戦国ジジイ・りりのブログ

戦国ジジイ・りりのブログ

2013年05月23日
XML
カテゴリ: 旅日記(中国)
※「高山城(22)」の続きです。


古高山を下山して居館跡推定地へ向かう前に、とある寺に寄った。
次に行く寺は、三原へ行った際、本郷へ行ったら絶対行ってみようと
思っていたところ。

地図ではお寺の入口がどちらにあるのかよくわからなかったので、
まずは住宅地を抜けて裏手と思われる方から回り込んでみた。
ちょうど、東の 沼田富士 を目指す格好になる。


東西条・本郷・香積寺へ10




崩落とかない限り、4~500年ぐらいじゃ山の形なんてそう変わるもんじゃないから、
歴代小早川当主や隆景ちゃんも
同じ角度から沼田富士を見たかもしれない(←こんな妄想ばっかり)。


で、最初の頃は古高山はこんな風に見えていたのが


東西条・本郷・香積寺へ9・高山城


目的地の近くまで来ると、こんな風に変わる↓。


東西条・本郷・香積寺へ12・高山城


関係ないけど、途中の道にはこんな看板があった↓。


東西条・本郷・香積寺へ11


おお、なんかグサッとくるな~。
西条にあった 「献眼・献腎」の看板
ライオンズクラブって面白いよな・・・。


さて、寺への入口は見つからず、結局県道50号線まで出てから
入口を見つけた↓。


東西条・本郷・香積寺へ15



この道を奥まで入ったところに、香積寺がある。(場所は こちら


東西条・本郷・香積寺1



東西条・本郷・香積寺3



山門では、早速アイツがお出迎え~↓。
なんか、ほっとするなあ(笑)。
慣れってコワイわ・・・


東西条・本郷・香積寺4



まずは、山門のご紹介。


東西条・本郷・香積寺7



東西条・本郷・香積寺9



東西条・本郷・香積寺23



↑結構、時代を変えての修築の跡が見られる。
地味だけど、寺伝によるとこの寺は結構古いからね。



東西条・本郷・香積寺21



↑これは木鼻なんだけど、一体何の形なんだかわからない。
一部欠損してるようだけど・・・

これを別の角度から見ると、どうも柱に組んでないようで、
木鼻部分だけを貼りつけてるように見える↓。
なるべく古いものは残そうという努力の表れなのかな・・・



東西条・本郷・香積寺24



ただ、これはちょっとカンベンかな~↓。


東西条・本郷・香積寺29-2



たぶん、補修の一種だろうとは思うんだけど、
こんな細い棒を打ちつけて一体何の役に立つのか知識不足の私にはわからない。
この棒が急場しのぎのものであることを願うばかりです・・・



東西条・本郷・香積寺11



東西条・本郷・香積寺27



ビミョ~に微妙な感じの部分はあるけど、
古い部分を残しているせいか、派手さはなくても風格はある。


門を内側から見たところ↓。
バケツが写っちゃってるのはご愛嬌


東西条・本郷・香積寺20



で、こちらが本堂↓。


東西条・本郷・香積寺15



境内はそう広くはないので、どうしてもこんな撮り方になってしまう。
が、この本堂の大棟には


東西条・本郷・香積寺13



そして蟇股にも


東西条・本郷・香積寺16



うふふ、歴史ある小早川の本拠だもんね。
こうじゃなくっちゃね

思っていたより早く下山できたとはいえ、もう15:00だし
山中にいた時から何度も小雪がチラついて寒かったし、疲れていた。
が、小早川紋で復活した(笑)。

まあ、蟇股の方は右三つ巴になってるけど、
これは絶対小早川紋として付けてるよな。
そうだよな(←決めつけ)。


東西条・本郷・香積寺17



境内には、解説板があった。

 【三原市重要文化財

  木造地蔵菩薩立像 一躯   木造尼僧坐像 一躯

  地蔵菩薩は、像の高さ1.8mで一木造りである。ふくよかで堂々とした
  尊像である。鎌倉中期の作である。地蔵背後の裾に、元応2年(1320)の
  墨書銘がある。

  尼僧は、延命寺の開山と伝えられているが、廃寺となったため香積寺に移された
  ものである。像の高さ0.95mの寄木造りである。顎骨が張り、一文字に結んだ口、
  角ばった大きな頭、頑丈そうな体格など、尼僧ながら力強さときびしさを感じさせる。
  鎌倉期の作と考えられる。】
  (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)  


