戦国ジジイ・りりのブログ

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2012年07月04日
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カテゴリ: 旅日記(近畿)
明秀のやり方を見習って、頼政軍の兵たちが橋を渡り始めたので、
宇治橋の上では激戦が繰り広げられた。

平家方の侍大将・上総守忠清が

「五月雨の時期で水かさも増して危ないので、
ここはひとつ、回り道を・・」


と進言したところ、若干17歳の若造・足利忠綱が

「回り道なんかして、中国やインドの兵を集めて
送るつもりげー!!」
(←栃木弁)

と生意気に猛反対。

この足利忠綱の10代前の先祖は、俵藤太秀郷。
この後の名乗りを見る限り、無位無官だったらしい。


ガンガン演説できたのかは謎だが、とにかく忠綱は
利根川を馬筏で渡した例などを滔々と語った上で、自ら馬を川に乗り入れた。
忠綱に続いた兵は、300騎。

馬筏を渡す時の、忠綱のセリフが細々しててまたすごい。
侍大将に意見した時のセリフも長かったけど、ここも長い(笑)。
で、どんな風に渡したかっていうと、

 「強い馬を上手(かみて)に立てよ。弱い馬を下手(しもて)にせよ。
  馬の足の立つ間は、手綱をゆるめて歩かせよ。
  馬が躍り上がったら手綱を操り(くり)引きしめて泳がせよ。
  流されて列から下がるような者は、弓の筈に取りつかせろ。

  手を取り組み、肩を並べて渡すようにしろ。

  馬の頭が水中に沈んだら、引き上げてやれ。
  強く引いて自分が馬の頭をひっかぶるようにするな。

  深くなって水が浸ってきたら、馬の三頭(さんず)の上に乗りかかれ。
  馬にはやさしく当たり、水には強く当たるようにしろ。
  川の中で弓を引くな。


  だがあんまり傾けすぎて、甲のてっぺんを射られるな。
  流れと直角に渡して押し流されるな。
  水に逆らわないで渡せ、渡せ」
  (現代語訳:小学館「日本古典文学全集 平家物語」より)


・・・とまあ、実に細やかな指導の甲斐あって、1騎たりとも流されず、
300騎は対岸へと渡った。


平家と頼政の戦いなんて、どっちも大好きな私としては
どちらを応援するか悩むところだけど(笑)、とりあえずここでは頼政かな。

て事で忠綱は敵になりますが、敵ながらあっぱれといったところでしょうか。

ちなみに、この時の忠綱の装いは、赤革縅の鎧に鹿のツノのついた兜を
かぶっていたとゆー描写なので、大坂の陣で家康をあと一歩のところまで
追い詰めながら、惜しくも散っていった戦国きっての人気者のことを
つい連想してしまいますね~(笑)。


この様子を見ていた大将軍・平知盛は、

「よっしゃあ~~~!!」

と続けて大軍を渡し、 「大津編(26)」 の頼政一族の滅亡へと
つながっていきます・・・


でもね、すべて根絶やしって訳じゃなく、
頼政の子孫に有名人っていっぱいいるの。

まずは、太田道灌さん。
これは頼政の末子・広綱の系統。
だから当然、三楽斎資正も頼政の子孫にあたるんだよ~。

それから、「知恵伊豆」松平伊豆守信綱さん。
この人は兼綱の系統。ただ、兼綱は養子だったみたいだけど、
頼政の弟の子でもあるので、頼政の甥の子孫ということになる。

あ~と~、馬場信春!
馬場氏は頼政のパパ・仲政を祖とする家系らしいんだけど、
なら頼政の弟の系統ってことかな・・・
まあ、馬場氏の出自については諸説あるみたいだけど。


頼政の弟の系統ということで言うなら、池田恒興・輝政の池田氏も
そうらしい。
なんでも、頼政の弟の泰政の系統だって自称してるみたいなんだけど・・・

でも輝政は美濃池田氏だからな~。
頼政は摂津源氏の出だから、摂津池田氏ってんならまだわかるけど


そして私が一番驚いたのは、下間(しもつま)氏

はい~、本願寺顕如さんのもとで活躍した下間三家老などを出した、
あの下間氏です。

下間氏の祖は、頼政の孫の孫だと自称してるらしいんですね~。
頼政の嫡子・仲綱の系統にあたるみたいだな。

孫の孫だという源宗重は、一族で頼政の孫にあたる源頼茂が
謀反の疑いをかけられて討たれた際、連座して処刑される事になってしまった。
その時、通りすがりの親鸞が親切にも命乞いをしてくれたので、
親鸞が宗重を出家させるという条件で助命されたという。

出家した宗重は親鸞の弟子となり、本願寺に根を下ろしたとされている。


まだ他にも頼政の子孫を名乗る家系はあるんだけど、
ひとまず私が知ってる人だけ紹介しました。

まあ、どなた様もあくまで自称だから、
どこからどこまでが本当かわからないけどね。

頼政の挙兵はあっけなく終わってしまったけど、
これが流れを変えたことは確実だし、文武両道で
ヌエ退治の武勇伝も持ち、源氏で初めての公卿昇進とかってあたり、
俵藤太秀郷と同じように、家系にハクを付けるのにふさわしい対象と
見られてたってことかな。


戦いののち、頼政の子の首はみんな探しだされたが、
頼政の首だけは見つからなかった。
そうしたことから、実は家臣が首を持って落ち延びたとかいう伝説があり、
頼政の首を祀るとしている場所は平等院から離れた場所にいくつかあります。


以仁王はどうなったかって?

宮は、30騎ばかりの共と奈良へ落ちて行く途中で
討ち取られました。

お供も宮に殉じたんだけど、その中のひとり、
宮の乳兄弟にあたる六条大夫宗信という人が怖くなって池の中に隠れていると、
追手が戻ってくるのが見えた。

平家方の兵士がかついでいた宮の首のない死体には、
長谷部信連がわざわざ届けてあげた例の 「小枝」 が腰にささっていたという。


宮の目的地、南都興福寺では武装して宮のお迎えに向かっていたところだったのに、
あとちょっとって所で宮が討たれてしまったので、引き返したとある。


以仁王の子のうち、若宮は出家させられた。
そのうちの一人、長男の北陸宮(ほくろくのみや)は乳母の夫に連れられ、
越前に逃れた。

そしてのちに木曽義仲が北陸宮を奉じて上洛することになる。
なんとも複雑な運命の糸よ・・・


義仲のこの動きに対抗しようとした源頼朝が、以仁王は生きているという
噂を流させたせいか、以仁王の生存伝説はいくつかある。

頼政にもその後の伝説は色々あるんだけど、頼政の場合は生存説じゃなく、
あくまで首にまつわる伝説。
なんでやねん・・・

で、ここ宇治川には、頼政の怨霊がホタルになって
合戦を繰り広げるという伝説があるそうな。



一方、馬筏を渡して一躍名を挙げた足利忠綱は、その後色々あった末に
後年、政治的に孤立することになり、秀郷流足利氏は忠綱の代で滅亡を迎える。

戦国時代も過酷だけど、この時代も大変だよね~。
特に鎌倉の御家人なんか・・・

余談ですが、「吾妻鏡」では忠綱のことを、

 その歯一寸なり

といっている。
一寸て、大体3センチくらい?
前歯が3センチもあったら、口閉じられなくない・・・


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最終更新日  2014年03月20日 21時44分22秒


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