戦国ジジイ・りりのブログ

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2012年07月17日
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カテゴリ: 旅日記(中国)
ひろよんにご挨拶を済ませてから、
瑠璃光寺の門前を一旦通過してまずこれを見に行く。


山口・瑠璃光寺五重塔9

ちょっと雨に煙っちゃってて、ごめんあそばせ。 
また降りだしてきちゃったんだよね~。
いろんな角度からバシバシ写真を撮ったんだけど、
ほとんどの写真に雨粒が写りこんじゃってて、ろくな写真ない・・・

いや、そんなことより、こちらが山口が世界に誇る
「瑠璃光寺五重塔」ですよ~!!




  この塔は、嘉吉2年(1442)に建立されたもので、室町時代中期におけるすぐれた
  建築の一つであるとともに大内氏隆盛時の文化を示す遺構として意義深いものである。

  高さは31.2メートルで桧皮葺独特の軽快さを見せており、軒の出は深くなっている。
  塔の身部は上層にゆくにつれて思い切って間をつめているので、塔の胴部が細く見えて
  すっきりした感じである。これに対して初重の丈が高く、柱が太く二重目には
  縁勾欄があるので安定感が強い。

  鎌倉時代から和様、禅宗様、大仏様建築様式が行われているが、この塔は、大体和様を
  主体としていて、わずか一部に禅宗様の手法が見られる。室町時代のものとしては、
  装飾の少ない雄健なものである。

  この塔は大内義弘の菩提をとむらうため、その弟の盛見がこの地にあった香積寺の
  境内に建立したものであるが、江戸時代の初めに香積寺は萩に移り、その跡に

  (現地解説板より)


え~・・・
毛利氏が大内氏を滅ぼして(この表現には何かと異論もあるでしょうが、
私はあえてこう書きます)以後、毛利氏は何気に山口の町に手を入れてますんでね、
特に寺社なんかは命令されたら従うしかないですし~、

少なくないです。

ここも毛利氏がちょっと絡んでくる。



まず、この地には大内家第25代当主・義弘(1356-1400)が自分の菩提寺として
立てた香積寺(こうしゃくじ)があった。
香積寺の創建年代は不明。

義弘は九州探題・今川了俊に協力して九州平定に貢献し、豊前守護職を与えられた。
父・ひろよんの死後、家督を継いだ義弘は周防・長門・石見守護も兼任し、
都合4ヵ国の守護大名へ。

時の将軍・足利義満への忠誠を誓い、各地を転戦。
南北朝の合一にも尽力したという。

また「六分の一殿」山名氏を「明徳の乱」で追い落とした際には、
当主自ら体を張っての働きなども認められ、山名氏からぶん取った
和泉・紀伊を与えられて6ヵ国の守護へと大躍進を遂げる。

義満が出家した際には、お供して自分も剃髪してるんだよ。
ちゃんと恭順の意を示してるの。


しかし、義満との甘い関係にもやがて破綻の時が来る。

将軍権力の強化を目指す義満が今川了俊の九州探題の任を解いた後
(この解任劇自体、義弘が仕組んだという説もある)、
義弘は残念ながら探題にはなれなかったけど、
応永2年(1395)には朝鮮に使節を送り、交易をスタートさせた。

前の記事で、義弘の父・ひろよんが京で海外ブランド品などを
ばらまいたと書いたけど、当時はまだ交易のスタートする前。
て事は、正規のルートで手に入れたものじゃなかった可能性がある。

「鏡よ鏡よ鏡さん、正規のルートじゃないなら、なんなの?」

「お妃様、それは倭寇ってやつじゃあねえですかい」


・・・・・・・・・。

当時、朝鮮や明にとっては、倭寇はかなり頭の痛い問題だったらしくてね。
両国から幕府へ倭寇の鎮圧要請も来てたけど、大内氏は倭寇への影響力が大きいと
認識されていたため、朝鮮から個別に使者が訪れたりもした。

その期待に応え、倭寇の討伐にあたって朝鮮の信頼を得た義弘は
朝鮮との交易を開始させることに成功する。

「ウチの御先祖様は、百済の王子なんですよお~」

って義弘が言い始めるのも、この頃。

その話を信じたかどうかはわからないけど、
信頼の他に、もしかしたら遠い親戚かもなんて言い出す大内さんに、
朝鮮王朝は親近感を持っていたふしがある。


そんな独自の交易ルートを切り開いた大内氏が、
ちょうど港として栄え始めた堺を擁する和泉の守護になった。
したら、どうなる?

すでに赤間ヶ関(関門海峡)は押さえてる。
瀬戸内の海上ルートを掌握した大内氏の朝鮮貿易は順調に発展し、
大内氏の経済力も増していった。


着々と勢力を伸ばす大内氏は、義満からすれば

「俺様だけが、絶対者として君臨するのじゃ~!」

って権力的側面と、

「対明貿易って儲かるみたいだね・・・・
朝鮮と信頼関係を築いて交易してる義弘、ちょっと目ざわり
ライバルは早いとこ潰すに限るぜ~!!」


って経済面の両面から邪魔者扱いされ、
次のスケープゴートとなるに至った。



この後の流れについては後日に譲るとしますが、
結論だけ言っちゃうと、義弘は幕府軍に敗れ、堺で壮絶な討死を遂げました。

そんな悲劇のヒーローの兄を弔うために盛見が香積寺内に着工したのが、
五重塔。

塔はもともと、お釈迦様の土饅頭から発展して卒塔婆・塔へとなったもので、
お釈迦様の骨を安置するものだった。
その意味から考えると、この五重塔そのものが義弘の墓といっても
いいのかもしれない。

盛見が工事に着手した年月日はわかっていないが、
完成したのが嘉吉2年。

工事の依頼主・盛見は筑前で討死してすでにこの世の人でなく、
盛見の後を継いだ持世がまた運の悪い人で、
赤松満佑が足利6代将軍・義教を弑逆した「嘉吉の乱」で巻き添え食って
重傷を負い、後日死亡。

大内家当主は、盛見の子の教弘の代になっていた。
(系図を見たい方は、 「山口編(4)」 へどうぞ)

足かけ3代、義弘のためのデカイ墓碑はこうして完成をみた。


墓もいちおう、別にあります。いくつか。

私、堺で亡くなってるから、堺のが本墓かと思ってたんだよね。
でも、『大内氏實録』には香積寺で葬儀が行われたとあり、
『防長風土注進案』には

 【義弘朝臣石屏和尚の墳塋瑠璃光寺方丈の後山にあり、年を経るまま五輪もいつしか
  崩れ倒るともこれを起こす人もなし、義弘朝臣は泉州堺の津に戦死ありしかも
  その墳塋は香積寺に築きしなるべし】

てあるので、ここに葬られたのかもしれない・・・
といっても、瑠璃光寺の墓はわからなくなってるみたいだけど

供養塔は瑠璃光寺にあるって何かで見た気がするけど、
今回の旅ではわからなかったにゃ。


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最終更新日  2012年07月17日 21時38分04秒
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