戦国ジジイ・りりのブログ

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2012年07月11日
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カテゴリ: 城(中国)
新しい藩庁は、元治元年(1864)5月に着工、10月までには
おおむね完成した。

藩庁が築かれたのは、一露山のふもと。
御殿は萩から移築された。

すぐ近くには、対毛利対策として大内義長が築造した高嶺城が山上にあり、
ここを詰城としたって話だから、山麓の居館みたいな感じだったのかな。

今は一般的に「山口城」って言われるけど、
当の毛利氏は城とは言わず、あくまで「山口屋形」「山口政庁」と
称していたそうな。



資材やら労力やらが提供され、すすんで地元から協力がなされたという。

だから~、みんな嬉しかったんだよ。
いや、世の中はそんな悠長な時代じゃないし、幕末の長州藩ったら
とにかく過激で有名だからね。

でも、長く不遇をかこっていた山口付近の一般市民にとっては、
活気を取り戻したのが何より嬉しくって、協力を惜しまなかったんじゃないのかな~と
私は思う。




話は前後しますが、文久3年(1863)5月10日。
この日は、14代将軍・徳川家茂が孝明天皇に攘夷の実行を
約束させられた日だった。

Xデーに先立って関門海峡を封鎖していた長州藩では、

砲撃した砲台は、 「赤間ヶ関編(4)」 を、
カノン砲は 「赤間ヶ関編(28)」 を見てね~。

これで長州藩を始めとする尊王攘夷派はチョ~盛り上がったものの、

追い落とされてからは、失速。

都落ちした七卿のうち五卿は、山口の湯田に迎えられた。

毛利藩主親子の赦免を求めた禁門の変が裏目に出て、
朝敵とされてしまった長州藩では、
保守派が立場を盛り返し、恭順の方向で藩論がまとまった。


そして、第一次長州征討。

朝敵・長州藩への征討軍の参謀・西郷(せご)どんが出した
撤兵の条件は、

 ・禁門の変の責任者(三家老)の切腹
 ・都落ちしてた五卿の追放
 ・山口城の破却

出陣より少し前に、勝麟太郎(海舟)先生と会談した西郷どんは、
長州への強硬手段は得策ではないと判断していた。
その上、征討総督の徳川慶勝から長州の処遇を一任されていたから
これだけの処分で済んだみたいなんだけどね。

これを受け入れて城の一部を破却し、一旦は敬親親子は萩へ戻った。

この時点で新しい藩庁はほぼ出来上がっていたが、
破却命令に対し、瓦3枚をはいだだけで

「こわしたよ」

ってエピソードがあるらしい・・・



この後、亡命していた高杉晋作が帰藩、奇兵隊が下関に挙兵するなど
正義派と呼ばれた革新派が再び政権を握ると、藩論は一気に倒幕へ。
元治2年2月、藩庁も山口へ戻された。

工事が中止されていた藩庁新館も完成し、慶応2年(1866)頃には
敬親が新しい御殿に移り住んで政事堂で政務を執るようになった。


慶応2年6月の第二次長州征討では、この日のために薩長同盟とか
いろんな下準備をしていたこともあって、幕府軍を打ち破った。

萩にいたまんまじゃ、ちょっと厳しかったかもしれないけどね。
なんたって山口は、防長のど真ん中にあたる場所だから。


慶応3年(1867)2月、敬親はあらためて山口を藩の本拠とすることを宣言。
大政奉還・廃藩置県などを経て、山口は県都としての地位を保ったまま
現在へと至る。



オマエは一体何の話をしてるんだ?

ってお叱りの声が聞こえてきそうだけど、
西国の都としての山口と、近代に入って再び防長の中心となるまでの
山口の歴史、これをつなぐのが山口城だった。

私は城を見るにも、遺構だとかのビジュアルより歴史重視派だしさ。
とくに山口城なんかは、普通に訪城記だとかを読むだけじゃ、
ここが色んな意味でどんな役割を果たしたのかなんて全然見えてこない。

ま、幕末の長州なんて激動の時代もいいとこだしね、
私の知らない沢山の話ももっとあると思うけど、
ひとまず山口城の歴史的意義の概略だけ書かせていただきました。



日本史に関する薄い知識の中で、幕末は比較的馴染みがある方だけど、
私の場合はあくまで龍馬さんを中心にした歴史。

だから、幕末といっても長州についてはほとんど知らなかったし、

『そうせい候』ね~」

ぐらいにしか思ってなかった(すいません)。

知らない人のために一応書きますと、「そうせい候」ってのは
毛利敬親のあだ名。

家臣の意見に異を唱えることなく、「うん、そうせい」と返事してたので
このあだ名がついたっていうんだけど・・・

こうしてあらためて敬親のことを見てみると、
結構すごい人じゃないてちょっと、いやだいぶ見直した。


長山城跡( 「長山城」 を見てね)に敬親の銅像があるちゃんとした理由は
知らないけど、都市としての機能を回復させてくれた敬親への
感謝が根底にあるんじゃないかな~って私は思うんだよね。

「山口の恩人、敬親様!!」

みたいな。
「山口中興の祖」って言ってもいいかもしんない(笑)。



さて、外観に戻りましょうか。
門前には石碑が立つ。

山口城・藩庁門2


山口城・藩庁門3


デコラティブな意匠なんかはほとんどなくて、武骨な印象は否めないけど
脇門・土塀まで含めて本瓦葺の重厚な門。


山口城・藩庁門4

ん・・・土塀の屋根に載ってる、アレは・・・


山口城・藩庁門5


山口城・藩庁門6



打出の小槌じゃん!

屋根のこーゆー場所に載るのは大抵、獅子とか花とか・・・
先月の三井寺では、桃が載ってたな。

これを選んだのは、それなりの理由がきっとあるんだよねえ~。
そもそも、打出の小槌ってなんだっけ・・・
一寸法師がデカくなったやつだっけ?

う~ん・・・
高杉晋作とか久坂玄瑞とかが

「ジョ~イ、ジョ~イ(←攘夷)」

って念じながら小槌を振ってる姿なんか想像してみたけど、
正義派の指導者たちなら神仏に頼らず、自力でやり遂げるだろうしな・・・


あ、でも100%自力って訳でもなく、藩では下関の亀山八幡宮に
攘夷祈願をしてるし、その後はお礼に剣馬を奉納したりなんかもしてるけどね。


※「山口編(2)」へと続きます。

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最終更新日  2012年07月11日 20時41分43秒


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