戦国ジジイ・りりのブログ

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2013年07月25日
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カテゴリ: 城(中国)
さて、肖像画とはだいぶ違う阿部正弘さんの像付近のお向かいは



福山城復元図・白図(17話)西面




福山・福山城・二の丸6・鐘櫓下と台所門



ここが縄張図27の場所で、 人質櫓 の南で一旦飛ばしたところです。

右側の建物が鐘櫓。
かつては鐘櫓の手前に火打櫓があり、左側の石垣上には多門櫓が続いていた。

まあ地形と構造物から、防御特性を備えたスペース・・・

というのも、ここは坂になっていて、どん詰まりの部分では
せっかくの石垣の高さが半減してしまうのだ。

上から見た方がわかりやすいかな↓。


福山・福山城・本丸37・人質櫓付近から鐘櫓下



なんか変じゃね~?と思っていたら、最初の写真の左側の石垣の途中は
かつて台所門があった場所だった。

本丸御殿があった当時は鐘櫓のすぐ近くまで御殿の建物がせり出しており、
最も鐘櫓に接近した区画は「台所」。
筋鉄御門が大手門、棗御門が搦手門、そして台所門がお勝手口みたいな?

ただ、台所門はまたの名を馬出門、ジャコノ門ともいう。
馬出門の名称の方が一般的のようではあるけど、

まあ、通常本丸御殿の大きな台所なんて普段使われる場所じゃないけどね。

でも、門といっても今はご覧の通り石垣で囲われてますね。
ここには門の存在を知らないと見過ごしちゃうかもしれない、
石垣の継ぎ目があるのです↓。


福山・福山城・二の丸6・鐘櫓下と台所門-3




左側の石垣と正面の石垣の接続部分も変な段差ができていて、
おかしな見栄えになってるしね。

石垣の上に多門櫓が続いてたのなら、ここは埋門なのかと最初は思った。
が、ちょっと絵図が小さくてよく判別できないんだけど、
薬医門、もしくは高麗門のような屋根を持った独立した門が描かれている絵図がある。

さすがに元和の築城で本丸上段への数少ない出入口のひとつに
薬医門は置かないだろうと思うので、高麗門なのかな。
「備後歴史探訪倶楽部」様の解説ページでは、
水野氏時代以降に渡櫓門に替えられたとしている。

いずれにせよ、城が現役の時代にはここはずっと門だった。

で、今はなぜ埋められてるかというと、
廃城後に二の丸の土地は払い下げとなり、ここには民家が建っていたようなのだ。
石垣が開いたままだと敷地がつながってしまうので、
ふさがれてしまったらしい。


「福山城展」の図録に掲載されてる絵図の中には、
戦後に描かれたと思われるものもあり、それには本丸下段に
明らかに城の建造物ではない民家のようなものが描かれている。

台所門の虎口はちょうど石垣で陰になっちゃってるのでよくわからないけど、
本丸下段にはあちこちにこんな建物が描かれているので、
同じような感じだったのかもしれない。

復興建物を「外観を復原した」と胸張るより、
こういう部分を復元したらどうかと思うんだけど・・・
せめて解説板を立てるとか。

現在は坂になってる部分も、元は平らで土砂で埋まってしまったもののようだから
堆積分を取り除いたらどうかな?


では先へ進みましょう。
この先の左には、うっすら盛り上がりがあった↓。


福山・福山城・二の丸11・西帯曲輪



さらに北側にはなまこ壁ふう現代的建物が↓。
ここが神辺三番櫓跡付近と思われます。


福山・福山城・二の丸12・神辺三番櫓付近



上2枚の写真は、道の左手。
右手には本丸上段の石垣がそびえてます↓。
木に隠れちゃってるけど、横矢のかかる部分が人質櫓の石垣。


福山・福山城・二の丸10・人質櫓下



福山・福山城・二の丸13・人質櫓北西隅



福山・福山城・二の丸15・人質櫓下



上の3枚は上から順に人質櫓石垣の西面・北西隅・北面と
ずるっと回り込んで撮ったものです。
北面の方は、石の色が違う。


現在見られる人質櫓とその南の多門部分は縮小されたものだと
「福山城(14)」 にちょっと書きましたが、
残った半分の櫓台も右上の石は隅部分と高さが合ってないし、
櫓台ふうになってはいるものの、新しく積まれたもののように見える。

で、新しいと思われる上部の石と下の方の石も同じ色だし、
隅部分以外は案外かなりの部分が積み直されてるのかもしれない。

なぜ、そんな大掛かりに改修されたのか?


