戦国ジジイ・りりのブログ

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2012年10月31日
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カテゴリ: 城(中国)
前回は、三原要害について。
ここからは、正真正銘(笑)三原城の歴史に入ります。


永禄10年 三原城築城開始。本丸・二の丸・三の丸・船入ができる。

天正3年  三原城の存在が文献で確認できる。

天正4年  足利義昭が勝手に備後・鞆に押しかける。
        木津川口の戦い(第一次)。

天正5年  義昭がらみの出陣。隆景は備中笠岡へ、元春は月山富田城から山陰道を
        東へ。輝元は三原城へ本営を置く。

天正6年  木津川口の戦い(第二次)。


        秀吉が中国攻めの拠点として、姫路城の築城を開始。
        隆景、三原城の修築を命じる。

天正10年 4月、隆景が三原城の修築を命じる。 
        備中高松城の戦い。本能寺の変おこる。
        秀吉と講和締結直後の6月17日付、堀普請を中心とする三原城の
        修築を命じる。

天正11年 隆景、三原城下の整備を進める。重臣3名に城下の整備状況を
        監督させるため、5日に1度の見回りを命じる。

天正14年 隆景、伊予に封じられる。

天正15年 九州攻めで秀吉が三原城に2日お泊り。家康は宗光寺に宿泊。
        隆景、筑前・築後に封じられ、居城を名島城に移す。



文禄4年  隆景隠居。

慶長元年  隆景、三原城の大規模な修築・再建を始める。これにより、ほぼ
        三原城と城下町の原型が整う。

慶長2年  隆景死去。
        以後、三原は毛利家の直轄領となる。





毛利元就って人は、何度か引退宣言をしては息子や孫に泣きつかれて
その都度取りやめにしてるんだけど、弘治3年(1557)に防長経略を完了した後にも
一応本気で



と言ったのに、嫡男・隆元がこれに猛反対。最後は

「わしが死ねば、おとんも引退を諦めるじゃろう」

とまで言い放って、元就はすごすごと引退宣言を取り消した

毛利家の戦いは、それまではどちらかといえば内々での戦いだったのが、
これ以降は、大友と尼子を相手にしたスケールの大きな戦いへと突入し、
いわゆる「中国の覇者」への道を歩み出す。

本家当主である長男の隆元を中心として、次男・元春、三男・隆景の
3本の矢がまとまって大軍を動かすという、
これまでとは質の違う戦いが始まることになった。
これが永禄以降。




さて、三原要害に在番を置くようになって以降、
隆景は三原要害から作戦の指揮を取ることが段々と多くなっていったが、
「海の隆景」が始動した三原要害の在番申し付けから14年後の永禄10年、
三原で本格的な城の構築に着手する。


今の地形で考えれば、沼田川を遡った内陸にある新高山城より、
そりゃ~三原の方がいいだろう、と思っちゃうけど、
「三原編(6)」 に書いた通り、当時は今と地形が全く違っていた。

「三原編(6)」で『三原城のスタートを考えた時に
どうも私にはイマイチ合点のいかない事があるので』
と書いたのは、ここの点なんです。

つまり、新高山城の近くまでも海が迫っていたのなら、
水軍の拠点として別に不都合はなかったんじゃないのかな・・・?
て思っちゃうんだよね。


室町期には、三原は「三原浦」と呼ばれ、付近の住民には
朝鮮と交易する者もいたという。
また、三原やその周辺で造られた塩を畿内へと運ぶ船が、港として利用しており、
さらに山陽道も通る。

そうした港としての実績を踏まえ、さらに自らお試ししてみて、
使い勝手が良かったのかもしれない。
海陸の交通の要衝でもある訳だし。

あるいは、ほぼ瀬戸の海を押さえるまでに水軍の力が大きくなり、
砦では何かと不都合を感じるようになったのかもしれない。

あと、よくいわれる理由として、世の中が大きく目まぐるしく変わる中で、
一刻も早い情報収集・分析が必要だったというのがある。


しかしそれらは、三原城を単品として見た場合の推測。
私にはこの築城もまた、毛利本家の動向と無縁とは思われない。




永禄9年(1566)11月21日、月山富田城落城。
かつての主家であり長年の宿敵であった尼子氏を倒し、
翌年2月には、元就が吉田郡山へ引き上げる。

帰ってから元就は再び引退宣言をしたものの、孫の泣き落としにあい、
今度は輝元の後見となる。
ただし、富田城の戦いを最後に、元就は最前線に出なくなる。
タフな元就さんは、出陣はまだするんだけどね(笑)。


