戦国ジジイ・りりのブログ

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2013年09月28日
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カテゴリ: 城(中国)
予想以上に歴バナが長引いているので、
だいぶ疲れてきました(笑)。

が、勉強したことを真面目に書き残しておけばいつか別のところで役に立つ
(かもしれない)し、遠い昔、一生懸命生きた人達がこれだけいるのだと、
通説をなんとなく読んでるだけじゃ感じることのないだろう様々な現実を
少しでも一緒に感じてもらえたら嬉しいです


さて、シビアな現実の話の後は少し女性の話をしたいと思います。
といっても、こちらもうわついた話じゃありませんが・・・



警戒はされながらも、(大内家を滅ぼしたりして
毛利家にあっては、やはり杉原盛重は大切な人材だった。
元就に信頼されるくらいだから、武勇だけでなく
盛重の人となりにも魅力があったのだろう。

毛利家からは、先代の神辺城主・杉原豊後守に続き、盛重との関係を強化するために、
1人の姫が盛重に嫁いだ。
ここで「竹原にし殿」の再々登場で~す!

山内豊通・竹原小早川興景・杉原豊後守、と3回夫に先立たれたにし殿は
これで4回目の結婚。

「神辺城(20)」 で杉原豊後守の部分が行松正盛になってる系譜のことを
紹介しましたが、豊後守と行松正盛を入れ替えるだけならともかく、
上の3人に行松正盛を上乗せすると、盛重まで入れて

これはひどいでしょお?



盛重が神辺城主になった時期ははっきりしない。

が、木下和司氏は前回紹介した論文
『備後国衆・杉原盛重の立場-毛利氏との主従関係を中心として-』
(「芸備地方史研究 281」)の中で、盛重が弘治3年(1557)2月に

先代の杉原豊後守はそれまでには亡くなっていただろうとしておられる。

仮に城主就任の年ににし殿が嫁いでいたとして、
花嫁は53歳~43歳。
くうっっ、キビチ~~~

とある歴史雑誌の公式サイトで盛重のことを紹介しているページがあって、
にし殿も軽く登場するんだけど、やはりこちらも盛重の家督相続直後に
にし殿を迎えたと見ていて、にし殿のことを 「四十歳を過ぎた大年増」 と
表現している。

否定もできないけど、もうちょっと言いようってもんが・・・
にし殿だって別に好きで夫を取っ替え引っ替えした訳じゃないぞ。
高貴な姫に向かって、なんたる言い草!
女の敵め!!

と非常に憤慨したものの、その一方で『神辺城と藤井皓玄』という本の中では

 【しかも彼女を、元就の意向とはいえ、武将達が喜んで己が妻に迎えているので
  あるから、余程に艶麗な女性であったのだろう。】

と書いている。

ハハハ・・・
こきおろすのも何だけど、こーゆー書き方も・・・


「新高山城(24)」 の遠足イベント(「毛利元就父子雄高山行向滞留日記」)の
8日目、縁戚・重臣などでの内々の会合の参加者の「宮内」に対して、

【もう1人この場に出そうな「宮内」もいるんだけど、
その宮内は永禄4年にはこの世の人ではないので】

と書いたのは、この辺にかかってきます。

「宮内」で私が想定したのは、もちろん山名宮内少輔理興。
あの記事を書いた当時はまだ理興と杉原豊後守が別人か否か?ってことまで
考えてはいませんでしたが、理興の通説でも永禄4年(1561)には
すでに理興は死んだことになってるし、にし殿は盛重の嫁になっている頃で、
あるいは伯耆尾高城にいたかもしれないよな~って漠然と考えてました。

が、盛重が尾高城を任されたのは永禄7年頃のようなので、
すでににし殿が嫁いでいたとしても、イベントの頃には
まだ神辺城に住んでたかもしれないと考え直しました。


それから、トロロヅキさんがどなたかから頂いた資料によると、
にし殿は一時小早川家に戻っていた時期があるようです。

ただ、にし殿が盛重に嫁いだ時期を尾高城を任された時期と同じ頃と見ている人もおり、
どうもトロロヅキさんに資料をあげた方はそちらの説を採用しているようなので、
盛重が神辺城を継いだころに嫁いだだろうと見る私とは意見が違う訳ですが、
にし殿が小早川家に戻っていた時期があるというのは
素直に受け入れられた。

そういえば、竹原ににし殿の墓があるっていうもんな。
それが本墓なのか供養塔なのかはわからないけど、
先代の姫とはいっても元就の支配者としての存在感は
興元の頃とは比べ物にならなかっただろうし、そういう毛利家にいるよりは、
小早川家の方がにし殿にとっては居心地良かったんじゃないかな~って思ったんだよね。

よその家に嫁に行ったからといって、隆景の養母としての立場は変わらないし、
いとこという血のつながりもある。
にし殿本人が自分の人生をどう受け止めていたかはわからないけど、
毛利家の外交官としてあちこち嫁がされるにし殿を、
いつでも隆景は温かく迎えたんじゃないだろうか。

まっ、それは同じひとりの人間として推測しただけの話ですが、
にし殿が小早川家に戻っていた時期があると推定できる史料があるのであれば、
竹原家を出てったにし殿を、その後も「竹原にし殿」と呼んだ理由も説明がつく。

