戦国ジジイ・りりのブログ

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2013年07月01日
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カテゴリ: 城(中国)
ヨシ、今回こそ城内まで行くぞ


福山城復元図・白図(伏見櫓手前まで)


上の図で「?」の付近↓。


福山・福山城・二の丸石垣南面11



石垣の下にはこんなものがあった↓。


福山・福山城・二の丸石垣南面9


なんすか、これ。
井戸?


三の丸に2ヶ所井戸があったといわれる。
このうち、今日では「現存する唯一の井戸」と紹介される井戸は本丸に1つあるのみ。

「備陽六郡志」には、

  一、井

  鉄門升形之内ニ壱ヵ所
  御台所脇ニ壱ヵ所


と記載がある。

この場所はマル2の鉄門の内側ではある。
写真の石組は全然違うものかもしれないけど、
縄張図の黄色のエリアにはかつて井戸が確かにあったらしい。



福山・福山城・二の丸石垣南面12


やっぱ、石垣はいいなあ~
ここから先は、階段を上がる。
上から見下ろしたところ↓。


福山・福山城・二の丸石垣南面13



備後と備中の一部を与えられたカッチン(水野勝成)は鞆から上陸し、

神辺城も歴史のある城だし、カッチンの前に国主だった福島正則は
家老の福島正澄を神辺城に入れた。

古い山城である神辺城は、福島時代になって
近世城郭にリニューアルしたと思われるが、元和元年(1615)の
一国一城令によって城郭の主だった部分は破却されたともいう話もある。

が、福山城内には神辺城からの移築とされる櫓が複数あるので、
入封した時にはすでに城としての機能を果たさなかったから
福山城を新たに築いたという説はどうなんだろう?という疑問が残る。

神辺城を拠点としなかった理由については、他にも
落城の経験を持つ城だったからカッチンがイヤがったという説もある。

まあ、水野勝成という人を考えた時に、
落城経験があったからって有効だと認めればそのまま神辺城を拠点としたと
私は思うけどね。

それよりは、やはり築城の時期が問題だと思う。

神辺城全盛の頃は、当時山側を通っていた山陽道にも近く、
確かに交通の要衝だった。

しかし、カッチンの備後入封は元和年間。
「元和偃武」(げんなえんぶ)という言葉が指すように、戦いの時代は終わった。

各戦国大名はみな山を降りて平城、あるいは平山城に移って久しく、
領国の発展にファイトを燃やすカッチンが
バリバリの戦国気風を残す神辺城に本拠を置かなかったのは
当然の流れといえるのではなかろうか。



神辺の地を選ばないとすると、他に使えるような城もないし、
新たに自分の城と町を造り上げなければならない。

着任したカッチンは、領内の巡視から始めた。
これには城地の選定の意味合いも含まれており、その結果、
品治郡桜山・沼隈郡蓑島・深津郡野上村常興寺山の3ヶ所が候補に上がった。
そして、常興寺山という小山・・・現在の場所に決定した。


その当時、城下の部分は芦田川の河口に広がる干潟であり、
築城とあわせて埋立も行われた。
埋立工事は後の時代にも引き継がれ、段階的に陸地部分が増えていった。

このあたり、ミワラと似てるよね。
ミワラを小早川隆景が造り上げたように、
福山はカッチンが手掛けて繁栄させた町だった。


まあ、干拓とひとくちに言っても簡単じゃないし、
カッチンが隠居した頃の正保年間にも大規模な干拓が行われた。
この時の工事は難航したようで、たびたび堤防が切れたりした。

ある時、工事を巡視に来たカッチンに地元の庄屋が

「塩崎大明神様にご祈願されてはいかがでしょう?」

と進言し、カッチンは素直に祈願に出向いた。
その後工事は順調に進み、「千間土手」といわれる堤防が完成した。
カッチンは大明神に感謝し、あらたに社殿を建て、所領を寄進したという。