廃城後の明治26年、人質櫓前には招魂社が建てられた。
これは元は最後の福山藩主・阿部正桓(まさたけ)が、
石見益田の役と箱館戦争での備後の戦死者の霊を祀るために
明治元年に創建したものだったが、それが人質櫓付近に移されてきたという。

最初、私は櫓下に招魂社があったのかと思っていたけど、
本丸上段の方みたいね(笑)。

ただ、前述したように本丸下段は民間へお下げ渡しとなり、
畑やら宅地になっているので、人質櫓下付近の遺構の破壊はかなりのものだと
いわれている。

なので、神辺三番櫓手前のうっすらした盛り上がりも
どうやら遺構ではないようです。
紛らわしいな・・・


人質櫓を右に回ると、こんな光景が広がる↓。


福山・福山城・二の丸14・人質櫓下から


この先の左手にはかつて縄張図29の水ノ手御門があり、
神辺三番櫓とは塀でつながれていたという。
もちろん、その頃の道の左側はこんななだらかでのびやかな地形じゃなかったはず。

詳しく城の現役時代の地形などを知らなくても、
確かにこの辺は相当遺構が破壊されてるようだな~ってことは
容易に想像できる。


水ノ手御門から縄張図30の神辺四番櫓までは渡櫓と塀でつながれていたと
「新版福山城」は語る。


福山城でのお目当てのひとつが神辺櫓群(跡)を見ることだったので、
四番櫓付近までは行ってるはずなんだけど、写真がない・・・
この辺まで来ると、もう何だかよくわからなかったのかもしれない。

それと、モデル気分のチャイナガールに邪魔されて撮影できなかった
神辺二番櫓が気になってたからな~。
とりあえず、本丸下段の西側はこの辺りで引き返した。


後から考えると、そのままずるっと下段を回っていってもよかったんだけどね。
ただ、段々時間もなくなってきていたので、ノルマ消化モードに
入りつつあったんだよな(笑)。


で、伏見櫓下まで戻って今度は下段を時計と反対に回ります。



福山城復元図・白図(17話)南面





福山・福山城・本丸南側下


↑このあたりが縄張図31の場所で、門を通って出入りするようになっていたらしい。
門の名前は不明。
戦後に描かれたと思われる絵には、この辺にも民家風の建物が
描きこまれている。

ここから天守の北へと回る道が今日最後の城内の散策になるので、
上段の石垣とわずかに残る紅葉を眺めながらてろてろ歩いた。


今はなき31の門をくぐって上段の石垣に沿って歩き始める。
いい眺めだけど、復元土塀には沢山狭間があるため、
ぼんやり歩いてると上から狙い撃ちにされますから、
気をつけて進んでくださいね


福山・福山城・二の丸20・本丸南側石垣



この先には 御風呂屋 の懸造が見える↓。


福山・福山城・二の丸21・御湯殿下



あ~コワ・・・
なんでこんな柱で建物を支えられるんだろう。
てか、なんでこんなところに造ろうと思うんだろう


その先は 月見櫓 ↓。
ここで道は北に折れる。


福山・福山城・二の丸25・月見櫓下



月見櫓の石垣↓。
ちょっとたわんでる箇所があった。
それと、刻印付きの石があった。


福山・福山城・二の丸24・月見櫓下



福山・福山城・二の丸23・月見櫓下石垣



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最終更新日  2013年07月25日 23時24分36秒


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