戦国ジジイ・りりのブログ

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2012年07月18日
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カテゴリ: 旅日記(中国)
さて、現在の香山公園の第1ステップ・香積寺と義弘については

簡単な歴史が解説板に書いてあったので、まずはそちらをご覧ください。


 【大本山  永平寺(福井)  曹洞宗保寧山瑠璃光寺
         總持寺(横浜)

  瑠璃光寺は、陶弘房の菩提寺で、本尊は陶弘房念持佛の薬師如来である。
  陶氏は大内家筆頭家老で、代々周防国の守護代をつとめた名門の家柄である。
  この寺は文明3年(1471)山口市の奥地仁保の地に創建されたものです。

  当寺は中国三山の一つと言われ、長門の大寧寺、周防の龍文寺と共に江戸末期迄、

  修行僧も沢山いた。また代々名僧を輩出し、九州佐賀藩主の菩提寺高傳寺を初めとして
  県内外に30余ヶ寺の末寺を有していた。

  この地には大内義弘の菩提寺香積寺があったが解体されて、萩に移ったため、
  その跡地に元禄3年瑠璃光寺が移り今日に至り、日本一古い正法眼蔵や各種の寺宝を
  残している。

  本堂の前には大きな「杓子(しゃもじ)」「?木(すりこぎ)」があるが、これは
  「我が身を摩り減らし、人を救う」という佛心を象徴するものである。また出雲の
  一畑薬師(目の佛様)、山口分院、四国の金毘羅様(道中安全)と我が身を切って
  その人の身代りとなられる身切地蔵様等がある。】


唐突に陶(すえ)氏の話から始まってますが、陶氏は大内家の分家。
代々大内家への忠誠は篤かったのに、この陶さんちで一番有名なのが


んで、陶弘房さんてのは、隆房のひいじいちゃんにあたる方です。


応仁元年(1467)、大内政弘に従って応仁の乱に参加した陶弘房は、
激戦といわれた京都・相国寺の戦いにおいて討死を遂げる。
残された妻・妙栄が夫の菩提を弔うために、現在の山口市中心部より北東の
仁保・小高野に造ったのが安養寺。


かわりに近くに新しい寺を建立。
弘房の戒名(瑠璃光寺殿文月道周大禅定門)から瑠璃光寺と名付けた。

たいてい、戒名と菩提寺って一致してるもんだけどね、
安養寺ができたのは、弘房の死後数年経ってだからかなって気もするけど、
ならなんで初めから寺名を「瑠璃光寺」としなかったのかな~とか
素朴な疑問がわく(笑)。


明応8年(1499)には火事で瑠璃光寺の伽藍が焼失してしまったため、
山口の南東へ引っ越した。
そして、次の引っ越し(元禄3年)までその地にあった。


現在の瑠璃光寺には資料館もあって、そこでもらったリーフレットに記載の
瑠璃光寺の沿革の中に、興味深い文章があった。

 【(前略)天正14年(1586)吉川元春が小倉で逝去したとき、瑠璃光寺の華翁和尚が
  その導師となり、この寺を位牌所とし、海翁正恵大居士の法号により、寺号を
  海翁寺と改めた。しかし瑠璃光寺は中国地方に門末170ヵ所ある名刹であったので、
  吉川家に乞い、もとの瑠璃光寺に復した。(後略)】


ほっほっ、元春ちゃん!!

じゃあ、もしここで言いたいことをぐっとこらえてガマンしてたら、
今頃この国宝は 「瑠璃光寺五重塔」 じゃなくて
「海翁寺五重塔」 って呼ばれてたかもしれないんだ~!!

ちょっと面白い・・・
てか、一旦は海翁寺と呼ばれたんなら、元春ちゃんの墓のある
海応寺(跡)も、もしかして瑠璃光寺の末寺のひとつだったのかな~?
なんて思ったりもした。

いや、単に名称が似てるからふと思っただけ・・・



さて一方の香積寺。

関ヶ原後に萩を本拠とすることが決められてから、
山口からたくさんのモノが萩へと運ばれた。

香積寺もその例に漏れず、解体されて用材として移送された。
五重塔も一緒に壊されるところだったが、ここで山口の町民が立ちあがった。

「五重塔破壊、はんたーい!!」
「山口から五重塔を奪うなー!!」

と筵旗を立てて激しいデモを行った。
この時、町民が町奉行に出した嘆願書の写しが今も残っていて、
瑠璃光寺の資料館で見られる。

 【御願上候

  此度天花香積寺萩表ヘ引移相成儀ニ付 五重塔ノ儀ハ大内義弘公之御墓所之印ト
  申伝承候間 右塔之儀ハ其侭御残可被下山口触次中ヨリ御願申出候
  宜敷御聞召被御沙汰可被下候以上

             山口 町管中      元和元年辰六月】


この決死の嘆願に対し、御取次役・榎本中太郎氏は

 願之通リ可差置候

と回答をしている。

う~ん、この頃のデモに対する標準的な処遇とかは知らないけど、
結構勇気のいる事だったんじゃないのかね。

それでなくても、関ヶ原で輝元が舵取りを失敗してからは
転落の一途で、毛利家には精神的にも経済的にも余裕なんか
全然なかった頃だろうと思うのに、よく譲歩したよな~。

それだけ、デモ隊が鬼気迫る様相だったのか、
はたまた長らく大内氏の本拠地だっただけに、こじらすと色々と厄介だと
思って早々に折れたのか・・・


なんにしても、ここでも大内家への愛着と「西の京」のプライドが
いかんなく発揮されて、五重塔は破壊を免れた。

・・・・免れたのはいいんだけど、周りの伽藍はそっくり萩へ行っちゃった。

ただ、五重塔以外の全部が萩へ行った訳ではなく、
金堂は安国寺恵瓊(えけい)が広島の不動院へ持ってった。
こちらは今も広島に現存し、国宝になってます。

金堂は義弘の創建とは時期を異にし、
義隆が父・義興の13回忌に建てたものとされている。



廃墟と化した香積寺の跡地には、五重塔だけがひとりぽつねんと建っていた。
元禄3年(1690)に瑠璃光寺が引っ越して来るまでは。

そうして、大内氏が建てた塔を陶氏の寺が守るという
一種感慨深い状況になってから現在までが約320年。
昭和38年に山口国体が開かれた際には、塔の付近も整備され、
前面に池などが造られて景観が整えられた。


山口・瑠璃光寺五重塔11


あっ、遅ればせですが、こちら、京都・醍醐寺、奈良・法隆寺の塔と並び、
日本三名塔といわれております。
塔の優劣なんかは素人にはわかりっこござんせんが、
「大内文化の最高傑作」とまで称されます。  

観光都市としてはちょっとマイナーな山口市ですが、
山口を訪れた観光客は、まずこの美しい塔を見に来るといっても
過言ではないでしょう。
なんたって、国宝だし。

「日本三名塔?へえ~」

で軽く終わらせちゃってもいいけど、そこに秘められた数々の歴史を知れば、
見た時の感慨もまた味わい深いものになるのではないでしょうか・・・



なんか、毛利家が憎まれ役みたいになっちゃってるけど、
誤解のないよう申し添えておきますと、現実的に塔を保護してきたのは
毛利家ですよ。

万治4年(1661)、長州第2代藩主・毛利綱広(輝元の孫)が、
柱は朽ちて雨漏りのする五重塔を見て、大檀那となり、
浄財を集めて大掛かりな修理を行った。

以後は大体平均して25~30年くらいの間隔で、屋根の葺き替えだとかを
定期的に行ってる。570年もほったらかしで木造建築が残る訳ないもんね。

直近での修理は、平成10年。
前々回、昭和56年の時は屋根の葺き替えに2,990万かかったそうな。
維持管理も大変だね~。


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最終更新日  2012年07月18日 22時23分23秒
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