戦国ジジイ・りりのブログ

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2012年07月16日
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カテゴリ: 旅日記(中国)
毛利家墓所から奥へ行く途中には、忠魂碑があった。

山口・香山墓所11

忠魂碑は、生きてる人達の思いの詰まった場所。
亡くなった方と、生き残った方々への敬意を込めて
手を合わせてから先へ進む。

この先では、次のスポットが私を待っているのだ
それが、瑠璃光寺(場所は こちら )。


寺の入り口にはこの方。


山口・瑠璃光寺・大内弘世公像4



山口・瑠璃光寺・大内弘世公像2

山口の町を開いたと言われ、「山口中興の祖」とも呼ばれる
大内家第24代当主、弘世(ひろよ)さんで~す



「大津編(17)」 にちょろりと書いたように、
大内氏は百済の王子・琳聖(りんしょう)太子の子孫を自称した。

琳聖太子が来日して、周防国多々良浜に上陸したことから本姓を「多々良」とし、
後に大内村に引っ越したことから大内を名字にしたという。
なので、歴代当主の正式な文書には「多々良朝臣」と署名されている。


出自における伝説の真偽は不明だが、文献上で確認できる大内氏は
周防国衙(現在の防府市)に勤める在庁官人であったらしい。


国司という役人を都から派遣して地方を治め、国司が政務を執った役所を国衙、
国衙のある地域を国府といったもの。


2000年の発掘調査で、周防国衙から「達良君(たたらのきみ)」と書かれた木簡が出土。
8世紀頃のものと推定され、これが文献で確認できる大内氏の最古の記録。

余談だけど、「防府(ほうふ)」の地名は、


今でいう地方公務員だった大内さんちは、
もとは現在の山口市中心部よりもう少し東南の大内村に代々住んでいた。
国衙への通勤に良かったみたいでね。



さて、南北朝時代に登場するのが、ひろよん(弘世)。
最初はパパと一緒に北朝についてたが、後に南朝に転じて周防守護を授かった。

家督を継いで、長門守護であった厚東(ことう)氏を倒してからは、
長門守護にもなった。
防長2国の守護となったひろよんは、それまでの大内村から
山口に本拠を移したといわれる。

地方公務員から守護大名への華麗なる転身・・・
くわえて、栄転にあわせてのお引っ越し。
もう、あくせく通勤する必要もないんだもんね


引っ越しの時期だとか、当初の町づくりに関してはあまりはっきりとは
わかってないんだけど、今のところは延文5年(1360)頃とされている。

この延文5年ってのは、「山口古図」という絵図にそう書いてある事から
持ってきてる。

「山口古図」は、江戸時代に作成されたと思われる原図を明治時代に模写した
絵図なんだけど、これ以外に町の成立を記した文献が見つかっていないので
とりあえずこれを信じるしかないよね~というのが現状らしい。


CIMG0318
       (山口古図)


「山口古図」の原本は山口文書館の所蔵だけど、
これの復刻版が売られていたので迷わず買ったものが上の写真。

この左隅に色々文章が書きこんであるんだけど、字が読めない部分もある。
けどまあ、京にならって町割りをしたとか、四神相応の地だとか、
京の古例にならって東西南北の山麓に法華経を埋めて鎮護を祈ったとか、
てカンジのことが書いてある。



で、その後、防長守護の安堵を条件にふたたび北朝に戻ったひろよんは
石見守護にも任じられるが、後年、安芸の毛利氏にちょっかい出して
石見守護職は剥奪される。

大ざっぱに言ってこんな経歴のひろよんは、
その後の大内氏繁栄の基礎を築いた方であります。



この旅では、現地の古本屋さんとかには寄らなかったけど、
お目当てのスポットに大内氏関連の資料とかがあれば
ほとんど手当たり次第といってもいい位に買った。

その中の一冊に、ひろよんのことを

「山口のスーパースター」

って書いてる本があってちょっと笑っちゃったんだけど、
でも確かにひろよんの代で大内さんちは大きなターニングポイントを
迎えることになった。


そして、瑠璃光寺の前に立つひろよんが見つめる先は・・・・


山口・ひろよんの視線の先

ううん、これじゃわからんな。
でも、馬に乗れば草むらの向こうに大内氏館跡が見えるハズ・・・


大内さんちが移ってくる前の山口は、
一の坂川が造った扇状地の扇央部にあたり、
荒い土砂が詰まってて水田や農耕などには適さない地で
人の手が入らない未開の土地だったんだと。

だから、先住民の生活を邪魔することなく
新しい町を造り上げたんじゃないかと考えられ、
その配慮は当時の他の武将には見られない大内氏の特徴であるという。



京風の町づくりに関しては、
「地形が京都に似ていることから京にならった」ともいわれるし、
「そんなの全くのデタラメだ」とする人もいる。

ただ、南朝から北朝に再度転じた翌年、
ひろよんは大内氏歴代当主としては初めて上洛して、
足利義詮(よしあきら・室町2代将軍)に拝謁している。

この時の様子を、『太平記』は「数万貫の銭貨、新渡の唐物」を
幕府要人から民衆まで大判振舞いして京での人気を得たとしているが、
当時の武士は京へのあこがれが強く、その後の大内歴代の図抜けた京好きを見ても、
やっぱりひろよんも相当好きだったんだろうな~って気はするよな。

嫁さんも京からもらってるし。
その他も、大路・小路など京の町を摸した通りを造ったり、
祇園社や北野天神を京から勧請したり・・・


『陰徳太平記』では、

 ”道がぬかるんで車が通りにくいから、五里四方深さ五尺ばかりに
 小石を埋め込んだ”

とか

 ”一町ごとに京童を置いて、田舎言葉を正そうとした”

とかってエピソードが書かれている。
ま、これはあくまで伝説の域を出ませんが・・・


ただ、ひとつ問題となるのが、大内氏館からの出土品に
南北朝時代のものが発見されていないということ。

今のところは15世紀以降のものばかりが見つかってて、
南北朝の終結に大きな役割を果たしたのがひろよんの子・義弘だから、
時期的に義弘までの山口での証跡が見つかっていない。

なので、ひろよんと義弘は一体どこに住んでいたんだ?
って話になってるらしい。

今後の発掘調査に期待が持たれます。


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最終更新日  2012年07月17日 21時28分17秒
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