治水工事ってのはどこでも似たようなエピソードがつきものだけど、
実際大変な工事だったんでしょうね。
人の力だけでやる訳だから。



常興寺山を選んだことについて、福山城博物館企画展
「福山城展-城郭と城下町-」の図録では、

 【芦田川の川口を押えた要害の地で、北に丘陵を背にして神辺平野を控え、
  南は内海に臨み、外港としての鞆とも交通の便がよく、備後の中心地としては
  最適の場所であった。】

と絶賛する。


もちろん、カッチンの一存だけで新しい城を築けるはずもなく、
幕府に工事の申請を出している。

西国の押さえとしての役目を負っていたため、
西国の大名たちが反旗を翻して東上するような有事の際にも
陸・海両面での防御に適していた福山の地へ新城を築くことを、幕府は許可した。

この辺、 わざわざ辺鄙な萩を指定されたどこかのお大名 とはえらい違いだ


して、めでたく城地の選定も済んで許可をもらった後は体力仕事が待っている。
カッチンは常興寺山の北にある天神山に仮住まいしながら現場の指揮にあたり、
時には自らモッコをかついで作業したなんて
いかにもカッチンらしいエピソードが残っている。

築城にあたり、各方面から人材を集めた他、
幕府からも絵図面割師と石垣奉行を派遣してきた。

この石垣奉行が、花房志摩守と戸田土佐守・・・

花房君は、備中シリーズで何度も出てきたすけべえ・・・もとい、
助兵衛(職秀)君の方じゃなく、その一族で備中高山城主を務め、
かんべ~に水攻めの献策をしたとのウワサもある正成君の方です。
(忘れた方は 「備中高松城(4)」 をご覧ください)

また、正成君は 「岡山城(9)」 で書いたように、
八丈に流されたひでくん(宇喜多秀家)に援助をし続けた人でもあります。

ウィキペディアには「臨終の間際まで秀家の安否を心配していたらしく、
花房氏の家名が続く限り宇喜多氏を援助することを遺言したという」ともある。

正成君が福山に出張してきたのは晩年のことで、
工事の監視をする一方でひでくんに支援物資を送っていたのね~なんて、
思いがけず久々の名前にちょっとしんみり・・・



え~、すみません、思いっきり脱線しました(笑)。

西国の押さえの立場ではあっても、やはり幕府の監視も受けていたことが
ここからわかる。
他にも幕府に遠慮したか、もしくは許可が下りなかったと思われる部分がある。


さて、上の写真に戻りますが、写真でこの階段の右手(縄張図ではマル3)には
かつて階段状に櫛形櫓・鑓(やり)櫓・鉄砲櫓の3つの櫓が建ち並んでいた。

 ・櫛形櫓・・・具足櫓ともいい、弓・鉄砲・武具などを収めていた。
 ・鑓櫓・・・槍を収めていた。
 ・鉄砲櫓・・・鉄砲を収めていた。

このうち、櫛形櫓は神辺城からの移築といわれ、鑓櫓は櫛形櫓の付櫓だというので、
鑓櫓も神辺城からの移築なのかもしれない。

現在は階段の左手(写真では右)はスパンと切れてるので、影も形もありません。
マル2の鉄(くろがね)門が福山駅の新幹線改札口のあたりといわれるので、
位置的に上の3つの櫓も福山駅の用地に含まれているものと思われます。



階段を上まで上がると、石垣上の土塀の屋根も近くなる。
この場所の軒丸瓦は


福山・福山城・二の丸石垣南面15



水野氏の紋は、沢瀉(おもだか)は沢瀉でも「立ち沢瀉に水」のがメジャー。
が、この軒丸瓦の「丸に二本沢瀉」も水野家の家紋であるらしい。


上がりきったところから見下ろすとこうなる↓。


福山・福山城・二の丸石垣南面16



下の車が止まってるあたりには大きな枡形を、
駅の構内には柱・扉・鴨居に鉄を張った鉄門を、
そして手前のレールのあたりには櫛形櫓・鑓櫓・鉄砲櫓を妄想しながら、
上の写真を見てくださいね。

結構、広いよね。


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最終更新日  2013年07月01日 23時11分45秒


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