山陰は元春、山陽は隆景という分担が確立するのもこの頃。
つまり、若殿・輝元を中心とした、いわゆる両川体制が本格化した時期といえる。
ニュー「三本の矢」の誕生だあ~

ここで三原城を築いたことは、とても象徴的、かつ重要な出来事だと私は思う。

しかもその城は、わずかな期間で何百もの城が姿を消したという、
一国一城令の大試練をも乗り越えた。
施設や縄張、そして立地の重要性などが総合的に評価された上での
生き残りなんだろうから、それだけの城を造り上げた隆景ちゃんて・・・


要するに、山陽道守将であり、瀬戸内海の統轄者として新たなステージへ進んだ隆景に
ふさわしい威容を整えた新しい城、それが三原城だった。


と、ここまで背景を考え合わせてみて、
三原城というのがなんだったのか、ようやくわかった。

海の支配に乗り出した三原要害。
瀬戸内海を掌握し、日本最大の水軍の統轄者となって築いた三原城。

ああ、そうか・・・

前身の要害時代を含め、三原城ってのは隆景ちゃん自身を表してるんだ・・・
って、ここで初めて自分なりに消化するに至った。

その後も、刻々と変化する情勢と、隆景個人の立場が変化するにつれて、
隆景そのものである三原城もまた、その姿を変えてゆく。




天正元年頃には、常駐に近い形で隆景が三原に在城していたといい、
ここに水軍を呼び集め、ここから出撃させ、次第に本城的な役割を持つようになる。

後に始まる対織田との全面戦争においては、小早川水軍が
三原城から木津川口へ向けて出撃もしている。

また、天正5年には毛利家当主・輝元が三原城に本営を置いたが、
秀吉の中国攻めが本格化する前(おそらく天正8年)には、
城を堅固に修築するよう申し付けているので、
再び三原城に輝元の本営を置く心づもりがあったのかもしれない。

備中高松城の戦いで講和が成った直後にも、
先行きが全く見えない中で慎重な隆景ちゃんは大規模な修築に着手して、
新しい時代の動きに対応しようとした。


こうした様々な変遷を経て、段階的に整備・修築がなされていった結果、
城郭兼軍港としての形が整った。

城下町の整備は一般的に天正年間の中頃といわれるけど、
法常寺 のところで書いたように、
元亀2年には「引っ越しのススメ」を出しているので、
寺町の形成についてはもっと早い時期にプランが出来ていたものと思われる。

寺町のプランが出来てたんなら、その時点ですでに
本拠を移すつもりだったろうと思うんだけど、
実際に新高山城から三原城へ本拠を移したのが何年なのかはわかっていない。

秀吉の城割令に伴い、天正14年頃には事実上、
新高山城は破城同然だったろうと見る向きもあれば、
佛通寺の住持記および附紙では、『隆景公舟木新高山ニ住ルコト五十年、
則慶長元年迄也』『同(慶長元年)秋新高山之城三原江御引キニ付』
(カッコ内は戦国ジジイが追加)と伝えている。




三原城の遺構は少なく、文献資料なども少ないそうで、
名城とうたわれる割には思ったほど研究が進んでないらしい。
特に、隆景時代の絵図などは残っていないため、
隆景の三原城の詳しい実態についてはわかっていない。

後世の記録によると、三原城の規模は東西約900m、南北約700m、
本丸・二之丸・三之丸を配し、二層三層の隅櫓が32、
城門が14あったとされる。

天正年間以前の記述では、修築や強化に関するものばかりなので、
現在絵図に伝わるような大規模な近世城郭のスタイルを整えたのは、
おそらく慶長の大工事の時と思われる。

ただ、隆景が慶長2年に亡くなっているので、
その時点で32も櫓があったかというと、ちょっと疑わしい。


福島正則が芸備に入封した際、本城である広島城に12基の櫓を
新設していることから、三原城海側の10基の櫓についても、
福島家による増設と見る人もいる。
まあ、櫓だけじゃなくそれ以外にも手は加えられてるでしょうけど。

福島家以後には浅野家が入り、あとは明治の廃城まで浅野家が預かるんだけど、
この期間は時期が時期だけに、堀をさらう申請だとか、
石垣の修築の申請くらいしか出してない。

という事は、隆景ちゃんがおおむね造り上げたものに、
福島氏がさらに化粧を厚塗りしたものが完成形・・・みたいな感じと
捉えていいのかな~。

今後の調査・研究が進んで、より多くのことが解明されることを
祈るばかりです


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最終更新日  2012年10月31日 22時52分57秒


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