戦国ジジイ・りりのブログ

戦国ジジイ・りりのブログ

2013年07月24日
XML
カテゴリ: 城(中国)
前回、チャイナガールの撮影スタジオと化していた
神辺二番櫓跡の写真を載せましたが、あの写真のはじっこには
実はこの方も写っておられました↓。


福山・福山城・二の丸5・阿部正弘公銅像



 【阿部正弘之像

  太平洋の波高く、幕末内外多難の時に際し、老中筆頭として国政を総覧し、近世幕藩
  体制における鎖国の旧弊を断って日米親和の条約を結び、開国への道を求め
  近代国家への扉を叩く。

  阿部正弘は福山藩阿部家七代の藩主にして弱冠25歳で閣老に任じ、爾来10有4年

  庶民の中に人材を登用し、藩政を改革し教育に明日の世代の形成を託して藩校誠之館を
  開き、進んで西欧の学術をも取り入れ、その後の福山文化の発展に貢献す。

  市制60周年の記念すべき年にあたり銅像建立を発起し、先人の遺徳を偲び
  明日への躍進を誓う。        昭和53年4月建之】
  (現地碑文より)


一般の歴史ファンの綴る福山城の訪城記では、
ディープに歴史を語るファンを除いては
人に関する記述はほぼカッチン(水野勝成)に限定されるといっても
過言ではないだろう。

しかし、福山城の歴史においては、水野氏5代よりも阿部氏10代の治政の方が長い。
なのに、ほとんど触れられないというちょっと可哀想な阿部さん。


もっと可哀想なのが阿部氏の前に入った松平氏。
ここは完全にすっ飛ばされる。
と言っても、私もよく知らないし書くつもりはないんですが(笑)。


・・・ないけど、いちおうどんな人なのかちょっと調べてみたら、
松平は松平でも、奥平松平氏らしい。

え~っ、奥平氏?
マジで~!?



奥平氏が松平を名乗ることになったいきさつは、
「忍編(1)」 にチョ~簡単に書いてますが、
長篠城の戦いで奥平氏の名を上げた信昌様、そして家康の娘の亀姫様の間に生まれた子・
忠明が奥平松平氏の初代で、福山城に入った忠雅は3代目。

が、奥平松平氏は信昌様の孫の代で相続のゴタゴタがあったらしく、
忠雅は血縁的には初代・忠明のひ孫であり、奥平信昌には玄孫(やしゃご)になる。

奥平松平氏が福山に入ったのは10年で、その後は阿部氏が入るから
松平氏は1代限り。
藩主である忠雅は最後の1年程度しか福山にいなかったらしい。

フツーの歴史ファンの訪城記では歴代城主として「松平氏1代」程度にしか
出てこないけど、1代・10年じゃ影が薄いのは致し方ない。
奥平松平氏になんらかの愛着を持ってる人(←わたくし)でないと
まず書かないよな。


あ、水野氏の断絶後は福山は一度天領になってるみたい。
その後奥平松平氏が入り、さらに阿部氏が入るという経緯をたどる。


阿部氏については、福山に行く前までは私は正喬(まさたか)さんしか知らなかった。

TV、特にドラマの類は子供の頃から苦手(アニメは除く)なんだけど、
比較的大河ドラマは民放のドラマよりは見た方で、
その中でもなぜか西田敏行の「八代将軍吉宗」だけは再放送も見たし、
ずっと後になってスカパーの時代劇チャンネルでも再放送を見た。

ので、吉宗の側近とか老中の名前は割と頭に残っていて、
阿部正喬は秋野太作が演者だった(笑)。

だから、譜代として幕閣に名を連ねた家柄かな~程度に思ってたんだけど、
正喬さんは傍流の家柄みたいね。

関係ないけど、正喬さんも忍藩主を務めていて、
奥平松平氏といい、福山藩と忍藩は妙な縁がある。
忍藩も譜代が入った領地のようだからね。


え~っとそれで、福山藩の方は阿部氏の本家筋のようですが、
阿部氏は三河の出身で酒井・本多・大久保などと並ぶ松平家古参の家臣。
だからやっぱり譜代なんだな。


なので、福山藩はまず水野氏。
初代・カッチンは家康のいとこであり、徳川家の外戚。そして譜代。

天領時代は幕府から代官が派遣された(城代は丸亀藩・京極氏)。

次の奥平松平氏は家康の娘の血をひく外戚。これも譜代。

最後の阿部氏はバリバリの徳川譜代。


という流れで、天領時代をのぞいてはすべて譜代が入っており、
天領時代は幕府直営みたいなもんだから、福山が重要視されていたことが窺われる。



で、阿部さん。

宗家からも老中や大坂城代を出す名家であったが、
黙っていて重要なポストが転がり込んでくるハズもなく、
幕閣入りキャンペーンなども必要だったらしい。
このため、阿部時代の藩主は藩の経営には関心が薄かったと
ウィキペディアでは紹介されている。

しかし、教育面ではなかなかのものがあったらしく、
上の解説に正弘が藩校・誠之館を開いたとあるものの、
それ以前にも4代目が藩校・弘道館を開き、5代目も学問所を作っている。

弘道館は身分の別があったが、正弘は誠之館を開く際、身分の区別をなくしたという。
解説には「藩政を改革した」とあるものの、正弘が福山入りしたのは
天保8年(1837)の1度きりであったらしい。

嘉永5年(1852)には1万石を加増されて、
カッチンがもらった福山10万石は阿部時代になって11万石へとアップした。
が、加増分は誠之館へつぎこんだというからすごい(笑)。


正弘は江戸で奏者番⇒寺社奉行と順調に出世を遂げ、
24歳にして老中の仲間入り。
水野忠邦を追い落として老中首座になったというんだから、
頭のキレる人であったらしい。
ちなみに、このあたりで遠山の金さんも南町奉行になっている。



開国前後の動乱はいちおう教科書で簡単に習うのでご存知かと思いますが、
幕閣といっても徳川斉昭、松平慶永(春嶽)、島津斉彬などの英邁君主と交わり、
川路聖謨(かわじ・としあきら)やジョン万次郎を採用。

四賢侯会議からは親藩・外様も幕政に参加させるよう改革を求められて
それに応える姿勢を見せ、その他市井からも広く意見を求めた結果、
勝麟太郎(海舟)の意見書が正弘の目に留まるなど、
進歩的で人材を重視する人であったらしい。

18世紀の終わり、ガイジンが日本に訪れるようになって海防の強化に乗り出した幕府は
海岸防禦御用掛(かいがんぼうぎょごようがかり・海防掛)を設置、
元は常設じゃなかった海防掛を正弘が常設とした。

それに関連して、大久保忠寛(一翁)や 永井尚志 が抜擢され、
歴史に名を残す人達がたくさん表舞台へ登場するようになる。


まあ、幕閣の中心人物だから当然っちゃ当然なんだけど、

あら、この人も。
まあ、この人も!


みたいに、自分の知ってる人の名前が色々出てくると、
そうか、そうつながってくるのか~と正弘さんを調べるほどに段々面白くなってくる。


実際には上に名前を出した人達以外にも沢山の人材を掘り起こしており、
そんな正弘さんの人柄を象徴するような話を松平春嶽さんが残していて、

「なんで自分の意見を積極的に述べないんですか?」

とある人が聞いたところ、

「自分の考えを言ってうっかり失言でもしようものなら、
上げ足を取られちゃうかもしれないじゃん。
だから、人の話をよ~く聞いて、いいものは取る、
悪いものは捨てる、を心がけているのさ。フフフ。」


と答えたという。


身分や信念にとらわれず、広く意見を求め人材を登用する正弘さんは
現代の感覚からすると理想的な政治家のように思えるけど、
どんなことにも裏表はあるもので、諸大名が幕政に干渉するきっかけを作り、
それがために幕府の力を弱めたとする見方もある。
また、譜代からは弱腰と取られ「瓢箪鯰」とあだ名されたともいう。

瓢箪鯰(ひょうたんなまず)とは

 【〔「瓢箪で鯰(なまず)を押さえる」から〕とらえどころのないさま。
  また、そのような人。】
  (三省堂 大辞林より)

だそうな。


大きく時代が変わろうって時に、内も外も大変だったんだね~。


結局、嘉永7年(1854)3月3日、日米和親条約を締結。
その後、幕府内の人事で井伊直弼に代表される開国派に睨まれることになり、
老中首座を辞任。

引き続き老中として安政の改革に取り組むが、安政4年(1857)6月17日、
現職のまま38歳の若さで還らぬ人となる。
死因については一般的に過労死あるいは心労とも言われるが、
ガンによる病死とか譜代による暗殺なんて説もあるらしい。



激動の時代を幕府の中心として生き抜き、
福山の歴代阿部氏藩主の中では最も著名な人物といえるであろう正弘さんは、
福山城内ではすっきりとした立ち姿を見せる。

細おもてでなかなかのイケメンに造ってあると思うけど、
肖像画の彼とはだいぶ違っている。


阿部政弘肖像画
      (「阿部正弘公肖像画」の白黒写真 二世五姓田芳柳筆 福山誠之館蔵。
       画像はウィキペディアから)


ぽってりちゃん

この画像は保護期間満了だというので掲載してますが、
同じ「阿部正弘」のページにはこんなエピソードが紹介されてます。

 【正弘は肥満体であり、長時間の正座が苦痛だった。しかし、相手の話を聞くときは
  常に長時間で正座をしていた。正弘の退出後、茶坊主が正弘の座っていた跡を見ると、
  汗で畳が湿っていたという(木村芥舟の著より)。】


アハハハハ~!!
太ってる人って汗っかきだしね。

しかし、畳が湿るほど汗をかいてたんなら顔だって汗をかいてたハズで、
相手からすれば

「コイツ、汗ダラダラでキモイ」

とか思われてたかもしれないし、濡れたまま長時間座ってれば
袴もしわくちゃになりそう・・・

それに、人が座ってた後をのぞく茶坊主もどうかしてるよ~!!
とか、色んな妄想やツッコミが止まりません(笑)。

いや、デブは好きじゃないけど別に正弘さんをバカにしてる訳じゃないですよ。

幼い頃から俊才として評判で、ために当時藩主であった正弘の兄・正寧(まさやす)は
若くして藩主の座を正弘さんに譲ったというし、
動乱の時期に改革を断行した日本のリーダーというと遠い世界の人のようだけど、
こんなキモ・・・いへ、ほほえましいエピソードが残っているおかげで
人間・阿部正弘を身近に感じられるってもんです。


にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
にほんブログ村





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2013年07月24日 22時33分05秒


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

PR

×

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

りりじい

りりじい

カレンダー

コメント新着

王島将春@ Re:浅草&寛永寺法要編(8) 東国の成熟(01/08) はじめまして。福井市在住の王島将春(お…
よー子@ 墓参り2014(2) 慈眼寺~芥川龍之介と小林平八郎の墓(08/02) 前略 初めてお便りします。 質問ですが、…
伊藤友己@ Re:上野第三編(12) 寛永寺105/清水観音堂~越智松平の灯篭(06/20) 越智松平家が気になって詳しく拝見しまし…

サイド自由欄

よみがえる江戸城 [ 平井聖 ] 価格:2916円(税込、送料無料)






PVアクセスランキング にほんブログ村

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: