戦国ジジイ・りりのブログ

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2012年11月01日
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カテゴリ: 城(中国)
天守台を奥へと進む。



三原・天守台5から桜山



左側の山が、桜山。
山名氏によって築かれたとされる桜山城があり、
三原要害もあの山にあったと言われる。
そして三原城が築かれてからは、「甲の丸」が置かれたとされる。

ホントは桜山にも行きたかったけど、今は適期ではないので、
今回は諦めた。



造られたという。
そして、天守台のあるのは大島の位置だった。

善教寺 のところで書いたように、かつては桜山の麓まで海が迫っていたので、
撮影地点から桜山までは、堀も含め全てが海だった。

三原城の築城に伴い、山際までが埋め立てられて
東町が形成されたんだそうな。


三原要害は大島に築かれたとする説もあるけど、
砦であるならやっぱり桜山の方が地理的に有利だと思うんだよね。
三原城ができる以前は、山陽道も桜山の北側をぐるりと回り込んでたんだし。

そして、 九州へ向かう家康 も、あの山の向こうを進んでいったのだ。







三原・天守台6から西町エリア方面



こちらが西町エリア。
今回の旅の2日目で歩き回った沢山の寺が、あちらの山の
山麓や山腹に建ち並ぶ。
その中に、西の出城の役目を負った寺も含まれているのは、


昔はもっと見晴らしが良かったでしょうから、
寺町の様子がはっきり見えたかもしれない。
宗光寺なんかも、今よりもずっと規模が大きかったんだし。
(西町エリアの寺社は、 「三原編(11)」 ~ 「三原編(35)」 を
ご参照ください)



 【日本一の規模をもつこの天主台は広島城の天守閣なら6つも入るという
  広さを持つ。三原城が造られた1567年より約10年後に信長によって
  安土城が造られ、初めて天主台に天守閣が聳えるようになり、以後全国に
  流行しました。然しこの三原城築城の時はまだ天守閣を造る思想のない時代
  だったと考えられます。山城から平城に移行する時代のごく初期の城築です。】
  (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)

あれ?「天守」じゃなくて、ここは「天主」なんだ。
どの絵図にも確かにそう描いてはあるな。
まあ、どれも江戸時代の作画だからね・・・

日本一の規模だって。
漫然と歩いてるとそう広さは感じないけど、
↓写真であらためて見ると、確かに広いよな。


三原・天守台3



天守台とはいうものの、三原城には天守は置かれなかった。
一国一城令の後、鞆城の天守を移したという説もあるけど、
各種絵図にはどれもそんなの描かれてないし、かなり疑わしい

江戸期に描かれた三原城天守台にあるのは、どの絵も
3つの櫓を多門櫓で連結したもの。

うち2つは北面の東と西の隅にそれぞれ置かれていた。
まあ、言うなれば北東隅櫓と北西隅櫓、みたいな。

そしてもう1つの櫓が、ちょうど上の写真の撮影地点あたりにあった。
ここから西側を見ると、こんな感じ↓。


三原・天守台10から隆景広場~



正面に見えてるのが、 隆景広場 。 

正保年間(1644~1648)に幕府に提出された
「備後国之内三原城所」などでは、あのお向かいさんは南北に細長く延びる曲輪で、
「侍町」と書かれている。




三原・天守台8から北側水堀



天守台および本丸を取り囲む内堀は、現在はモスグリーンのバスクリン(←ウソです)
で満たされているが、絵図でははっきり確認はできないものの、
かつては海水がここまで入り込んでいたのではなかろうか。



では、天守台を下りて今度は下から天守台を拝見しましょう。


天守台への入り口があるのは、三原駅の北側。
北口のドアから少し先の西口の表示に従って構内を抜けて
隆景広場へ行く手前に、石垣がある。


三原・天守台石垣西側ガード下


これは本丸石垣。
一部近代の補修の跡があるし、この辺は積み直されたものだと思うけど、
形状はおおむね残されてる。
かつては天守石垣に続く石垣が、写真で言えば左の隅の方にあり、
ここは石垣で囲まれた細い区画になっていた。

慶応に描かれた「備後國三原城繪圖」では、
ここには長屋みたいな建物が描かれていて・・・牢屋?傘屋?(笑)。
字が小さくてちょっと読めましぇ~ん・・・


さらに数歩進むと、天守石垣の美しい勾配が姿を現す。


三原・天守台石垣西側2ガード下



実はこの写真のすぐ左側には、堀に面したベンチがひとつ置かれてるんだけど、
このベンチがまた人気でねえ~(笑)。
ここは何度も通ったんだけど、かなりの確率で誰かしら座ってた。

新幹線ガード下で、天守石垣が拝めるベンチ・・・
全国的にも、数少ない立地の良さ。
競争率が高いのも仕方がないわな

つっても、ここに座ってたほとんどの人は、
石垣なんか興味のなさそうな地元の人っぽかったけど。


↓天守石垣の南面と西面。


三原・天守台石垣西側4



↓隆景広場から見た、天守石垣の西面。


三原・天守台石垣西側5


 【(上の解説の続き)この裾を引いた扇の勾配の美しい姿は群を抜きます。
  しかも余人は真似るべきではないといわれた「アブリ積み」という特殊の工法は、
  古式の石積形式を400年経た今日まで立派に伝えております。

  1707年の大地震では、城内を役夫2万5千人を動員して修理した。
  しかし、破損個所は・・・「元のごとく成りがたかりしを、伝右衛門(竹原市下市)
  をして築かしめられけるに、遂に築きおさめければ・・・」とあるが、
  これは東北陵面のことと推測します。】
  (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)


アブリ積み?
聞いたことないなあ・・・

「アブリ積み」について調べてみてもロクな解説はなかったんだけど、かろうじて
国土交通省河川局河川環境課様の資料の中に見つけた。
それによると、

 【石の控えの寸法よりも面の寸法を高くした積み方。表面的には石が
  積まれているように見えるが、控えがなく不安定な積み方となる。】
  (「河川の景観形成に関する石積み構造物の整備に関する資料」より)

とある。

石積みといえば穴太衆が有名だけど、現在も続く穴太衆粟田家の積み方は、

 ・奥行を長く持ってくることで、重心が奥にかかるようにする
 ・石を横に寝かすことで、接点を増やす

なんだと「天下の名城」という番組の中で粟田家のご当主が
説明していた。

これを図にすると、こんな感じかな。


あぶり積み-2


控え(=奥行)よりも面(=表面)を高くするという事は、
石を立てるってことだよね。

粟田家では必ず石を寝かすと言っていたから、
つまりはやっちゃいけないやり方な訳だな。
横に寝かせて接地面を増やした方が、安定するに決まってるもんね。

上の国土交通省の資料の中でも、この「あぶり」は
【望ましくない積み方の代表例】として紹介されている。

アハハハ、そうなんだ~
ホントに今でも、この積み方が天守石垣の中に残ってるのかな~。

当初は天守を置く予定だったとも言われているけど、
やっぱり置かないで良かったんじゃ・・・(笑)。


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最終更新日  2012年11月01日 21時00分46秒


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