戦国ジジイ・りりのブログ

戦国ジジイ・りりのブログ

2013年05月24日
XML
カテゴリ: 旅日記(中国)
元祖・香積寺は明応3年(1494)、時の小早川惣領家当主・扶平(すけひら)に

香積寺の霊験によって生まれたのが、興平。


開山は、全庵一藺(ぜんあん・いちりん)。
「デジタル版 日本人名大辞典」によると、

 【周防闢雲(びゃくうん)寺(現泰雲寺)の覚隠永本に師事して印可をうけ、
  能登総持寺の住持となる。のち丹波永沢寺(兵庫県)、闢雲寺住持をへて、
  晩年阿波桂谷(けいこく)寺(現桂国寺)の開山となる。】

という経歴の持ち主。




 【彼は阿波に建てた寺が廃されたので香積寺に併合して、この寺の名を桂谷山とした】

とある。

どうも桂谷寺が廃寺となって沼田に来たらしいけど、
「デジタル版 日本人名大辞典」には香積寺の名はカケラも出てこない。
アハハハ・・・

この経歴に食いつく人間はそうそうおらんだろうと我ながら思うんだけど、
私には少々引っかかる部分がある。



大内氏と曹洞宗については、 「三原編(14)」 に少し書いてますので
そちらも見ていただきたいのですが、
まず、全庵一藺が印可を受けた山口の泰雲寺は、


が、そもそもは大内盛見が応永11年(1404)、
石屋真梁(せきおく・しんりょう)を招いて開いた寺だった。

石屋真梁は18歳で中国に留学し、入宋20年の履歴を持つ当時の名僧。
寺の名を闢雲寺(びゃくうんじ)といい、周防五刹のひとつに数えられる寺だった。
大内教弘の菩提寺でもある。


教弘は、 「高山城(19)」 に書いたように伊予の陣中で亡くなってますんでね。
瀬戸内海に浮かぶ興居島(ごごしま)なんて面倒な場所に墓があるもんで、
きっと私の歴代大内家当主の墓めぐりでは、
教弘の墓が一番最後に訪れる場所になるのであろう

いやいや、墓参りはともかく。

闢雲寺から出た全庵一藺が、総持寺の住持を務めたあと、
丹波の寺を経て古巣の闢雲寺の住持となった・・・
つまり、全庵一藺は大内氏とは深いゆかりがある。

そういう人が、小早川扶平の招きに応じて沼田に寺を開いた。



「流れ公方」と呼ばれる足利義尹(よしただ)が
山口に転がり込んでくるのが明応9年(1500)だから、
まだ当然、大内義興さんの上洛戦も始まってない時期なんだけど、
なんで大内氏とゆかりのある全庵一藺が小早川氏の寺を造ったんだろうと
ちょっと不思議な気がして、また「小早川家文書」を開いてみた。

そしたら、香積寺開創の前年、明応2年(1493)には
大内家重臣・内藤弘矩(ひろのり)から書状が数通送られてきていた。

その書状の中では、はっきりした言葉が使われてないので
どうも何言ってるのかわからないんだけど、
九州がどーのと言ってるから、諸国で地方武士の蜂起が相次いでいた
時期でもあるし、その鎮圧などに小早川氏も協力したのかもしれない。


ちなみに、内藤弘矩さんは名前こそ書かなかったけど、
「新高山城(8)」 で登場してるんですよ。

義興さんが家督を継いですぐ、冤罪で誅殺してしまった長門守護代、
それが弘矩さんです。
また、 「高山城(19)」 で陶弘護君の最期について書きましたが、
弘護君の殺害犯・吉見信頼をその場で成敗したのも弘矩さんと言われてます。
大内家内部では、かなりの力を持った人だったようです。

そうした人が、小早川家と何やらやり取りを交わしている・・・
で、この後ぐらいから大内家からの書状が増えてくるのだ。



全庵一藺が阿波に寺を開いたのは晩年のようだけど、
総持寺や闢雲寺の住持を務めてるぐらいだから、名僧といってもいい人だろう。
大内家とのパイプもあるし。

まだ小早川全体が大内氏の傘下に入ってない時期に、
大内氏ゆかりの僧が小早川家の寺を造るという不自然さが
どうにも引っかかった。

てことはね、あるいは大内氏による小早川絡め取り作戦のひとつとして
名僧を紹介したって可能性もあるんじゃないのかな~、なんて思っちゃった訳ですよ。
どこにもそんな事は書いてないんだけどね。




元祖・香積寺が沼田の地に残ったいわれを前回書いたけど、御本尊様が

「引っ越し、やだ!!」

ってダダをこねずに丸々ミワラへ引っ越してたら、
あるいは大内氏の影に気がつかなかったかもしれない。

ま、私の推測が全然的外れって可能性も充分にあるけど、
表立った歴史の隙間に隠された事情を想像するのは、実に楽しい。
推測がある程度当たってたら、もっと楽しい




ミワラといえば、怒涛の寺社めぐりをしたことを「三原編」に書きましたが、
私がミワラで回った26もの寺社のうち、ほとんどが三原城築城に伴う移転組。

おお~、高山城下にそんなに寺社があったのか~と最初は思ってたけど、
結構庶家の領地にあった寺も移転しているということを
最近になって知った。

ので、はっきりした場所まではわからないものの、
高山城の南麓、現在の本郷駅にほど近い場所にあったであろう寺は
大善寺と順勝寺ぐらいってことになるみたい。

順勝寺 の詳しい由来はわからないけど、臨済宗の巨真山寺(現在の米山寺)に
属していたといわれ、田坂義詮の弟が蓮如に帰依して真宗にあらためた。

大善寺 の創建の時期や由来もわからないし、こちらは新高山の麓にあったとも言うけど、
隆景の妻(問田大方)の菩提所ではあったので、
高山城および新高山城の麓にあった寺は、
いずれも小早川家にゆかりの深い寺ばかりだったと言ってもいいと思う。

寿徳寺 と 法常寺 は、城下といえなくもないけど、新高山城の北・船木の地にあったらしい。


まあ、これらの寺は現在ではミワラにあって本郷には影も形もないので、
小早川氏に特別な執着があって、かつミワラに残っている寺を回った人でないと
かつては城下に歴史ある寺が存在していたという実感とか感慨は
なかなか湧きにくいかとは思いますが(笑)。

ただね、今の本郷に見えるものだけが小早川の歴史じゃないんだよ~って
言いたかっただけなんです。


だからと言って、別に隆景ちゃんが多くの寺社を移転させたことを
恨みに思ってる訳じゃないですが。

なんと言っても、ミワラにあれだけの寺町を造ってくれたおかげで、
去年の夏にはかなりの数の、しかも古くて素敵な寺社をまとめて回れた訳だし



しかし、寺社の移転でやはり気になるのは、
いくつか元の場所に残った寺があること。

筆頭はやっぱり、米山寺だよな~。
墓があるから残ったって可能性もあるけど、
竹原家の菩提寺・法常寺は墓を残して一旦船木へ引っ越して、
さらにその後ミワラへ引っ越しているんだから、米山寺だって同じようにできたはず。

あと、新高山を下山した後に行った 明智寺 。
あの記事を書いた時には小早川則平が創建したとしか知らなかったけど、
書いた後で「本郷町誌」に則平の護持仏をまつるために堂を造ったものだったという
記述を見つけた。

まだ他にも残った寺はあるのかもしれないけど、
ひとまず私が知ってる中で、三原城築城前にあった寺で、
ミワラへ移転しなかったのはこの2つだけ。

どちらも小早川当主にゆかりの深い寺・・・
やっぱ、プライドがあって拒否ったのかな(笑)。

佛通寺も元の場所のままだけど、さすがに佛通寺まで移転させようとは
隆景ちゃんも思わなかったでしょうからね。
あそこは、周及が選んだといわれてる場所だから。


にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
にほんブログ村





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2013年05月24日 23時51分44秒
[旅日記(中国)] カテゴリの最新記事


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

PR

×

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

りりじい

りりじい

カレンダー

コメント新着

王島将春@ Re:浅草&寛永寺法要編(8) 東国の成熟(01/08) はじめまして。福井市在住の王島将春(お…
よー子@ 墓参り2014(2) 慈眼寺~芥川龍之介と小林平八郎の墓(08/02) 前略 初めてお便りします。 質問ですが、…
伊藤友己@ Re:上野第三編(12) 寛永寺105/清水観音堂~越智松平の灯篭(06/20) 越智松平家が気になって詳しく拝見しまし…

サイド自由欄

よみがえる江戸城 [ 平井聖 ] 価格:2916円(税込、送料無料)






PVアクセスランキング にほんブログ村

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: