戦国ジジイ・りりのブログ

戦国ジジイ・りりのブログ

2013年07月17日
XML
カテゴリ: 城(中国)
では内部へ。


福山・福山城・天守20




外観はそれっぽく仕上げてあるものの、
他の再建天守と同じくRC造(鉄筋コンクリート構造)で博物館になっている。
内部は撮影禁止ですので、写真はありません。

天守焼失後の焼け残った天守台の写真を見てると、正直なところ




て私は思っちゃうんだけど、しょうがないわな。



今回、内部へ入ったのはちょうど企画展「福山城展-城郭と城下町-」を
やってたから。


「なんでこのテーマでこれを出す?」

ってのもちらほらあって、なんかイマイチ・・・
人によっては、

「ここでこれが見られるなんて~」

って喜んでた方もおられるようだから、人それぞれのようです。

ただ、図録の解説なんかでも「う~ん」て箇所が結構あるし、
福山城博物館のスタッフとは感覚が合わないらしいことがわかった

いいとか悪いとかの評価じゃないですよ。
仮にも相手はプロなんだし、ど素人の私が学芸員様にケチつけるなんて
そんな大それたこと・・・

でも図面の類は結構あったよな。
これはよかった。
あとは常設展の方が見ごたえあったような・・・(笑)。





北側の真下に見えるのは、元の天守礎石↓。
空襲で罹災した他の城の天守と同じように、礎石群だけ別の場所に移されている。


福山・福山城・天守8から旧天守台



そこからちょっとカメラを上に振ると、真ん中へんに見える大きな建物がある。
これが福寿会館で、貸会場なのかな。


福山城復元図・白図(12話)



福山・福山城・天守10から福寿会館




福寿会館のある一帯はかつて縄張図のマル12の五千石蔵があった場所。
「新版福山城」にはちょっと面白い紹介がされている。


 【ここには御用米蔵が数棟存在し、五千石蔵とも称し、水野家時代に幕府から
  預かった米を貯蔵していた。

  寛永11年(1634)5月、九州の豊後から幕府に納入する米五千石を預かって
  貯蔵した記録があり、寛永16年(1639)には、備中成羽からの米
  五千石を預かり、これは築切にあった浜の蔵に貯え、合計1万石を収穫期には預かり、
  古米を売りはらっては新米に取りかえて、有事に備えたのである。

  この古米が出るので、福山の武士や町人はいつも古米を食べていたといわれている。】


アハハハ・・・
笑っちゃいけないけど、責任ある立場ってのも大変だねえ~。

まあしかし、このエピソードから幕府の援助は築城時のハード面に限らず、
引き続きソフト面の援助を受け連携を取っていたことがわかる。

その後も城下の民は古米を食べつつ、幕府の米を預かっては江戸へ送ったり
飢饉があった年には救助米として困窮した地域に送る手配をするなど、
「江戸幕府福山支社」みたいな感じで御用米を差配していたらしい。

享保以降は預かる米も減らされて米蔵も他へ移されたようで、
五千石蔵は不要となりいつしか建物は崩れてしまったともいう。



福寿会館より北の少し小高い場所には、寺社がいくつか建ち並ぶ。
行きたいのはヤマヤマだけど、ちょっと時間が足りなさそうだよな~。
とりあえず、今日は無理。
明日・明後日で時間が余れば少しでも寄りたいと思ってるんだけど・・・

が、遠目からでもあの辺の造りはやはりただの寺町じゃないことがわかる↓。


福山・福山城・天守11から北寺町方面-2



ああ、あの立派な石垣。
うう、見に行きてえ・・・


その少し左側は、こんもりした小山↓。


福山・福山城・天守12から福寿会館-2



丸で囲ったうちのたぶん左半分くらいが天神山といわれている小山で、
築城の際、あの辺にカッチン(水野勝成)が寝泊まりして現場に出勤したという。

天神山とは切り通しで画され竹柵で取り囲み、
その背後は川を通して搦手の守りとしたというが、
大手の厳重な造りと比べるとやはり弱っちい感は否めない。



こちらは確か、南西の方角↓。
戦国期には遠くに見える山々にもぽちぽちと山城があり、
有名な草戸千軒遺跡もこの方角にある。


福山・福山城・天守15から明王院方面




で、こちらが南側↓。
真下は本丸御殿跡地。


福山・福山城・天守17から



いやあ~、たかだか標高20m程度の小山なんだけどね。
さすがに天守の最上階からは、眺めがいいわあ~。

城下の眺めは築城当時とはもちろん違うけど、
西国の鎮衛としての重責を担って築き上げたこの天守から、
カッチンもきっと良き眺めをご覧になったであろう。


最上階から廻縁に出る扉は、水野紋つき↓。
四隅についてるのはハートじゃなく、 猪目 (いのめ)ね。


福山・福山城・天守18



ちなみに、天守最上重の外観はこうなっている↓。


福山・福山城・天守3-2



どの程度焼失前の外観を再現してるのか古写真と比較しようと思ったら、
前回の記事で書いたように、ここは窓の上まではね上げの雨戸で覆われているので
全然わからんかった

再現度のビミョ~な再建RC天守の細部を見るってのもなんだけど、
城郭建築の基本をちょっとばかり紹介しようかな。


これまで数多くの寺社の記事を読んできてくださった方は、
建築部材についても結構覚えていただいてるんじゃないかと思いますが、
城郭建築ってのは寺社建築の流れをくんでます。

そもそも私が寺社好きになったのも、
城郭建築の本を読んで独学で勉強している中で、

「やっぱ、おおもとの寺社建築を理解しないといかん」

と思ったから。


ただ、流れをくんでるといっても、あくまで城は戦闘用施設だから
寺社建築とは違う。
城が寺社建築を取り入れてるのは、「格」の面が大きいと思われます。

で、再建福山城天守は、4重までは壁面はのっぺらぼうの塗籠。
最上重だけが上の写真のように柱・長押・肘木の形を出し、
窓は華頭窓、廻縁つき。

2階以上の楼閣建築では最上階は下の階とは別格で、
てっぺんを華やかに飾り付けた。
城においてもそれが受け継がれ、特に天守では寺社と同じように
華やかな造りとし、格を高めた。

本来は、柱などは木材をそのまま表に出す「真壁造」が格が高いんだけど、
防火という観点から城郭建築では柱の形を残して塗り籠めるという
方法が多く取られるようになった。


「柱の木材を見せるって言われても、ピンとこない~」
って声が聞こえてきそうですが、城内にはちょうどいい例があります↓。


福山・福山城・本丸46・伏見櫓



これは 「福山城(4)」 で掲載した伏見櫓北面の写真ですが、
1階部分だけ柱が出てるでしょう?

私が伏見櫓を本丸内部から見た時にヘンだと思ったのがまさにこれで、
このスタイルは原則から外れている。

最初は最上重のみ柱形や長押形を出してたのが、
時代が下ると下層も柱形などを出すようになったという。

だから、最上重もしくは全層で柱形を出すのはいいんだけど、
最下層だけ木材を出す真壁造風にするってのは
おかしいんじゃないかと思ったんだよね。

ただ、実は福山城天守の古絵図で伏見櫓と同じように
最下層だけ木材を出してるように描かれている絵がある。

ので、なんかヘンな感じもするものの、
あるいはこれが過渡期のスタイルだったのか?とか、
伏見櫓は元から最下層だけ真壁造で、新築の天守もそれにならって
同じように造られたのか?とか、色々想像は沸くものの
なんか宿便を抱えてるみたいでどうもスッキリしない。

あ、私は軟便体質なので宿便に苦しんだ経験はないんですけどね。
て、私の便通なんかどうでもいい?


という感じで、再建福山城天守は私が学んだ建築の原則に則ってます。
ヘンなのは伏見櫓の方。
櫓は天守とは違うけど、基本は同じだと思うんだよね。

どうにもわからないなあ・・・
どこかに伏見櫓と同時期に建てられた櫓があれば比較できるかもな~。
これについては、今後の宿便・・・いへ、宿題です。


にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
にほんブログ村





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2013年07月18日 00時04分40秒


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

PR

×

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

りりじい

りりじい

カレンダー

コメント新着

王島将春@ Re:浅草&寛永寺法要編(8) 東国の成熟(01/08) はじめまして。福井市在住の王島将春(お…
よー子@ 墓参り2014(2) 慈眼寺~芥川龍之介と小林平八郎の墓(08/02) 前略 初めてお便りします。 質問ですが、…
伊藤友己@ Re:上野第三編(12) 寛永寺105/清水観音堂~越智松平の灯篭(06/20) 越智松平家が気になって詳しく拝見しまし…

サイド自由欄

よみがえる江戸城 [ 平井聖 ] 価格:2916円(税込、送料無料)






PVアクセスランキング にほんブログ村

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: