などにしか
使われない門だった。

それが、大手門に次いで格式が高い?
大手を引き合いに出してるってことは、本丸に限定された話でもないみたいだし、
門の形式だけでいうなら、櫓門が一番格が高いって勉強したけど。

なら、二の櫓門の方が格が高いんじゃ・・・

「本丸の正門」としての部分を評価したのかもしれないけど、
なんかしっくりこないんだよなあ。

まあ、そうは言っても徳川政権が安定してからの天守なんて
どうせ贅沢な空き家だったんだし、まして山上と山麓に城の機能が分かれていた松山城に

「略式の門で格が高いって、おかしくね?」

な~んて突っ込んでみたところで、大した意味もないものだとは
わかってるけどさ



さて、本丸入口は見ての通り、階段は細いし、南御門前は超ミニマムなスペース。
寄せ手は一度に大勢は上がれない。
狭すぎて、大筒も使えそうにないしな・・・

それでは、南御門をくぐって、本丸へ侵入~

備中松山城・本丸4


五の平櫓(向かって右)と六の平櫓(同左)は、いずれも復元されたもの。
六の平櫓の内部はちょっとした資料館になっている。

ビデオコーナーがあったけど、椅子が埋まってたので
終わるまで内部や展示品をじろじろ見て回る。
こんな絵図もあるし。

備中松山城・本丸7


う~ん、いつの時代のかわからないけど、
小松山部分だけ描かれた絵みたいだな。

手前の山麓に描かれてるのが、御根小屋ね。
三村氏もここに居館を置いていたといわれているが、
具体的な構造などについてはわかっていない。


六の平櫓はそう広くはないけど、内部は結構きちんと造ってある。

備中松山城・本丸8


人がいなくなったところで休憩がてらビデオを見て、
外に出たらこんなものがあった。

備中松山城・本丸9



へ~え、備中宇治茶・・・
せっかくなので、ありがたく頂く。
細やかな気配りが嬉しいのぉ・・・


六の平櫓を出ると、向かって左側へと続く土塀が目に入る。

備中松山城・本丸10

土塀沿いに一段下がった隅っちょが、七の平櫓跡。
復元図とか復元模型とかを見ると、六の平櫓と七の平櫓は
渡り廊下か多門櫓かでつながってるように描かれてるものもあるから、
昔はつながってたのかもしれない。

今は下の写真の通り、七の平櫓は「跡」だけだから、
建物部分は六の平櫓で切れちゃってるけど。

備中松山城・本丸11


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最終更新日  2012年04月29日 19時08分43秒


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