戦国ジジイ・りりのブログ

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2012年07月14日
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カテゴリ: 旅日記(中国)
ボダイジュの後ろには、これがある。


山口・洞春寺観音堂

 【重要文化財 洞春寺観音堂

  この観音堂は、永享2年(1430)大内持盛を開基とする滝の観音寺の仏殿として
  創建されたものであるが、大正4年にこの洞春寺の境内に移されたものである。

  桁行三間、梁間三間、一重もこし付き、入母屋造り、こけら葺(昭和25年の
  解体修理の際、銅板葺に変更)の唐様の建物で、正面に桟唐戸、左右に花頭窓があり、
  外部下層の?のない化粧板軒は、全国的にも例が少なく珍しいものである。

  上層の化粧垂木は大疎?(おおまばらだるき)であるが、これは下層の板軒に対し、

  絵様などに見るべきものがある。

  床は唐様の四半敷瓦である。岩屋造り厨子は当時のままのもので、本尊は
  聖観音菩薩である。】
  (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)


ふ~む・・・
いろんな面で、現在は三井寺にある一切経蔵と似た造りだな~と思ったね。


大津・三井寺・一切経堂3
     (三井寺・一切経蔵)


もちろん、細部は違う点も沢山あるけどね。
一切経蔵の建築年代がはっきりわかってないことは
「大津編(17)」 に書いた通りだけど、かなり特色があるので、


解体修理で屋根は銅板葺に変えられたって書いてあるけど、
一切経蔵の写真と並べてみると、もとの姿もイメージしやすいよな。

まあ、一切経蔵は檜皮葺、観音堂はこけら葺って違いはあるけど、
ぱっと見檜皮もこけらも似たようなもんだし(笑)。



この辺で、いちおう大内さんちの主な系図を載せておきましょうかね。

山口に本拠を移動してからの分だけね。


大内家系図2

モノによっては、若干の相違があるんだけど、
大内家歴代としてはこれが一般的な系図。
カッコ内の数字が当主の順番です。


大内さんちってのは、当時の守護大名家の例にもれず、
お家の内紛も多くってね。
特に、家督を継ぐ段での争いが結構あったんだな。

で、永享3年(1431)に盛見が筑前で討死した後も、やっぱり家督争いが起こった。

対立したのは、義弘の遺児・持世と持盛。
結局持盛は永享5年(1433)に敗死して持世が後を継ぐんだけど、
この観音堂が建てられたのは永享2年(1430)だから、
まだ盛見が生きてる時。

観音堂のあった「滝の観音寺」は高嶺のあたりにあったお寺らしく
(現在の山口市上宇野令付近)、京都南禅寺の住職なども務めた
竜岡玄珠(りゅうこうげんしゅ)を迎えて持盛が開いたといわれている。

持盛の死後は、持盛の菩提寺となったが、のちに観音寺は
勝音寺と改められた。

江戸時代に入り、勝音寺は毛利煕元(元就の曽祖父)の菩提所・
大通院へと改められ、堂宇は毛利家の庇護を受けたが、
明治に入って大通院は廃寺となり、荒れるにまかせていたのを、
当時の洞春寺の御住職が呼びかけて寄附を募り、ここへ移築されるに
至ったという。



この時ね~、恥ずかしながら、あまり観音堂について
詳しく調べてなかった

それで、写真の通りお堂の入り口が開けられてたので
当然中を覗いたら、中にいくつか木像があったんだな、確か。

でも中は薄暗かったし、なんか写真を撮っちゃいけないような気がして、
内部は撮らなかった。

ところが、後から知ったんだけど、どうやらこの観音堂は
普段は閉まってるらしい。
この時は偶然にも、山口国体のおかげで特別御開帳の時だったみたいでえ~・・・

それを知ってたら、写真撮ったのに・・・
ああ、大失敗
事前の下調べがいかに重要かってのが、身に染みました。


てことで、写真がないので1年近く経った今では記憶も定かではないけど、
たぶん中にいたのは大内義弘・盛見・持盛とあと観音寺の開基・
竜岡玄珠の木像。

まあ、これらの像には北九州市での大内氏の企画展で会ってるけどさ
( 「赤間ヶ関編(40)」 を見てね)。
明るい展示室で、間近に見られたからいいんだけどさ。
企画展示室は撮影禁止だったけどね

