戦国ジジイ・りりのブログ

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2012年09月26日
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カテゴリ: 旅日記(中国)
こちらが香積寺の本堂と・・・言わなくてもわかるよね(笑)。
現本堂は正徳4年(1714)の再建だそうな。


三原・香積寺9


三原・香積寺10



 【桂谷山香積寺は明応3年(1494年)小早川14代興平氏の
  誕生祈願により、高山城北側の麓に建てられ、文禄2年(1593年)
  三原城築城に伴いこの地に移されました。

  その時、本尊の十一面観音菩薩を持ち運ぼうとすると石のように重くなり、
  どうしても動かすことができませんでした。そこで仕方なく本尊のみ



旅のプランを立てていて、最初に地図上でこの寺の名前を見つけた時、

え、大内義弘、もしくは大内家と何ぞ関わりが!?

って思っちゃったんだよね~。
(義弘の香積寺については、 「山口編(7)」 をご覧ください) 

しかし、全然違ったみたい


解説の通りここも移転組であり、かつ小早川家にゆかりの深い
お寺であったようです。

興平の誕生祈願、てことは、その父・扶平(すけひら)の発願と見ていいのかな。

沼田小早川扶平は、 「三原編(3)」 で
ちょっとだけ(つか、墓の写真だけ)紹介したのを覚えておられるでしょうか・・・



沼田本家はそうじゃなかった。
室町時代は幕府に近い立場を取ったし、扶平が三原の代官職を得たのも、
管領・細川政元のお膳立てによるもの。

ところが、「永正の錯乱」で政元が暗殺されると、
状況は一変する。


大内義興さんが、

「うおっしゃああ~!!」

と義尹を連れて・・・いえ、奉じて上洛した際、
竹原家を始め安芸国人の多くは上洛軍に参加した。

しかし、沼田家ではこれまでの経緯から、

」

ってホイホイついていく訳にもいかず、扶平はどちらに付くかで苦悩する。

そして、結論を出せないまま、24歳の若さで突然死去する。
心労によるものだったとも言われる。

・・・幸い、香積寺の霊験によって嫡男・興平が誕生していたので、
家督相続について大内家の横槍が入るなど多少の悶着はあったものの、
「三原編(15)」 にも少し書いたように、竹原家の弘平が
一族の融和を図ったこともあって、沼田本家は興平が継いだ。

結局は興平も若死にしちゃうんだけど、興平の子が正平、
正平の子が繁平と問田の大方・・・ってことで、
隆景ちゃんへとつながっていきます。



さて、本堂の外観に戻りますと、
2階建てのように見えるけど、下の屋根は裳階(もこし)だな。
しかもこの裳階、途中で一旦段差になってるでしょ。
これは瓦の葺き方の一種で、錣葺(しころぶき)っていうんだそうな。

錣は武具の一般知識のある方なら知ってるでしょうけど、
兜の横と後ろにくっ付いて、首を保護するための部分。

ここまでのお寺の中にも錣葺っぽいのはあるにはあった。
ただ、上の写真のように棟に正対して見ればすぐにわかるけど、
妻の方から見ると、シロートにはちょっとわかりにくい。

錣葺の何たるかを知ってから、はっきり「これがそうだ」って
確実な実物を見るのは、これが初めてだったし。

ともかく、錣葺は広島方面に多い葺き方なんだそうです。



本堂の向かって左手には、近代的な建物の庫裏。
右側には幼稚園が併設されてた。


以上で香積寺は終了~。
次のスポットへ向けて、一旦南へ降りる。
途中の横道は、相変わらずの細すぎる道。


三原・香積寺からの下りの戦略的な道


歩いてる道沿いには、昔風の立派な民家もある。


三原・香積寺からの下り2



↓ここの道の先は、クランクになってる。
曲がった先は、袋小路かな・・・


三原・香積寺からの下りの戦略的なクランク



この先には、「城下町みはら散策マップ」に
【笑うブロック塀  香積寺小路の角に「アハハ」と笑う塀がある】
と書いてある場所があったので、

笑う塀?
センサーで人が通ると「アハハ」という声でも出るのかな?

と思っていた。
・・・が、その正体はコレだった。


三原・香積寺からの下りの笑う塀

・・・声、出ないし。
ちょっと期待しすぎちゃったかな

して、この塀のところを東へ入っていく。


三原・香積寺からの下りの戦略的な道3



写真じゃわかりづらいと思うけど、ここもクランクになってるの。
「城下町みはら散策マップ」には、「鍵型小路」って書いてある。
【敵方が刀が抜けない片側壁】とも書いてあるけど、
ちょっとそれはピンと来なかったな。

ただ、この辺りの道は写真の通り細い道があちこちにあって、
かなり攻めにくく造られてるってのはよくわかった。


そしてこの先が~、ここまでも何度か名前の出てきている、
宗光寺(場所は こちら )。
ここ、すごい楽しみにしてたんだよね~。
うっへっへ


三原・宗光寺


え~っと、早く中へ入りたいけど、まずはこの入り口が
歴史のある場所で・・・あれ?何かある。


三原・宗光寺・一株庵跡


 【徳川家康 宿泊所 一株院跡】

わあ、こんなの建ってたなんて知らなかった!
最近できたのかな・・・
この碑の側面には、

 【小早川隆景公義兄 元平菩提寺】

とも彫ってある。

小早川元平は問田の大方様の兄上様。
ただし、一般的には「小早川繁平」の方が名が通ってる。


 【文禄元年(1592年)城主隆景は、秀吉の五大老として隆景とともに
  実力を二分していた徳川家康が、約3万の軍勢を引き連れ朝鮮に向かう途中、
  城中などが一望でき、戦略上重要な地にある宗光寺を開放して
  宿舎にあてました。

  この隆景の歓迎に対して家康は、「城中より高い所に泊まるのは失礼にあたる」
  と、境内下にあった小早川16代繁平の菩提所、一株院に泊まったと
  いわれています。】
  (三原観光協会「海・山・空 夢ひらくまち」より)


ま、ここだって三原城より明らかに高い位置にあるんだけどね(笑)。

繁平さんについては、高山城で書くのがふさわしいかと思うので、
簡単な説明に留めますが、幼くして家督を継いだものの、
病弱な上に目を患ったため、繁平の妹と隆景を結婚させて
沼田本家を相続させた・・・というのが一般論。

隆景に家督を譲った後は、剃髪して仏門に入り、天正2年(1574)に
33歳で亡くなった、とされる。
まあ、殺されなかっただけまだ・・・ムニャムニャ

繁平の墓は、沼田小早川16代当主として米山寺にあります。
法名は、「一株(いっちゅう)院文室元緒」。

一株院は、たぶん宗光寺の塔頭のひとつだと思う。
かつては山門の左側にあったらしいが、現存していない。

剃髪後の繁平は、高山城下の教真寺に入ったといわれているけど、
宗光寺の創建(1577年)前に亡くなってるし、
けど法名は一株院だし、そもそも高山城下付近の寺って
巨真山寺(=米山寺)だとか匡真寺(=宗光寺)だとか似たような名前の寺が
多いので、取り違えてるんじゃないかって気もするし、
なんだかよくわからない

高山城下の一株院で亡くなって(あるいは死後に建てられて)、
宗光寺の引っ越しと共に三原へやって来たって感じかなあ・・・


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最終更新日  2012年09月26日 21時42分37秒
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