戦国ジジイ・りりのブログ

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2013年09月23日
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カテゴリ: 城(中国)
ここからはしばらく神辺城主とその妻の話題になります。
まずは山名理興からいきますかね~。

この方が難解であるために、福山編を書きたくなかったと以前グチりましたが、
そもそも出自がはっきりしてない。

わたくしの支持する説は 「神辺城(1)」 と 「2」 で簡単に紹介した通りですが、
この説は支持を集めつつあるということらしいけど、
それまで語られてきた理興の通説とは相当違っている。


理興の場合はその相違によって神辺合戦後の理興の人生の解釈も変わってくるし、
それどころか他の人にまで影響を及ぼすという何とも厄介なもの。



で、神辺城を退去してからの理興の通説はこれまた
『陰徳太平記』に負うところが大きいようですので、以下にご紹介します。
(山名理興の名前は、『陰徳太平記』の中では全編通じて「杉原忠興」ですが、
タイトル以外の部分は「山名理興」としています。)



『陰徳太平記』巻32「杉原忠興死去 附妾貞順の事」

  備後の国神辺の道の上の城主、山名宮内少輔理興は一年平賀のために城を去って
  雲州へ立ちのき、尼子晴久を頼っていたが、毛利と陶が決別した頃、
  杉原播磨守盛重を元就への使いに出した。

  「それがしは貴殿に対して全く敵意を持ってはおらぬ。そのことは先年、
   貴殿が吉田で籠城された折によくご存知であろう。

   その後、大内勢が神辺城を攻めた際、貴殿も大内殿に従われたので
   一旦は敵味方となったが、今は陶と袂を分かったと聞いておる。それがしが
   許されて再び神辺城へ帰ることができたなら、以後は貴殿の無二のお味方となって
   忠節を尽くす所存である。」


  と切々と訴えるのを聞いて、元就は

  「理興にはかつて尼子晴久が吉田へ軍を催した際、吉田城中へ使いをもろぉたなあ。
   その志は忘れるべきじゃぁなぁで」



  理興は大層喜んで弘治元年に神辺道の上の城へ入り、やがて備中を切り従えようと
  あれこれ画策していたが、その頃から瘴気のようにふらふらと患うようになった。
  そして、弘治3年には中風を起こしてついに卒去した。

  理興には実子がなかったので、しばらくは家老が城を仕切っていたが、
  さる子細があり、播磨守盛重が理興の家督を相続した。




理興を戻すにあたって平賀隆宗に断っているのは、
『陰徳太平記』の設定では隆宗は理興に遺恨があって単独での神辺城攻めを申し出て
( 「神辺城(12)」 参照)、一騎討ちで理興を追い出した( 「神辺城(14)」 参照)
経緯だからでしょう。

ただし、さすがに隆宗は神辺城落城以前に死亡しているという認識が広まっているのか、
通説では隆宗に断りを入れたという部分はスルーされますが、
その他についてはこんな風に理興のその後のベースの話として語られます。

「ベース」と書いたのは、一般的な通説では
ここに書かれていないオマケが付いてくるからです。
そのオマケとは、「神辺城に復帰した後は名を旧姓の杉原に戻した」というもの。

そのオマケがどこから来たのかはわからないけど、
わたくしは理興が最初から山名氏の出だという説を支持してますので、
当然これは却下です。

でも何でそんな話が生まれたのか?
ここに、理興の出自の通説の難解さがあるんです。


『萩藩閥閲録』での杉原氏の系譜は、何と平清盛からスタートする。
清盛~重盛~維盛ときて、ずーっと下って

 ・杉原播磨守匡信
   備後国沼隈郡山手の城主

 ・杉原豊後守理興
   備後国山手の城主

 ・杉原兵庫頭直良 後伯耆守
   山手城主なり。元就公所々御取合の時、直良弟播磨守盛重を名代となし
   手勢を差し遣わし、勲功は数知れず。

となっている。


で、2番目の「杉原豊後守理興」・・・これが問題。

「杉原豊後守理興」については 「神辺城(1)」 の最後で軽く触れてますが、
この人と山名理興を同一人物だとするのが通説。

試しに皆様も「山名理興」でウィキペディアを検索してみてください。
1行目の終わりに官途が「宮内少輔、豊後守」と紹介されてるでしょう?

ところが、木下和司氏によると、史料で確認できる山名理興の官途は
天文元年から天文17年頃まで「宮内少輔」なんだそうな。
一方で、天文15年12月22日付けの大内家重臣の連名の書状の中に
「神辺杉原豊後守」という文言が出てくる。

・・・アラ、この書状、吉見興滋も差出人だわ。
そうか、天文15年にも吉見君は関わっていたのか。
あっ、すいません、脱線しました

ダブって官途を持つはずがないので、
山名理興と「杉原豊後守」は別人だとできるというのが別人説根拠その1。



それから、『陰徳太平記』の引用の最後に出てくる杉原盛重。
これは 「神辺城(11)」 や 「神辺城(13)」 で
吉川元春や平賀隆宗との対決を紹介した、あの盛重さんです。 

この盛重さんは、山名理興の4番家老なんだと。
(ちなみに「神辺城(13)」で盛重と一緒に戦った杉原興勝は
筆頭家老なんだとさ)

私が現地でコピーさせてもらった『神辺城と藤井皓玄』という本には、
【四番家老が城主の子という事が、社会通念上考えられるであろうか】とある。

まあでも、分家を継いで家臣としてあったなら、
どっかのCMじゃないけど、「可能性はゼロではない」とも言えそうな気が
するんだけど・・・
とりあえず、これは根拠に含めないでおくかな~。



ところで、 「神辺城(9)」 の最初で、天文15年に和睦が進められたとも
言われるけど、どこかに書いてあるのかな~としましたが、
田口義之氏の最近のシリーズ『八尾山城と山名氏』を読んでやっとわかりました。

上に紹介した天文15年12月22日付けの大内家重臣からの書状が、
これまでは山名理興(=杉原豊後守)が大内氏に内応したものだと
解釈されていたらしいので、『備後史夜話』はそれに基づいて
「和睦」としたんじゃないかと思われます。

同時に、その書状は山名理興が杉原豊後守と同一人物だとする
根拠のひとつにされていたようですが、
木下和司氏は理興の配下である「杉原豊後守」が
理興を裏切って大内氏に通じた文書だとした。

詳細は田口氏の『八尾山城と山名氏』に詳しいのでそちらを見ていただくとして
(ネットで見られます)、結論だけを紹介すると、
山名理興が神辺城へ移った後の八尾山城には杉原惣領家の「杉原豊後守」が入り、
その豊後守が大内氏に通じたことによって、
安芸から神辺城へ向かうのに必須のルートが確保されたという。

前にも書いたように、神辺城って備中に近い奥まった場所にあるから、
そこまでのルートの安全をどうやって確保したんだろうと思ってたんだけど、
何しろ土地勘はないわ、杉原氏なんてほっとんど知らないわで
考えてもわからなかった。

だけど、途中の城に大きな味方ができたのであれば、
するりとナゾは解決する。
「杉原豊後守」の裏切りという箇所を読んだ時、私は思わず

「あっ、そっかあ~!
そういうことかあ~!」


って指をパチンと鳴らしたもんね。
いや、ホントは綺麗にパチンと鳴らせないんだけどさ・・・
どうでもいいか、そんなこと(笑)。



山名理興と「杉原豊後守」の関係をややこしくしているのは、
あちこちに「豊後守理興」という記載があることもひとつの原因だと思う。

たとえば、『神辺城と藤井皓玄』という本には、杉原氏の菩提寺である三宝寺に
かつて三代の城主の位牌があったと紹介されている。
(その出典は『備南の懐古』/藤井定市著らしいです)
それによると、


 元祖  匡信院殿播州太守法麟正壽大居士
      弘治二年六月一六日寂
      當村古城主杉原匡信公

 二代  理興寺殿前豊州太守大用永調大居士
      永禄七年五月一六日寂
      杉原豊後守理興公

 三代  盛重寺殿前播州太守大安宗廣大居士
      天正九年一二月二五日寂
      杉原播磨守盛重公


だそうで、現在では二代と三代の位牌しか残ってないらしい。

『神辺城と藤井皓玄』(著者名を控えてませんでした。すいません)では、
これをもって『萩藩閥閲録』に記載の系譜の裏付けがなされ、
ゆえに山名理興は山手杉原氏の出である説が有力だとしている。

ちなみに、「元祖・二代・三代」がどこの城主だとははっきり書いてないけど、
流れから言って山手銀山城主と言いたいんだと思います。

けど、田口氏は同じ三宝寺の過去帳からは匡信と盛重の間に「杉原豊後守理興」の
入る余地は少ない、としておられる(『八尾山城と山名氏(19)』)。
さらに、杉原豊後守は確かにいただろうけど、豊後守の実名が「理興」とは
考え難い、ともしている(『銀山城と杉原氏(7)』)。


う~~~ん・・・
現代の感覚だと、位牌はひとつだろうと思っちゃうけど、
戦国武将なんかは位牌はいくつもあるわ、墓は供養塔含めあちこちに点在するわ、
戒名まで複数持ってる人なんかゴロゴロいるからね。

木下和司氏によると、『萩藩閥閲録』の系譜の、特に「豊後守理興」のあたりは
『陰徳太平記』などの影響を受けて創られた可能性が高いという。
とすれば、そうして創られたものを基に、後世になって供養のために
あらたに位牌が造られた可能性なんかもないとは言えないよな・・・

基本的に寺社の記録は信頼性が高いんじゃないかと思うけど、
一般に言われてることと寺の記録が大きく相違するケースなんかも
世間にはあるしね。


けど、「豊後守理興」の位牌に関しては、「理興寺殿」の戒名だし、
死亡日まではっきり記載されてるしなあ・・・
後付けにしても、妙に堂々としてるってゆーか

ただ、この死亡日、「杉原豊後守」のものにしてはちょっと・・・


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最終更新日  2013年09月23日 16時00分28秒


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