戦国ジジイ・りりのブログ

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2012年06月20日
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カテゴリ: 旅日記(近畿)
微妙寺を出て、勧学院へ向かう途中で地図を見てたら、

「天台寺門宗宗務本所」って書いてある・・・

寺門宗かあ~。
歴史は今も続いている・・・


そして来たのが、第2のお目当て、「勧学院」。

勧学院

ここには、入れません。
要予約で3名様以上の場合にのみ、拝観が許されます。


入れないのに何で来たかってゆーと、
ここは毛利輝元が建てたんですよ・・・
それだけのことなの。アハハハ!



建てたといっても、あたらしく「勧学院」というものを作った訳じゃない。
元は、学問所として正和元年(1312)に創立されたという。


余談だけど、「勧学院」ってのは、平安時代に藤原冬嗣が作った
藤原氏の子弟のための、大学の寄宿舎の名前。

オリジナルの勧学院は、鎌倉頃にはなくなったみたいだけど、
勧学院の名称を自分のとこの僧侶養成機関名に拝借した大寺院なんかもあるようなので、
ここ園城寺の勧学院も、同じように藤原さんちのものを頂いた名称かもしれない。


それで、なんでいきなり輝元が出てくるのかといえば、




文禄4年(1595)、太閤殿下が園城寺に突然闕所(けっしょ)を申し渡す。

どうも殿下を怒らせちゃったみたいなんだけど、
一体何に殿下がキレたのかは諸説あってよくわかりません。

闕所は欠所とも書き、平たく言えば営業停止命令が出されたってこと。

建物は移築され、御本尊や宝物の類もよそへ移された。

延暦寺転法輪堂として今も現存している。

移築されなかった堂宇などは、ことごとく破壊されたという。



園城寺の苦難は、実は 「大津編(9)」 に書いた山門からの攻撃、
そしてこの文禄の闕所だけじゃない。


建武3年(1336)、足利寄りだった園城寺は、新田義貞とまたまた叡山の僧兵によって、
壊滅的な焼き討ちにあっている。

「太平記」には、

 【三井寺の衆徒ども、あるいは金堂に走り入って、猛火の中に腹を切つて伏し、
  あるいは聖教を抱いて幽谷に倒れまろぶ・・・
  されば半日ばかりの合戦に、大津、松本、三井寺の中に討ち倒れたる敵を数ふるに、
  七千三百余人なり】

との記述がある。

それでもその都度寺を立て直し、復興した歴史を持つ園城寺は
別名「不死鳥の寺」とも呼ばれる。


で、この闕所にあたっても、不死鳥の名にふさわしく、
寺の復興に奔走した人たちがいた。

そのうちの一人が、山岡道阿弥。
瀬田城と瀬田の唐橋の回で出てきた、山岡景隆さんの弟です。
道阿弥さんについてはあとで触れる機会もあるかと思いますので、
ひとまず置いといて・・・

いまひとりが、准三宮道澄(じゅさんぐう・どうちょう)。
この方は、あの近衞前久(さきひさ)さんの弟にあたります。


寺が廃業となれば、当然坊様たちはプー太郎・・・いえ、失業の憂き目にあう。
園城寺ともなればその数は相当なもので、
道澄さんはこの人達を引き取ったんだそうな。

やっぱり、実家のバックがあってのことでしょうかねえ・・・

その上で、殿下に対して熱心に赦免運動を起こす。

道澄さんて人は、豊臣政権が安定してからは
政治・文化・宗教などの様々な面におけるサポート役として
殿下に伺候してたみたいなんだよね。

殿下の信頼もかなり篤かったようで、大坂の陣のきっかけの舞台になったといわれる
方広寺、ここの初代住職に任命されたりもしている。

闕所の命が下りた時には、すでに道澄さんは引退してたみたいなんだけど、
園城寺の危機にいてもたってもいられなくなり、
勇ましく立ちあがった


頑張った甲斐があって、慶長3年(1598)8月には
五大老の連名による再興の許可を勝ちとる。

ついには殿下も折れ、死ぬ前日に北政所に園城寺再興を許可する遺言を
残したという。
一説には、自らの死期を悟った殿下が園城寺の祟りを恐れたためだとも・・・


何であれ、許可は下りた。
道澄さんは自らが中心となって寺の再興を進めた。

「大津編(12)」 の、1600年以降の寄進の数々を見て下さい。
みんながあれこれ寄進して、寺の復興は順調に進んでいった。

一度まっさらになった所に、色々持ち寄った結果、
ここは戦国末期の建物群を擁する一大戦国パークへと生まれ変わった(笑)。

いえ、実際にはもう少し古い建物も含まれてるんですが・・・
そして、この時の貴重な建築物が、今も大切に引き継がれている。



で、勧学院に戻りましょうか。
入れないので、覗くだけね(笑)。


勧学院2

 【国宝 建造物 園城寺勧学院客殿 一棟

  勧学院客殿は、桁行七間、梁間七間、一重入母屋造、妻入で東正面に軒唐破風を付け、
  また桁行一間、梁間一間、一重、切妻造の中門を設けた総柿(こけら)葺の建物で、
  光浄院客殿と外観はほとんど同じですが、規模はやや大きく、内部は光浄院が二列から
  なるのに対して三列の九室からなっています。

  この客殿は慶長5年(1600)に建てられたもので、主室の一の間には正面に大きな
  床をとり、その北隣の室に床と附書院を設けています。
  内部の壁や襖は華やかな障壁画によって彩られています。また、長押(なげし)や
  扉に打たれた金具もよく時代的な特徴を持つなど、桃山時代の書院造として
  貴重なものです。

  昭和27年11月に国宝に指定されました。】
  (現地解説板より。一部漢数字は戦国ジジイが変換)


輝元のテルの字も出てきませんが(笑)、
障壁画は狩野光信を中心とする狩野派の作品です。


輝元が奉行に任命されたいきさつはよくわからないけど、
元々毛利さんちと道澄さんは縁が深かった。

道澄さんの兄・近衛前久さんは上杉謙信のところとか、
あちこちに顔を出してますが、道澄さんも一緒にいたんだと。

そして毛利さんちでは、尼子氏との調停において、
道澄さんに色々お世話になったらしい。

調停だけじゃなく、天正16年(1588)に輝元が上洛した折には、
道澄さんに大層もてなされ、8月の聚楽第での歌会にも一緒に出席している。

その後の10月に開かれた道澄さん主催の歌会にも、
輝元は招かれて園城寺を案内されたと。


そんな縁もあってか、勧学院だけじゃなく園城寺の復興に
輝元は尽力した。
個人的には、あまり喜べない部分もあるんだけど、
それはまた後で。

次へ向かう途中で見た、勧学院の石垣。


勧学院の石垣


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最終更新日  2012年06月20日 21時11分46秒


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