戦国ジジイ・りりのブログ

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2013年09月24日
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カテゴリ: 城(中国)
神辺合戦で逃亡した山名理興のその後の通説は、

「天文23年(1554)の防芸引分の後に、理興が毛利元就に詫びを入れ、
許されて弘治元年(1555)神辺城に戻り、名を山名から旧姓の杉原に戻し、
弘治3年(1557)病没した。理興の跡を杉原盛重が継いだ」

というものだと前回紹介しました。
つまり、通説では神辺城主は理興⇒盛重の流れだという訳ですね。

「杉原豊後守」については正面からは当たりにくいので、
ちょっと奥さんの話をしましょう。

ここでふたたび 「竹原にし殿」



「神辺城(6)」 でにし殿がまず山内豊通に嫁ぎ、
最初の夫と死別して竹原小早川興景に再嫁してまた死別するところまで紹介しましたが、
にし殿が注目を浴びるのはその先も波乱の人生が続くからなのだ。

様々な史料から丁寧ににし殿の推定年齢を絞った方もおられるようですが、
野生児なわたくしは物理的な線から攻めていったので
父・毛利興元に旺盛な生殖能力があった場合も含めて推定される
にし殿の生まれ年は、永正元年(1504)~永正11年(1514)。
(※別に興元が性欲の強い人だとしている訳ではありません)

トロロヅキさんが以前、どなたかからにし殿の年齢を計算した資料を
もらったそうで、それによるとその方はにし殿の生まれ年を永正9年(1512)頃と
推定しておられるらしい。



天文10年(1541)に2番目の夫と死別した時のにし殿は
37歳~27歳。
彼女はその生まれゆえに、まだ幼さの残るいとこの面倒を見ながら
夫のいない婚家で安穏と過ごす人生を許されず、3度目の結婚をします。

『毛利家文書』の中の「毛利弘元子女系譜書」によると、

下の名前が書いてありませんが、これが「杉原豊後守」=山名理興だと
一般に言われます。
理興の出自の解釈が大事な訳がわかるでしょう?

理興が杉原豊後守と同一人物であれば、にし殿は理興と結婚したことになるし、
別人であれば、にし殿は系譜の通り「杉原殿」に嫁いだことになるんです。

「杉原殿」には下の名前がないので、これを見ただけでは誰ともいえない。
でも、頼りにしてた兄ちゃんの娘を嫁にやるくらいだから、
そこそこの人物とだけは言えるだろう。



山名理興の通説は最初に書いた通り神辺帰還説が幅をきかせているので、一般的には
「陶隆房との対決を前に、少しでも味方の欲しい元就には理興の帰還は渡りに船だった」
とし、にし殿との結婚については
「大事な姪を嫁にやるほどに、理興の心をつなぎとめておきたかったのだろう」
というような解説が多いように見受けられる。

・・・が、「杉原殿」が理興でなければ、この説明は根底から崩れる。


木下和司氏は「杉原豊後守」を杉原惣領家の出身であり、
にし殿の3度目の夫だと推定した。
これには無理がないと思う。

それに、 「神辺城(18)」 の最後でよく意味のわからない書状を紹介したけど、
この書状に何年とは書いてないものの、(天文22年)と注釈が加えられている。

大内晴英が義長に改名するのは天文22年(1553)とされていて、
書状の中で「義長家督之儀」としているので天文22年以降のものであるとは
いえるだろう。

ただし、意味がわからないので下限が限定できないんだけどね(笑)。
でも、もしこれが防長経略完了後の書状であれば
「家督之儀」という言い方はしないと思うし、
とりあえずはこの注釈を信じることにしよう。

ちなみにこの書状、木下氏は天文21年のものだとし、
杉原豊後守が毛利家と通じて大内方になった内容だとしておられるが、
どうも私には納得いかないので、自分なりに理解できる時が来るのを待ちます。



『陰徳太平記』は読み手の混乱を招く実に悩ましい書ではあるものの、
もちろん実態も反映している部分もあるので、頭から無視するべきものでもない。

で、理興の帰城は『陰徳太平記』では弘治元年(1555)としていて、
通説支持派はにし殿が「杉原豊後守」に嫁いだのはその少し前の
天文23年(1554)~天文24年(1555)頃と見ている人が多いのかな。

だけど、天文22年には理興はまだ尼子さんちに居候してた訳だから、
そんな状態の理興に対して、大友義鎮が義長の件で手紙を出すのは
ちょっとおかしいんじゃないかと思う。

ここからも、山名理興と「杉原豊後守」は別人だといえるんじゃないだろうか。
ま、はっきり年が書いてある訳でもないし、
そもそも意味がよくわかってないので、根拠としては相当弱っちいかな(笑)。

前回書いた別人根拠説その1もあるし、
初めから私は理興の杉原氏出身説を支持してないので、
ここでは理興と「杉原豊後守」は別人だとして話を進めますね。



して、なぜにし殿は豊後さんへ嫁に行ったのだろうか。

え~、本シリーズ、備後の通説を覆す内容の部分については
引用ばっかりで恐縮ですが、立派な研究結果があるものですから仕方ありません(笑)。
で、例によってまたまた田口義之氏にお世話になる訳ですが・・・


前回、私が指を(ヘタクソながら)鳴らした前の段で、
天文15年の大内家重臣からの書状が
「理興配下だった豊後守が大内氏に通じた」内容だとした木下氏の説を紹介しましたが、
これにより神辺城へのルートが開かれ、ちょっと長引いたけれども
最終的に神辺城を落とせたので、豊後守の功績は大きかった。

その褒賞としてにし殿が嫁ぎ、豊後守が神辺城主になったのだろうと
『八尾山城と山名氏(21)』の中で田口氏は語る。

まあ、天文18年(1549)に理興が逃亡した後、
一旦は青景隆著が神辺城に入っていることは間違いないと思うけど、
天文20年(1551)の大寧寺の変前後の神辺城の動向はわからないものの、
天文21年(1552)の夏頃までには備後外郡で何らかの動きもあったようだし
(  「神辺城(18)」 参照)、仮に一旦は敵方の横槍が入ったとしても、
天文21年前後くらいまでにはキープできてたんだろうな。

にし殿も、その頃までには3度目のウェディングベルを鳴らしていたかもしれない。
仮に天文20年に嫁いだとして、にし殿は47~37歳。
ううん、3度目ともなると、どんなに少なく見積もってもさすがに・・・(笑)。
キビシイ世の中じゃのお~



さて、『陰徳太平記』の記述に惑わされつつも、
理興の帰城に関する段については手掛かりになると思われる部分もある。
なにせ、杉原豊後守については完全にすっ飛ばされてる分、
豊後守の人生をそのまま理興に取り込んで書いてるのかなって感じられるのだ。

すなわち、

・弘治元年(1555)に理興が神辺城に戻った。
・弘治3年(1557)に理興が病没した。

という部分は、そのまま豊後守に置き換えてもよさそう。
そして、通説の最後、杉原盛重が次に神辺城主となったというのは実際の出来事で、
新城主が誕生したのは弘治3年と言われている。
・・・つまり、豊後守はその頃亡くなったと見られている。

にし殿にとっては夫との3度目の死別


前回、『神辺城と藤井皓玄』から杉原氏の菩提寺・三宝寺の
位牌に書かれた文言を紹介しましたが、

 二代  理興寺殿前豊州太守大用永調大居士
      永禄七年五月一六日寂
      杉原豊後守理興公

これの死亡日がなんだかな~って書いたのは、弘治3年じゃないからなんです。
この日付はどこから持ってきたものなんだろうか



わたくしのブログの中では、にし殿の結婚歴を『毛利家文書』から引いていますが、
別の系譜では3番目の夫は杉原豊後守ではなく行松正盛だとしている。

どちらが正しいとは言い切れないものの、
行松正盛の死後、残された妻が杉原盛重と再婚しているあたりと
こんがらがってるのかな~って気がする。

ほとんどの人はにし殿の3番目の夫は豊後守か行松正盛のどちらかとしてるんだけど、
ひどいのになると豊後守に行松正盛を上乗せして、
ここまででにし殿は4回結婚したように書いてる人もいる。

いや、それが間違ってるとは断定できないけどさ、
それにしてもさ・・・



さ~て、杉原豊後守と山名理興が別人だとしたら、
理興のその後は一体どうなったんだろうか。
それについては何もわからない。

が、『神辺城と藤井皓玄』には神辺城下にある龍泉寺の過去帳の写真が掲載されていて、
ちょうどその写真のページには

 【忠興良勇大居士

   紅葉山城主山名宮内少輔忠興殿
   弘治三年五月五日命終】

とある。
字が小さいので、日付は三月三日の読み違いかもしれませんが、
「弘治三年」部分ははっきりと読める。

姓も山名だし、官途は宮内少輔だからこれは間違いなく山名理興のこととして
書いてるんだろう。
「命終」だから、理興は神辺で死んだって言いたいのか?

どこぞの郷土史料にでも「理興、帰還!」みたいな記述があって、
『陰徳太平記』はそれを基にしたのか?
もう、どこまでもわからないお方・・・

ただ、田口氏は理興を、備後で戦国大名に最も近付いた人物と表現しておられる。
確かに、備後史の一般書を読んでも神辺合戦、そして山名理興のくだりは
最も華やかに語られる。

現在でさえこうなんだから、当時の備南では相当存在感があったのだろう。
理興本人が活躍した時代より少し下ってからでさえ
理興に対する崇敬や憧景の念が根付いていて、
後から理興について書き加えたり追悼したりという空気が
残ってたのかもしれないよな~・・・

なんて風に、てんでバラバラの「理興」に関する記録を見てイライラながらも、
備南史をあざやかに彩った武将・山名理興のことを考えたりもしました。


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最終更新日  2013年09月24日 21時57分58秒


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