戦国ジジイ・りりのブログ

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2012年10月20日
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カテゴリ: 旅日記(中国)
地蔵堂の軒丸瓦はこんなのだった。


三原・佛通寺45・地蔵堂


おお、蓮華紋ぽ~い

何しろ、古い建物だからな・・・
と現地では喜んでたけど、後から「大本山佛通寺誌」を見ると、
佛通寺内での【瓦葺は天正10年客殿の再興と翌11年上門の上葺をしたのが
始めである】とあるから、天正10年以降のものってことか・・・

元々茅葺だったんだから、旧態を忠実に再現したってものでもないしな。
ちょっと残念。





三原・佛通寺35・開山堂のとなり


ここにはかつて侍者寮(庫裏)があったそうな。

「大本山佛通寺誌」に載ってる昭和24年当時の見取図には、
開山堂と廊下でつながってる侍者寮の絵が描かれているから、
結構最近まであったんだ~と思ったら、
『佛通寺物語』に昭和45年に土砂崩れで倒壊したと書いてあった。

おお、ヘタしたら開山堂も地蔵堂も巻き込まれてたかも
しれないんだ。
危ないところだったな~。



さて、応永4年(1397)に周及が佛通寺を開いてから、
今年で615年。


今回は「大本山佛通寺誌」をもとに、それらをざっとご紹介しましょう。


まずは人為的被害。

永正2年・5年の高山城の危機の際には、
【敵方の武家に寺領を押領】されたとある。

この時期、高山城がどうしたとかって話は見つけられないんだけど、
に
あたるんじゃないかな(笑)。

大内方だった竹原家、もしくは近隣の国人との小競り合いでも
あったのかもしれない。

永正5年てのは、義興さんが足利義尹を連れて・・・
いえ、奉じて上洛戦を開始した翌年であり、去就に悩みぬいた
沼田家当主・扶平がポックリ若死にしてしまった年にあたる。
(その辺の経緯は、 「三原編(26)」 をご参照ください)



その後は、

 天正15年 秀吉の九州平定後、「備前衆当寺破損」
 慶長5年~8年 福島氏に寺領を没収される
 明治5年 寺領没収上地になり国有となる

とある。

福島家の統治期間が短いこともあってか、
これまで廻った寺に出てくる福島家に関する記述といえば、
どこも「寺領没収」くらいしか出てこないんだよね(笑)。
宗光寺を除いては。

また、小早川扶平の代で山中に88ヵ寺、末寺が3000ヵ寺を数えたものの、
中世の兵乱などにより廃絶した寺も多くあったという。



お次は自然災害。

 【宝暦7年(1757)7月26日大風で「本寺諸堂大破前橋屋根吹落ス
  含暉院庭ノ五葉松倒ル山門打倒ス肯心谷大破損往還大木吹折往来普通」
  となったが、幕府から宝暦5年以降7年間倹約で普請を停止されていて、
  本寺含暉諸堂大漏のため開山の年忌も執行できず、28日迄延期した程で(後略)】
  (カッコ内は戦国ジジイが追加)

とある。
小さな災害はもっと沢山あったはずだけど、
たぶんこれが気象による災害の中で最も大きかったものなんじゃなかろうか。

『肯心谷大破損』とあるけど、これは肯心院のことで、
応永9年に小早川則平が周及の隠棲のために創建したものという。
被害を受けながらも肯心院の建物は残ったようだけど、
残念ながら明治の初めに焼失したそうな。
肯心院自体は今もあるけどね。



さらに、火災。

大きなものは、永享8年(1436)と寛政8年(1796)。
永享の時には、「大本山佛通寺誌」に書かれている限りでは
本寺方丈・本寺庫裏・本寺仏殿が被害にあっている。

ま、実際は小さな建物なんかも巻き添え食ってるんでしょうけど、
おおむね本寺域を中心とした火事だった様子。


しかし、寛政・・・これがマズかった。
どんだけ寛政の大火が大きいものだったか?

