戦国ジジイ・りりのブログ

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2013年09月20日
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カテゴリ: 城(中国)
すいません、1話で収まりきらず(笑)前回の天文16年説の続きです。


隆景の沼田家相続は天文19年といわれているけど、
天文18年の長男をハブにした毛利親子ご一行様の山口行き
( 「神辺城(12)」 参照)の目的の中には、
沼田家相続の了解の取り付け、あるいはお礼も含まれてるだろうと私は思う。

大内義隆の意向の確認かお礼のどちらだったかはわからないけど、
少なくとも元就親子が山口に行った時点では
沼田家相続の話はほぼまとまっていたと見ていいんじゃなかろうか。


義隆を無視して進められるとはとても思えない。



大体ね、毛利元就って人は相続には十分な準備を欠かさない。
元春の吉川家相続、隆景の竹原家相続に至ってはそれぞれ3年の時間をかけてる。
こんな慎重な人が、沼田家相続の際に簡単に大事な末っ子をポイッと入れる訳がない。

吉川・竹原の準備期間が3年というのはただの偶然かもしれないけど、
同じくらいのインターバルは置いているだろう。

う~ん3年かあ・・・と思って、隆景の沼田家相続といわれる天文19年から
3年を引いてみたら天文16年・・・
この奇妙な符号はなんだ?


前回の話も含めて、こうした諸々の出来事から、
天文16年にはすでに新しい時代に向けての行動が始まっていたように思えた。




だって、幼くて盲目の繁平を拘束することに何の意味がある?
本当に病弱で盲目だったなら、逆に拘束されなかったんじゃないだろうか。

しかも、拘束には明らかに弘中君などの大内家重臣が関わっている。
これは拘束されるだけのそれなりの事情があったと見るべきだろう。
でもね、繁平が失明してなかったとしたら、なぜ系図に書かれたんだろう?


あるいは隆景の相続後に、相続を正当化するために書かれた可能性もあるけど、
「病弱」だけでも良くない?

もしこの記述が何らかの事実を反映してるのだとしたら、
考えられるのは本当に失明していたか、
あるいはそれに準ずるようなことがあったか、
のどちらかぐらいしか私には考えつかない。
う~~~ん・・・

『小早川家文書』の系図では、繁平は3歳の時に眼病を患い失明したとある。
この系図には繁平の生年は書かれてないけど、
天文11年生まれというのが正しかったとして、「3歳」はもちろん数えだろうから、
天文13年頃の出来事か・・・

ん?
天文13年といえば、沼田領が攻撃されたといわれていて、
尼子方との接点のあった年じゃないか。

てことは、例えば天文13年に家中で尼子方への内通の動きがあり、
それを理由に拘束された。でも幼い当主の内通の事実を系図に書くのはおかしいし、
体面もある。だけど何らかの形で残しておこうと思って、
「失明」という形で表現した、とか?・・・

それに、「失明」という言葉を考えてみれば、
文字通り視力を失うというものから、光を失うということでもあるし、
拡大解釈すれば当主の資質を欠いたとか資格を失ったという意味に
あてはめられなくもない。

いや、もうここまで来ちゃうと個人的憶測以外の何者でもないけどね。
でも、そんな風な推測が頭に浮かんだ。




沼田家の相続イベントが難解なのは、
様々な人のそれぞれの思惑が複雑に絡んでいるから。
誰が何を考えていたか、どういう状況にあったか
推測も交えもう一度整理してみましょう。
最近になって少し考えが変わった部分もあるのでね。
神辺合戦の流れも思い出しながら読んでくださいね


まず、竹原を除く小早川家内には、一部尼子方の者がいた。
おそらく、被官人が中心だったろうと思われる。

それから、 「高山城(22)」 に書いたように、
明応年間を境に被官人の勢力が弱まり、
庶家が本家の経営にも乗り出すようになってきた時期でもある。

相続イベントの頃には被官の中でも田坂氏が中心的存在と思われ、
田坂義詮の居城は天文16年に小早川勢の攻撃を受けて落城したとされる。


次に大内家。

天文12年から天文15年までの期間を神辺合戦に含めていいのかは
相変わらず疑問が残るけど、備後の回復を狙った動きがあったのは確か。

天文16年からは神辺城を標的とした戦いが始まっており、
ルートの確保は絶対に必要。
竹原家が裏切ることまではさすがに想定してなかったでしょうけど、
それでも沼田本家がふたたび尼子方へ転じたら、神辺城攻めも頓挫するし、
安芸防衛ラインが後退する。

それでなくても直近の頭崎城攻めの途中までは沼田家の高山城は
尼子氏にとって重要な拠点の一つであったし、
不穏分子が熾火(おきび)のように存在している可能性は
沼田家が大内方になってからも常に弘中君などの頭の中にはあったかもしれない。

繁平の拘束については、東西条代官であり安芸全般について責任を持つ弘中隆兼が
もちろん関わっていると思われる。
が、繁平の帰城交渉の行方について弘中君と並び決定権を持っていたと思われる
小原隆言が、神辺城攻めにも責任を持っていたことを考え合わせると、
拘束の事情が備後戦線にも関わりがあるんじゃないかという推測も成り立つ。



最後に毛利元就。
ここが一番私の見方が変わったかもしれない。

何が変わったかはひとまず置いといて、
隆景の沼田家相続の話が持ち上がってからは、
このイベントを完遂させるために色々手は尽くしたろうと思われる。

年不祥ながらも、繁平の帰城交渉の途中では
新荘系小早川氏本家の椋梨盛平から相談を受けている。
書状の時期がわからないものの、小原君が出てくることから
神辺城が落城する天文18年以前の可能性が高いと思われる。

とすると、隆景が相続したといわれる天文19年以前に、
元就が小早川家中の大事な相談を受ける関係が出来上がっていたといえる。



ひとまずこれだけの事を材料に、相続イベント全体の流れを推測してみました。

まず繁平の拘束時期は、天文12~13年、天文16年のどちらもありえる。
「3歳失明説」を重視すれば早い方になるし、
背後の状況を考えるなら天文16年でもおかしくない。

ただ、ウィキペディアでは田坂氏の稲村山城は
【1547(天文16)年1月16日に小早川勢に強襲され、落城した】とあり、
さらに【正式に沼田小早川家を相続した隆景は、隆景の沼田小早川家相続に反対した一派の
粛清を行い(一説によれば元就本人による粛清だったともいわれる)、
義詮は高山城内で日名内玄心により暗殺された。その後、
天文16年(1547年)1月16日、乃美宗勝らの襲撃により稲村山城も落城し】
となっている。

わたくしのブログの読者様は、
この文章が大いなる矛盾を含んでいることにお気づきだと思いますが、
そこへのツッコミはここでは我慢して(笑)、
どこから持ってきた日付かはわかりませんが、
稲村山城が天文16年1月16日に攻められたのが正しいのであれば、
天文16年の拘束はちょっと無理が出てくる。

というのも、天文16年の尼子軍の接近は、
書状の流れからすると、1月よりもう少し後じゃないかと思えるのだ。


それに、繁平の拘束の意味ね。
繁平本人に罪のないことは弘中君だってわかってるはずだし、
それ自体には直接の意味はない。

なら何で拘束したか考えてみた時に、これは家中の尼子派への牽制、
もしくは人質として当主を押さえたんじゃないかという考えが浮かんだ。
まして田坂義詮が繁平の後見人だったなら、効果はかなり期待できるんじゃないか?

ただ、尼子派に反乱を起こされたら意味がない。
田坂義詮などの尼子派中心人物もあわせて拘束した可能性もあるけど、
そこまですると武力抗争にまで発展する恐れもあるし、火種を大きくするだけ。

にしても、罪のない幼主を拘束して
親大内派の小早川家臣にまで反感を買わなかったのかな~と思ったけど、
ここで被官を追い落として実権を握ろうと思った庶家がいたとすれば、
また話は違ってくる。

大内家としても、親大内派が家中の実権を握れば
小早川一族全体の掌握につながるし、歓迎できる。
備後へも安心して遠征できる。


それから、小早川正平の家督を繁平が継承する際には
椋梨盛平から元就に相談したような形跡があり、
あるいは繁平の家督について大内家への口添えを頼んでたかもしれない。
天文12年に椋梨領が攻撃を受けた際には元就も協力してくれて、
これは特に新荘系にはありがたかったはず。

小早川家からすれば、毛利氏との関係を深めることは大内家への
よりしっかりしたパイプができる。
大内家からすれば、沼田家と毛利家がつながれば
小早川一族の掌握も楽になる。


こうした三者の思惑が絡み合って、天文13年頃に家中で尼子氏と内通する者が現れ、
その牽制として繁平は拘束され、天文16年頃にはおそらく弘中君了承の上で
小早川家内で尼子派の粛清が行われ、
同じ頃隆景が後継者に指名されて、同盟の証として乃美大方が元就に嫁いだ。
家中の尼子派を一掃し、大内家に忠誠を見せた親大内派の代表格・乃美隆興は
ご褒美として掟破りの偏諱を受けた・・・

そんな風に今回の諸々の推測をまとめてみました。


ただ、そんな中でも親大内派は繁平を見捨てなかった。
その後も繁平が生き続けたことがそれを物語るんじゃないだろうか。

元就からすれば、たぶん繁平も排除したかっただろうと以前書いたけど、
あるいは元就を通じて弘中君に繁平の助命を嘆願したかもしれないな~とも思った。


さて、ここまでのところで元就氏が前面に出てきませんね。
神辺合戦を書く中で、当主交代のきっかけはあくまで大内VS 尼子の世情を背景に
小早川家内の勢力争いと大内家の備後計略の政治的な要素が大きいのかな~
って思うようになったからです。

でも、隆景の沼田家相続の話が出てからは別よ。
その先は元就さんお得意の周到な準備を重ねただろうという点については
私の見方は変わっていません。



ただ、年不祥で主語も目的語もロクに書かれなくて意味がわからないけど、
どうも気になる書状がいくつかある。
これについてはもう少し材料が揃わないと何とも推測のしようがないので、
今は保留にしておきます。

それらの書状の意味がわかったら、また推測を修正するかもしれません。


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最終更新日  2013年09月21日 15時27分14秒


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