観音堂の御開帳も知らなかったし、
「大内文化と北九州」展を知ったのもホントに偶然だったし、
そう考えると結構私ってツイてるよな
ってちょっと自分を慰めてみる。



観音堂の調べがおろそかになったのは、
ここでのメインが他にあったからなんです。

ひとつは盛見の山門。
あとふたつがまだ・・・
ってんで、墓地の方へ。


山口・洞春寺・盛見の墓3

 【大内盛見の墓

  大内盛見は義弘の弟で、義弘の死後大内氏26代の当主となった。周防・長門・豊前・
  筑前の4州の守護職となり、また、大陸とも交易を行い大陸色豊かな大内文化興隆の
  素地をつくった。

  応永11年(1404)盛見は今の洞春寺の地に国清寺を創建して、天下太平の祈願所と
  先祖代々の菩提を弔うところとした。盛見は永享3年(1431)筑前で戦死したので、
  この国清寺を菩提寺として、この地に葬った。

  この墓は無縫塔(むほうとう)という形式の墓であるが、室町中期の特色がよく
  残っていて貴重である。右側に並んでいるのは、国清寺透関慶頴(とうかんけいひん)
  の墓である。

  なお、国清寺は毛利氏が防長に移封に伴い、毛利隆元の菩提寺として、常栄寺となり、
  さらに明治初年毛利元就の菩提寺洞春寺になって、現在に及んでいる。】
  (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)


これです、これ!
盛見の墓~!!

盛見の墓といわれているものは、現在の福岡県粕屋町にもあるので、
どちらが本墓かはわからないけど、いちおう国清寺に葬られたことに
なってるみたい。


そして盛見の墓の向かいには、もうひとつのお目当てが。


山口・洞春寺・国清寺一切経蔵の礎石2

 【国清寺一切経蔵の礎石

  この礎石は、国清寺の経蔵の内部にあった八角輪蔵の中心柱の礎石です。安山岩の
  自然石で、中央が深く盃状に削られ、穴の端から中央部に向けてY字形に溝が
  刻まれています。

  現在の洞春寺の境内には、もともと大内氏第26代当主大内盛見の菩提寺である
  国清寺が建立されていました。この礎石があった場所にはその国清寺の経蔵が
  建てられ、大内氏によって高麗版一切経が保管されていましたが、慶長7年(1602)に
  毛利輝元により園城寺(滋賀県大津市の三井寺)に寄進されました。

  礎石は昭和15年(1940)に、この地を開懇している時に発見されたもので、
  発見場所が古くから経蔵跡と呼ばれていたことや、昭和4年(1929)に園城寺の経蔵の
  天井裏板から発見された墨書から、この経蔵の輪蔵の礎石であると考えられます。

  このようなことから、礎石は国清寺の経蔵がここに所在したことを物語る貴重な
  歴史資料です。なお、滋賀県大津市の園城寺にある経蔵は、国指定重要文化財と
  なっています。】
  (現地解説板より) 


はい~、三井寺でしつこく書いた一切経蔵、あの礎石がこれです
( 「大津編(17)」 ~(19)までを見てね)

ここは今は、墓地になってます。
解説にはただ「開懇」ってあるけど、墓地用地として
整地してた時に・・・だったのかな?(笑)

そうかあ、この場所にあったのかあ~って
まったり萌え~するにはちょっとはばかられる場所だけど・・・
(でもした)

洞春寺の本堂は、江戸時代に一度焼失しちゃってるらしいので、
礎石のある場所は本堂のすぐ隣って訳でもないけど、
運が悪かったらこの場所まで火が移ってたかもしれない。

そう考えると、やっぱり天下統一後の三井寺に移されたことで
破壊を免れた、幸運な建物なのかもしれないな~なんて思った。

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最終更新日  2012年07月15日 00時43分43秒
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