戦国ジジイ・りりのブログ

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2013年09月26日
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カテゴリ: 城(中国)
杉原豊後守の死後は、あのバトラー・杉原盛重が跡を継いだとされます。

前々回、 「神辺城(19)」 の山名理興帰還のくだりを
『陰徳太平記』から紹介しましたが、最後の
「さる子細があり、播磨守盛重が理興の家督を相続した。」
の「さる子細」についても『陰徳太平記』で語られていますので、
ご紹介しましょう。

例によってここも大体こんな内容が盛重相続の理由として一般的に語られます。



『陰徳太平記』巻32「播磨守盛重杉原の家を継ぐ事」


  が死去。跡を継ぐ実子がおらず、家が断絶しようという時、元就は

「忠興は大内氏に背き、平賀のために城を去って雲州におったが、のちに許しを
   乞うてきたけぇ、神辺城を返しちゃった。
   その恩に報いようと、備中じゃぁわしのために色々頑張ってくれた。

   じゃけぇ、あんなぁの家を断絶させるんはしのびなぁで。
   一族の中からええ器を選んで家督を継がせようゆぅて思う。」

  と言った。これに対し隆景は

 「忠興の一族でありゃぁ、杉原左衛門進興勝じゃろう。武勇の誉れもあるし、
   何より律儀が第一の者じゃ。興勝がよいじゃろう。」

  と進言したが、元春は

「隆景のゆうなぁもっともじゃ。じゃが、わしが思うにゃぁ、四番家老の
   杉原播磨守盛重がよいゆぅて思う。盛重は武勇の場数こそ興勝にゃぁ劣るけれども、
   その天性は大器、智計も余人より優れとり、一城を守る将としちゃぁ
   興勝よりも適任じゃゆぅて思う。父上、ここはぜひ盛重を・・・!」

  と言った。これを聞いた隆景は、

 「盛重は乱暴者で、人を生きた虫とも思わず、常にバクチをして己の剛強を誇って
   危うい戦を好む男じゃ。盛重を城主として兵の命を預けるにゃぁ危険すぎる。」

  と反論した。それに対し元春は

「律儀ばかりで智がすくんぉ(少なく)戦功の多い者は、一兵卒としちゃぁよいが
   一軍を率いる将の器じゃぁなぁで。大軍を率いる者は、
   自身の小さな戦功にこだわらず智略が人よりも秀でていのぉちゃぁならん。
   智勇を併せ持ってこそ、百千もん兵を率いることがでけるんじゃ。

   盛重が豪放すぎて危ういようでありゃぁ、わしの下に置いて
   コントロールすりゃぁよい。それじゃったら、万に一つでも間違いの起こるこたぁ
   ないじゃろう。」

  と言ったので、元就もそれはもっともだと思い、盛重に杉原の家督を相続させて


  元春の人を見る目は神にも通じるほどの確かなものであった。
  盛重の智略は群を抜き、勇烈は世に鳴り響くものとなり、中国に名を馳せた武士は
  多いが、盛重に肩を並べるほどの者は数えるほどだった。

  しかも盛重という男は智勇を併せ持つだけでなく、大胆に人材を登用し、
  適材適所に据える才能もあった。人の上に立つ役職にはそれに適した者を選び、


  そうした輩は元々盗賊を生業としていたので、戦にあっては敵陣に夜討ちや
  忍び討ちをかけ、ある時は放火し、またある時は十重二十重もの敵陣をやすやすと
  かいくぐっては突破口を開くなどしたので、盛重は重要な城や堅固な城をも
  次々と落としていった。これは配下に忍びに慣れた者が多かったためである。



で、この後は盛重家中で起こった忍び対決などのかなりフィクションちっくな話が
語られますが、この段の締めくくりは、盛重配下にはこのように
忍びの技を身に付けた盗賊上がりの者が多く、
その軍構成からひとたび戦に出れば類友の盗賊どもも近隣からわらわらと参加し、
元々命知らずのメンズなので敵方からは恐れられた、としている。


元春が盛重を推したのはなぜか?

ここで 「神辺城(11)」 の神辺城攻めのエピソードを
思い出していただきたいのですが、
神辺合戦を通じて元春が盛重の武勇に惚れ込んだというのが世間で語られる話。

神辺城主になった数年後には、盛重は西伯耆の尾高城も任される。
転勤じゃなくて兼務です。
これも勲功を上げて認められた盛重がさらに重要な拠点をも預けられた、
というように、元春の引き立てがあって順調に昇進していった、
という風に語られることが多いのかな。

テンポのいい軍記物から引いたエピソードであるだけに、
強くて才能もある武将の活躍とともに毛利氏が発展していく様は、
その世界だけに浸ってれば読んでて素直に楽しいものだと思いますが、
現実はそんなに甘いものではなかったようです。



で、ここからは木下和司氏の論文
『備後国衆・杉原盛重の立場-毛利氏との主従関係を中心として-』
(「芸備地方史研究 281」)から、
木下氏の述べる「現実」をかいつまんでご紹介します。

この論文は確か福山から帰った頃に手に入れたものだと思いますが、
最初は難しくてよくわからなかった。

が、福山編を書いてく中で少しずつ周囲の状況なども
消化できるようになってきたので(←書かないと頭に入らないタイプ)、
つい最近になってあらためて読み返したところ、
繊細なわたくしは正直言って気分が悪くなりました

