戦国ジジイ・りりのブログ

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2012年07月22日
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カテゴリ: 旅日記(中国)
香山公園から東へ。
一の坂川を越えて住宅地を抜けていくと、
地味に次のスポットへの入り口が現れる(場所は こちら )。


山口市・雲谷庵跡



上がったところには、これ。


山口市・雲谷庵跡2


 【雲谷庵跡

  ここは、室町時代の画聖雪舟のアトリエ「雲谷庵」の跡です。

  入り、後に京都にでて、禅を学ぶかたわら絵を学んだ。

  雪舟は40才頃にはすでに第一流の画家として名声も高く、さらに大きい希望をもって
  絵を勉強するために当時中国・朝鮮から新しい文化が入ってきていた山口に住むように
  なりました。

  その後、応仁元年(1467)に遣明船に乗って中国に渡り3年間中国に滞在しました。
  日本へ帰った後も山口に住み、アトリエ「天開図画楼」を開いて画禅一致の生活を
  しました。雪舟67才の時生涯最大の力作国宝「四季山水図」も此処で描いたものです。
  雪舟の没年や場所には諸説がありますが、永正3年(1506)87才の時この雲谷庵で
  没したといわれています。

  雪舟死後庵は荒廃しましたが、大内氏の跡をついだ毛利氏が雪舟画脈の廃絶を惜しみ
  雲谷宗家にこの地を与えましたが、明治になって廃絶しました。そこで郷土史家の

  一宇を再建しました。現在の庵がそれです。】 
  (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)


画聖・雪舟(1420-1506?)は、華やかな大内文化を彩った
数々の文人墨客の中でも、まずトップに紹介されてきます。


絵画の世界はほとんど知らないけど、雪舟さんレベルになると

すごい経歴の有名な人なんだと思ってた。

ところが、画聖も結構苦労してるみたいだね。

京では相国寺に入り、約20年ここで修行。
当然の事ながら本業は坊様な訳ですが、僧侶としての相国寺での立場は
「知客(しかく)」という接待役で、寺内では低い位置にあったそうな。

その頃の日本の画檀は、宋や元など古い中国の絵画の模倣にとどまっていたため、
直接明で本場の山水画を学びたいと思うようになった雪舟さんは、
1457年頃に山口入りしたと考えられているらしい。


当時の遣明船は明側から色々と規制を受けていて、
「十年一貢」もそのひとつだった。

遣明船は「勘合貿易」ともいわれるけど、
いちおう日本が明に朝貢する形式になっていたため、
盟主・明からは


10年に1回以上は来ちゃダメだからね~!!」


って言われてたらしい。
どうも古い時代の遣明船は、朝貢に伴って行われる貿易での
利益に味をしめた日本側が、頻繁に使節を送ってたみたいでね。

受け入れる側の明の負担もバカにならないから、
こんな風に規制されるようになっちゃったみたいなんだけど


前回から遣明船に参加した大内さんのところにいれば、
次のお船で明に渡れるかもしれない!

とヤマを張った雪舟さんは山口で暮らすことおよそ10年。
そして、上の解説の通り、応仁元年の船にめでたく乗って渡海を果たした。
ここまでの山口での10年の期間は、雲谷庵で暮らした訳ではないみたい。


明に入った雪舟さんは、日がな1日絵を描いてた訳じゃない。
本業の修行のために、寧波・天童山景徳禅寺に入って頑張った結果、
第一座(首座-しゅそ-)に登りつめた。

これは、かつて中国に入って修行した禅の先人・栄西(臨済宗)や
道元(曹洞宗)でさえも得られなかったステータスであるという。

しかし、そんな社会的栄誉を携えて帰国した雪舟さんに対し、
古巣である相国寺や京ではあくまで元の身分「知客」としてしか
扱わなかったという・・・



帰国した雪舟さんは、約15年間、美濃・越中などの東国をはじめ、
北九州などを各地を遍歴した。

ふたたび山口へ戻ったのは、65才(1485)の頃。
時の大内家当主・政弘さんが漂泊の身の雪舟をあわれんで雲谷庵を
与えたと、了庵桂悟(りょうあんけいご)が書き残している。
以後は雲谷庵にこもって、絵に専念した。

この頃の大内氏は、応仁の乱で西軍の主軸として畿内を転戦していた
当主・政弘も帰国し、領国経営に力を注いでいた時期にあたる。
朝鮮との交易も活発で、連歌師・宗祇もこの時期に何度か
山口を訪れていた。

大内家の歴史を花に例えれば、大きなつぼみが6~7分くらいまで開いたって
ところかな。

そんな大内氏の安定した時代に、当主・政弘から生活の保護を受けて
製作に打ち込んだ雪舟さんは、彼の作品の中で国宝に指定されている6点をはじめ、
重要な絵画のほとんどを、ここ雲谷庵で生み出したという。



さて、雲谷庵の中はこんな。


山口市・雲谷庵跡3



山口市・雲谷庵跡4


上の解説にもあるように、これは復興された建物です。
再建に尽力した近藤清石(きよし)さんは、萩藩で佑筆をつとめ、
古記録などを調査した経歴を生かし「防長風土誌」「大内氏実録」などを
著した郷土史家。
大内時代の古材って、どうやって集めたんだろう・・・?

雪舟さんが絵を描く時は、酒を飲み~の尺八を吹き~の詩歌を吟じ~のの
ながら尽くしで、ガーーーッッ!!と絵を仕上げたって
江戸時代に狩野永納が伝えている。

禅僧っつっても、やっぱり豪快なアーティストなんだなあ(笑)。



雲谷庵の扉には、出入り自由だけど、猫が入るからちゃんと閉めてね
って貼り紙があったので素直に閉めた。

・・・したら、上の写真の次の間への扉も閉まってて
当然電球などはないので、次の扉を開けるまで真っ暗になっちゃった。

いくら静かに史跡を楽しみたいとは言っても、ここ、山のふもとで全然人も来ないし、
悪い人や獣や霊に襲われても誰も助けに来てくれないよな~
とちょっと怖くなって、写真を撮ってすぐに外に出た


雲谷庵の縁側に座って、おやつを食べながら静かな時間を楽しむ。
明るいところなら、別に怖さも感じなかったし(←単純)。

今日寄るところは、あとひとつ。
朝はどうなる事かと思ったけど、もう完全に雨も上がったし、
それなりに予定をこなせて良かったな~

まったりしてたら、おじさんがやって来た。
ので、庭の一角にある小高いところから五重塔か何かが見えるって事だったので、
そこに立とうとした・・・

けど、見事な蜘蛛の巣がかかってたので、やめた。
クモ、大っ嫌いなんだもん。


で、雲谷庵を後にして南へ。
後から知ったんだけど、雲谷庵はデートスポットに選ばれているらしい。
大内義興さんの眠る凌雲寺跡もデートスポットとして紹介されてるし、
ちょっとこの感性、よくわからない・・・

まあ、史跡に多くの人が足を運ぶのはいい事だとは思うけどさ・・・

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最終更新日  2012年07月22日 17時53分36秒
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