 【寛政8年4月9日 両足院炎上、本寺諸堂山門鐘楼、橋まで残らず
  類焼したときには本尊脇侍、周及の真筆など多くの品も焼失した。
  この大火で全山の堂宇の殆どは焼失したが、応永13年頃に松岩壽大姉が建てた
  含暉院(開山堂)に隣接する地蔵堂だけが現存する最古の建物。】
  (漢数字は戦国ジジイが変換)


永享の時には含暉院を除く火災だったのが、
寛政の大火では本寺域と仏通寺川を隔てた山上にある含暉院まで
火にかかったっていうんだから、ほとんど山火事だよな。
よく地蔵堂が残ったもんだ・・・


この宝暦の大風と寛政の大火でおシャカとなり、
「大本山佛通寺誌」の発行年である昭和24年に至るまで再建されなかったものに、
含暉院の方丈・山門・選仏場・霊殿および祀堂・客殿・惣門・門前橋・
浴室・中門・御成門・裏門・庫裏門・小門・毘沙門堂・涅槃堂・地蔵堂・
六地蔵堂、がある。

これらのうち、かなりのものに隆景が再建・修繕で関わっており、
中でも含暉院の方丈は【新高山別所ヲ移シ客殿トス】とあるので、
寛政の大火がなかったらどれだけの偉容を誇っていたのかと思うと、
消火器を山ほどかかえてタイムマシンで寛政8年へ飛んでいきたい衝動に駆られる。

おそらく、含暉院が今のような構成になったのは、
この寛政の大火がきっかけなんじゃないかと想像する。


ともかく幸いにも焼け残った含暉院の地蔵堂は、
応永の貴重な建物として重文に指定された。
指定の理由として、

 【地蔵堂の棟札によると、厳島神社の千畳閣を造築した大工と同一人物であって、
  それがため重文に指定された。作者は武田弾正、堂内の彩色は天下の巨匠
  加納法眼元信の筆である。】

と「大本山佛通寺誌」には書かれている。

千畳閣!?

って、アレって、殿下が建てたものじゃなかったでしたっけ・・・
応永の創建とは、時代が全然違う。

慶長元年(1596)に隆景が含暉院の仏殿(=地蔵堂)を修繕とあるから、
その際の棟札なのかな?

しかし、千畳閣を建てた大工さんなら、当時名の通った匠だよな。
ちょっと、隆景が新高山城に匡真寺を建てる際、
コネを使って宮大工を招聘した 話を思い出した。

結構、隆景ちゃんもミーハー・・・いやいや、一流の人を招くだけの
財力と力を持ってたってことだよな(と、しておこう)。



その他の災難として、こんなものもあったらしい。

 元禄10年10月7日夜「盗賊推入含含暉奪財物」


お寺に盗みに入るなんて、悪い人はいつの時代にもいるもんだね~。

実際、どんなものが盗まれたのかまでは書いてないけど、

 【室町時代には貿易に将軍・諸候・寺社も参加し幕府は天龍寺船を以て
  国営的に行い、寺社や豪商も大名と共に荷物は一駄に付十二貫文、
  人は二十貫文の運賃を支払って、天龍寺船に荷物を托送し又は渡航を
  したのであって、佛通寺の什物から考えても当時の舶来品と思えるものも
  相当あったらしい。】

ということなので、いわゆる金目のモノを所蔵しておったのだろう。



「大本山佛通寺誌」発行の昭和24年現在で佛通寺の寺院は6ヵ寺、
末寺は40ヵ寺ほどとなり、往時よりかなり規模は縮小したものの、
これらの様々な苦難を乗り越えて、佛通寺の法統は周及から数えて実に205世
(昭和24年時点)まで連綿と続き、貴重な歴史を今に伝えている。



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最終更新日  2012年10月21日 14時53分45秒
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