あ~、あのイベントの記事書くのって結構大変だったんだけど、
真面目に書いててよかったな~なんて今頃思ったりして・・・(笑)。



にし殿がいつ盛重に嫁いだかはわからなくても、
下限は上に書いた通り43歳頃と思われる。
どう頑張っても40歳は下らないハズで、花嫁の年齢から
「この結婚は完全な政略結婚だったとわかる」とされるけど、
そりゃあもちろんそうでしょ。

強力なバックを持たないにし殿が、自由恋愛なんかできるワケがない。
(バックを持ってたらなおさらできませんが)

それに、どこに書いてある話か知らないけど、
盛重の顔は恐かったんだそうな。
恐い上に、表情が変わらない。
ここから、元春ちゃんの家臣の間では「能面杉原」とひそかにあだ名されていたとか。

ライターが男性であれば、同じ男である盛重の立場に立って

「40過ぎの年増を迎えなきゃならないなんて、
盛重も不運な男だなあ」


って書き方になるし、書き手が女性であれば当然にし殿の立場に立って

「4人目の夫が能面男だなんて、
かわいそすぎる!」


となる。

オマエはどっちの立場なのかって?
いや、ちょっとわかりません。
昨日はケンタッキーでうっかり男子トイレに入りそうになりましたし

まあ、顔が恐くたって優しい人だったかもしれないし、
主家から迎えた姫だから、それなりににし殿のことは大事にしただろう。
結局、人間なんて相性だしね。
にし殿が4度目の結婚で落ち着いた生活を送れたことを祈るばかりです・・・



さて、にし殿の波乱の結婚遍歴は以上で終わりとなりますが、
最後の結婚から読みとれることがあります。

世間に広く認知されている神辺城主の系譜は、
杉原豊後守(理興)~杉原盛重と来るので、
これがそのまま杉原家の家系だと解釈される向きもあるようですが、
盛重の先代が杉原豊後守であれ山名理興であれ、
にし殿が続けて嫁に行っていることから、豊後守(あるいは理興)と盛重の間に
親子関係はなかったことになる訳です。

そこで、 「神辺城(19)」 に載せた系譜ですが、

 ・杉原豊後守理興
   備後国山手の城主

 ・杉原兵庫頭直良 後伯耆守
   山手城主なり。元就公所々御取合の時、直良弟播磨守盛重を名代となし
   手勢を差し遣わし、勲功は数知れず。

これだけを見ると豊後守の子が直良で、その弟が盛重なのかと思いますが、
にし殿がそれぞれに嫁いでいることから、そのまま受け取る訳にはいかない。

木下和司氏は、豊後守と盛重は同じ杉原氏であるものの、
別系統だとしておられる。
そう考える方が自然だよね。

それで、毛利麾下となっての歴史も浅く、
かつ毛利家との深い姻戚関係も持たない盛重が
なぜ元就の信頼を得て重用されたのか、
ここにひとりの女性の存在が考えられると前掲論文の中で述べておられる。

まずは、氏の論文から必要部分だけを抜粋して作成した下の図をご覧ください。


杉原直良室-3



都合上、長幼の順序は無視して並べてますのでご了承ください。
で、図の真ん中、赤字の「女」がここでのキーマンです。
実名がわかりませんが、五龍殿が書状で「はもしさま」としているので、
ここでは「はもし殿」としておきましょうか。
たぶん読みは「はもじ」だと思うけどね。

「はもし殿」は安芸国人・熊谷信直の姪。
それが備後国人である盛重の兄・杉原直良に嫁いだ。

杉原直良とその子・直盛の「直」は熊谷信直からの偏諱だと
木下氏は推測しておられて、それについては個人的には疑問もあるけど、
少なくとも直良の次男・春良は天文23年(1554)に吉川元春から
偏諱を受けている。
元春ちゃんは熊谷信直の娘を妻としているので、熊谷家との縁が深いのです。

で、春良の元服時期から遡って、春良は天文10年(1541)頃の生まれだろうとし、
その兄の直盛はそれ以前の生まれだから、直盛の両親・・・
すなわち、杉原直良と「はもし殿」の結婚も天文10年以前だろうとする。


「はもし殿」が五龍殿とその娘の2代にわたって世話をしたというのは、
五龍殿の娘が伊予の河野氏に嫁ぐ際、五龍殿とその弟・隆景からそれぞれ
「はもし殿」へあてた手紙から窺われる事実。

熊谷信直が毛利傘下に入ったのは天文2年(1533)以降のことで、
「はもし殿」が五龍殿の世話係になったのはその後のことだと思われるので、
五龍殿が元春ちゃんの姉で正しければ、「はもし殿」が来た頃には
少なくとも五龍殿は4歳以上になっており、乳母というよりは養育係かもしれない。

そのお役目を通じて「はもし殿」は元就の信頼を得、
備後国人・杉原直良に嫁いだのではないか、
そして「はもし殿」を仲介として、毛利家と杉原氏の間に信頼関係が生まれ、
盛重への信頼へ引き継がれたのではないだろうかというのが木下氏の説。


この辺も推測が多いので、ろくな史料も知識も持たない私には
何とも言えない部分もあるものの、こうして見てみると
女性の役割ってのも思った以上に大きいものだったのかもしれないな~と
ふんふん言いながら木下氏の論文を読んでました。



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最終更新日  2013年09月30日 17時12分28秒


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