いやもう、何つーか・・・
シビア~な時代だなあ~ってさ・・・



まずは盛重の先代・杉原豊後守にちょっと戻りますが、
木下氏は天文23年(1554)5月の防芸引分後、
同10月頃までには毛利氏は神辺城を落としていただろうとしておられる。

その理由は、陶隆房との対決を前に、背後の神辺城が大内方のままだったら
挟撃のリスクがあるからというもの。

できればそのまま直轄城にしたかったところだろうけど、
当時の毛利氏にはその余裕はなかった。
そこで、信頼できる備後の大物に預けようと考えたが、
名族の宮氏はおおむね滅ぼされてしまっている。
ので、残る大物の杉原氏に白羽の矢が立ったとし、
にし殿の嫁入りも、この同盟を強化するためだったとしている。

この時期の出来事は史料が少なく、推測に頼る部分も結構多いので、
正直言って私は前回紹介した田口義之氏の説明の方がすんなり受け入れられたんだけど、
でも木下氏の説も筋は通っている。

で、杉原豊後守の死後、跡目を考える際にも
やはり神辺城を直接管理したかったと考えただろうけど、
備南国人衆の反発を考慮してふたたび杉原氏の中から城主を選んだのだろうという。

神辺城を盛重が継いだことはその流れでいいとして、
伯耆尾高城までも任されたのはなぜか?
やっぱり元春の盛重らぶによるものなのだろうか(笑)。
アハハハ、だったら私は気分悪くなって頭を抱えたりしませんよ~。


毛利元就といえばいわゆる「三矢教訓状」が有名ですが、
ネガティブ元就が出した書状は1通だけじゃない。
嫡男・隆元へのオプションもあるし、さらに追加もある。

元々話が長い人なので、子供達(末っ子でさえもう24歳)へ
切々と訴える書状は、心情を反映してこれまた長い。けど一言で言うと、

「われ達が仲ようして家を守ってくれんと、
わしゃぁもう心配で心配で心配で心配で心配で・・・・・」


となる
その書状の中には、

「備後の衆も、安芸の衆も、心の中じゃ
絶対ウチのことよう思うとらんゆぅて思うんでの~」


という一文がある。

情に厚い親分肌である一方、1人もんもんと過去のことを
いつまでも引きずり続ける名将・毛利元就・・・


天正年間に入ると、盛重が国衆の立場でありながら
毛利家の領国経営に関わる史料が見受けられると木下氏は指摘し、
神辺城・尾高城の重要な城を2つ任されたことと併せて
「盛重には元就の異常に厚い信頼があったことになる」とする。

木下氏は、杉原氏が毛利家の麾下に入った時期は早くても天文19年(1550)
だと見ておられる。
田口氏は天文15年(1546)と見ておられるようなので
天文19年よりは少し遡るが、それでも毛利配下としての歴史は浅い。
それなのに、盛重は大事な役目を担った。
シビアに現実を見つめ続ける、元就の信頼を受けて。


信頼しているとはいっても、地元の名族出身者を神辺城主にすることは
うまくまとめてくれるというメリットがある反面、
地元との結び付きが強くなれば下剋上のリスクも伴う。

そのリスクヘッジが、非常に逆説的ながらも尾高城主の兼務なのだと木下氏は説く。
論文の中では、「保険」と表現される。
どういうことなのか、論文をかいつまんでご紹介しましょう。


盛重家中の家政を取り仕切る奉行人は、尾高城を任された後でさえ
備南の在地領主と考えられる人物が多くを占めていた。
尾高城にあっては、備後の奉行衆が在地の西伯耆の領主たちの上に立つことになり、
両者の対立を引き起こしたと考えられる。

また、永禄13年(1570)の西伯耆の寺の棟札には
「源朝臣杉原左近尉盛重、当国在軍節」とあることから、
西伯耆衆からは盛重が進駐軍と見なされていたということを挙げ、
城主ではあっても実際のところ盛重の現地支配はうまく行っていなかったとする。


で、でも神辺城は元々地元なんだから、新天地ならではの苦労はないよね?
と思いきや、元就が盛重の活躍の場に用意したのは、西伯耆だった。
盛重本人は元春の下で尾高城を中心に活動しており、
神辺城は城代に任せていた。

実はこの少し後、神辺城が乗っ取られるという事件が起こる。
そうした事実からも、盛重が神辺にいなかったことにより、
地元との癒着を阻まれてこれまた強力な支配ができていなかったのだろうとした。


「保険」はもうひとつあり、盛重と主従関係を結びながらも
毛利家とも主従関係を有する者が家中におり、
これがまた強力な支配体制を築くことを阻害したという。

「強力な」っていうのはつまり、盛重が独自の勢力を築く事を指していて、
別に盛重の管理体制に問題があったって意味じゃないから、誤解のなきよう。


元就のかけた「保険」はぴたりと当たり、盛重の任された重要拠点支配は、
盛重自身によるものというよりは、毛利家のバックアップがあってこそだった。
盛重もその点についてはよく理解しており、ために毛利家に忠誠を尽くした、
と木下氏は語る。


いや、私のつたない要約だけじゃあまりシビアさは伝わらないかもしれないけど、
厳しい時代だな~ってゾクッとしたし、何なんだよ、毛利家~・・・
って読んでて恐くなりましたね。


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最終更新日  2013年09月26日 22時11分38秒


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