戦国ジジイ・りりのブログ

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2013年09月22日
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カテゴリ: 城(中国)
大内氏や小早川氏が絡む話ならわたくしにとってはホームのようなものなので
何となくだらだらと進んで行きますが、
備後は完全にアウェイなので、この先の話はまた気が重いです・・・
(↑要するに勉強不足)

本シリーズは最後まで一気に歴バナを書いてしまいますので、
遺構だけを知りたい方はもうしばらくお待ちください。
歴バナを書き終えたら、たぶんまた燃えカスになるだろうな・・・



天文18年(1549)に神辺城が落城し、年末頃には青景隆著が入ったところまで
「神辺城(14)」
毛利隆元が大内義隆の養女を娶ったものと思われます。

神辺城自体にはしばらく特筆するような動きは見られませんが、
天文19年(1550)に入ると大内家内の空気が相当怪しくなり、
同時に毛利家でもあわただしい動きが見られます。


2月     吉川元春、家督相続後ようやく吉川氏の居城・日野山城へ入る。

7月12日  毛利元就、井上一族の粛清に踏み切る。
        同じ頃、吉川家前当主・興経が尼子と通じ謀反を企てているという
        噂が広がる。

8月15日  大内家両社での参詣の際、陶隆房による襲撃の噂があり、
        義隆と相良武任は参詣を取りやめる。

8月16日  噂を心配して山口に駆けつけた近郷の兵が屋形を警固する騒ぎが起こる。

        義隆が陶隆房追討の兵を出すという噂が隆房に伝わり、隆房は防御を
        固める。
        相良武任、2回目の出奔。

8月17日  陶隆房、自邸の武装について詰問を受ける。
        吉川興経、噂について元就に弁明する。



11月?日  陶隆房、自領の富田に帰る。


時期がわからないので上には書いてませんが、
この年は隆景が沼田家を継いだとされる年でもあります。
あと、おそらく平賀隆保もこの年に平賀家の家督を継いでるでしょうね。



そして運命の天文20年(1551)。

8月20日  陶隆房・毛利元就挙兵。

9月1日   大内義隆、長門大寧寺において自刃。

9月4日   毛利元就、東西条へ進軍。平賀隆保の頭崎城を攻める。

9月8日   元就、東西条・槌山城を包囲。



翌天文21年(1552)。

3月3日   大内晴英、大内家の当主として迎えられ山口入り。

4月21日  尼子晴久が備後守護を兼ねる。

6月     大内晴英、備後討伐を表明。



と、ここまで大きな流れを一気に書きましたが、
神辺城督となった青景君がいつまで神辺城にいたのかははっきりしません。
ただ、周囲の状況を見るとあまり長いことはいなかったんじゃないかと思うけど。

というのも、大寧寺の変までの大内家家臣の中では
韓流ドラマもまっつぁおの、非常にドロドロしたものが繰り広げられておりまして、
一般に言われていることが事実に近いのであれば、
青景君もドラマを構成する一員だからです。

エンディングが近くなってくると色々展開も早くなるので、
ちょっと神辺にいたらキツいんじゃないかと思うんだよね~。



青景君はひとまず置いておくとして、天文18年に大内家内で緊張が高まった頃、
安芸では毛利元就を介して陶隆房による国人衆の取り込みが順調に進んでいたようです。
備後についてはよくわからないんだけど、
水面下でのクーデターの準備段階では備後衆は蚊帳の外だったともいわれる。

で、天文20年、ついに蜂起。
隆房と元就は身近な家臣や国人衆をおおむね抱き込んでいたので、
あとは平賀隆保など少数の義隆派を落とすだけ。

東西条の拠点であった槌山城を包囲したというのは、
平賀隆保が頭崎城から槌山城に逃げたという話とセットじゃないかと思うので
真偽はイマイチわかりませんが(隆保の最期は 「頭崎城(12)」 を参照)、
長らく東西条代官を務めてきた弘中隆兼を攻めた訳ではないようです。
その後も弘中君は活躍してるからね。


ので、挙兵から鎮圧までにはそう時間はかけなかったと思うのに、
この混乱に乗じてきたのが尼子晴久。

天文21年4月に備後守護に任じられた晴久が出兵して備後の回復を図ると、
またまた尼子方へ転じる備後衆が現れた。して、大内家新当主・晴英は

 【六月、備後の我に服従せざる諸城主を毛利元就に依頼して攻めしめ、
  備後隣境の安芸諸城主に毛利氏に戮力せんことを論すべきが為に、
  九日江良房栄を差遣わす。】(『大内氏実録』より)

と備後の巻き返しを始めた。

ここで通常語られる備後の城は滝山城で、神辺城の名は出てこない。
が、天文21年のものと見られる8月13日付けの毛利元就・隆元親子の書状に

「神辺固屋を崩せたなぁ、外郡衆のおかげじゃ。
ありがとの」


てなことが書いてある。

詳しいことはわからないけど、元就がお礼を言ってるんだから、
大内方に踏みとどまった備後外郡衆が神辺を攻めたってことだろう。
てことは、尼子晴久がふたたび触手を伸ばしてきた時期でもあるので、
この時の神辺城主が誰だったかはわからないけど、
神辺城が尼子へ通じる動きがあったのかもしれない。


ちなみに、『福山志料』では

 【平賀太郎左衛門隆宗

  六郡志に天文19年(1550)より弘治元年(1555)まで(神辺)城主たる事
  六ヶ年と云。今按に大内記には神辺の陣に死すること見ゆれば、ここに有りしは
  その子弟一族なるべし事平賀が伝に詳し。】

なんて言ってます。

私がここまで書いてきたことと全然違うし(そもそも『福山志料』では神辺城落城は
天文19年10月だとしている)、以前私が
「あちこちに色んなことが書いてあって、もうやだ」って
ボヤいたことがありますが、備後の他の城はどうだか知らないけど、
神辺城周辺の記述は相当バラつきがあります。

『ナントカ家文書』なんてものも必ずしも全てが正しいとは限らないので、
もうこうなってくると我が道を行くしかありません(←ちょっと逆ギレ)。

ので、この先は特に「神辺城周辺の正しい歴史」ではなく
「戦国ジジイが素朴に考えた神辺城周辺の歴史」であることを
念頭に置いてお読みくだされ
まあ、基本は信頼性の高い書状関係を中心に考えてますが。


で神辺固屋攻めの書状に戻りますが、
平賀家はこの後一貫して毛利方なので、天文21年8月13日の時点で
平賀氏が神辺城主だったという『福山志料』の記述はつじつまが合わず、
ゆえに却下


わたくしの見落としがなければ、
次に『萩藩閥閲録』に神辺城周辺に関連すると思われる書状が現れるのが
天文21年12月20日付け。

これは大内晴英と陶隆房からそれぞれ1通ずつ出されており、内容は

「外郡の戦に勝ったことは嬉しいなあ。
太刀一腰あげちゃうね」


てな感じのもので、神辺の文字は出てこないし
神辺固屋の戦とイコールなのかはわからないけど、
少なくとも神辺周辺で大内方がどこぞの敵と戦っていたとは言えると思う。
どこぞの、って言ってもほぼ尼子方としていいんじゃないかと思うけど。



さて、どんどんイヤな部分に近づいてきます

天文22年4月6日付け、大友義鎮(よししげ:のちの宗麟)から
「杉原豊後守」あての書状があります。

これは大内義長(晴英から改名)の家督の件について
「今後もよろしくね」的なことを言ってるようなんだけど、
なんでこの時期に義鎮から杉原氏へこういうことを言ってるのか
さっぱりわからない。

「わからないなら書くんじゃねえ!」

ってツッコミが入りそうですが、まあ時系列に見てますので・・・(笑)。

義鎮は、義長の実の兄。
義鎮・義長兄弟の母は大内義隆の姉とされます。

この時期がどうもなあ・・・
この翌年には毛利家が陶隆房と手を切るいわゆる「防芸引分」が実現するので、
それ関連かとも思ったんだけど、独立の思いは元就の頭の中にあったかもしれないけど、
元就本人は直前までそれを実行に移そうとはしていなかったので、
やっぱり違うよなあ・・・

て、中途半端で申し訳ないですが、
この後「杉原豊後守」が登場しますので、許してちょ


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最終更新日  2013年09月22日 21時25分43秒


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