この収蔵品は見てないんだけど、尼僧の解説が面白い。
なんでも、鎌倉時代の女性の姿をよく表していると言われてるそうな。

つまり、鎌倉期の女性は角ばったゴツイ顔をしていたのか?
あれ、でも確か私が読んだ本では鎌倉頃には細顔が登場するって
書いてあったような・・・


平安期の絵巻物に書かれる美男美女って、みんな下膨れでしょ。
当時、米は蒸すのが一般的で、蒸した米は粘り気がなく固いんだそうな。
その固い米の他、おかずは大根・茄子などの野菜の他、
鳥獣魚貝の肉も細かく刻んで生食されていたのでかなりの咀嚼力を必要とし、
その結果顎関節が発達したのではないかという説がある。

蒸した米を「強飯」(こわいい)といい、
水を入れて炊いたものを「かゆ」といった。

「かゆ」の中で現在の私達が食べてるくらいの固さのものを「かたかゆ」といい、
もっと汁気の多いものを「弱飯」(よわいい)とか「姫飯」(ひめいい)と呼んだ。

平安も末期頃になると姫飯が多く食べられるようになり、
その結果、鎌倉時代には早くも細い顔が現れるようになったという。

現代でも、柔らかいものばっかり食べてる若者の顎が細くなってきたって
言われるもんね。
食生活は大事なのだ。


きっと、この尼僧像のモデルとなった女性は伝統的な食生活を続けていて、
強靭な顎を持っていたんだろうな
どんな像なのか、ちょっと見てみたい・・・



で、地蔵菩薩像の墨書の元応2年というのは、
年代的に小早川第6代当主・朝平(ともひら)の時代と思われる。

前年の元応元年(1319)には、伊予の海賊を捕えたということで
幕府からお褒めの書状が出されており、
小早川氏がすでに瀬戸内海に進出していたことが知られている。


ただね、このお寺は鎌倉期に創建されたものではないんだな。
で、香積寺の由来ですが、今回のサブタイトルを「元祖・香積寺」としたのは、
三原で「新・香積寺」に行ったからなのだ。
(三原の香積寺の記事は こちら )

香積寺は明応3年(1494年)小早川14代当主・興平の誕生祈願に
13代・扶平によって建てられたという、歴史ある寺。
上記リンクの記事では文禄年間に移転したとあるが、天正年間のことだともいう。

まあ、他の寺社の移転状況から見て、私も天正年間の引っ越しだと思うけどね。

元祖・香積寺が本郷に残った事情については、
「本郷町誌」に三原観光情報サイトよりもう少し詳しい記述がある。

 【三原に新しく建てた香積寺に、御本尊を運ぶことになった。
  真新しい御輿を担ぐため村の力自慢の若者衆がそろって寺にやって来た。
  雲一つないすがすがしい秋空のもと、行列は山門を出て坂道を下っていった。

  15丁ばかり進んだころ、突然黒雲が空一面に広がり、遠くで雷鳴がとどろいた。
  どうしたことか肩にのせた御輿がにわかに重くなり、前進することができなくなった。
  これは元の寺に帰ろうとする本尊の十一面観音の霊威であると人々は考え、
  銭三百文を帰りの駄賃として与えてもらい、高山城下の香積寺へ引き返したと
  いわれている。

  三百文に因んで、そのとき泊まった地に三百の名をつけたと伝えられている。
  なお、本尊は今なお旧香積寺に安置されている。】


本堂の戸は閉まっていたので、残念ながらこの御本尊様は
拝めなかったんだけどね。


にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
にほんブログ村





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2013年05月23日 23時11分42秒
[旅日記(中国)] カテゴリの最新記事


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

PR

×

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

りりじい

りりじい

カレンダー

コメント新着

王島将春@ Re:浅草&寛永寺法要編(8) 東国の成熟(01/08) はじめまして。福井市在住の王島将春(お…
よー子@ 墓参り2014(2) 慈眼寺~芥川龍之介と小林平八郎の墓(08/02) 前略 初めてお便りします。 質問ですが、…
伊藤友己@ Re:上野第三編(12) 寛永寺105/清水観音堂~越智松平の灯篭(06/20) 越智松平家が気になって詳しく拝見しまし…

サイド自由欄

よみがえる江戸城 [ 平井聖 ] 価格:2916円(税込、送料無料)






PVアクセスランキング にほんブログ村

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: