戦国ジジイ・りりのブログ

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2013年11月12日
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カテゴリ: 江戸めぐり
南部重直の灯籠の後ろには


上野・寛永寺・根本中堂32


地図を見ると、特設テントの張られてた入口から見えた建物と棟続きらしいけど、
この外観だから、こちらが玄関なのかもしれないな。
単なる入口じゃなく、本式の玄関の方ね。

大きな建物のどこまでがそうかはわからないけど、
手前あたりの建物は現在では大慈院らしい。

大慈院はもともと、常憲院(綱吉)の表別当で、
古くはこの場所ではなかった。

それが「葵の間」。


慶応2年(1866)7月20日、第二次長州征伐のさ中に
14代将軍・家茂(いえもち)が大坂城で薨去。
12月5日、一橋慶喜が将軍宣下を受け大坂城で15代将軍に就任。

慶応3年(1867)10月13日、慶喜は二条城において大政奉還を諮問。
10月14日、政権返上を明治天皇に上奏。
10月15日に勅許され、大政奉還が成立。

薩長ら倒幕派の先手を取った形にはなったが、
まだこの時点では将軍職の進退問題については触れておらず、
ついで10月24日に征夷大将軍辞職を朝廷に申請。

矛先をかわされた倒幕派は計画を練り直し、



クーデターにより新政権から慶喜は排除されたが、
温和な作戦で挽回を図る。
・・・が、結局、薩摩の挑発に乗った形で慶応4年(1868)京へ向けて進軍。
1月3日、鳥羽・伏見の戦いが勃発。

この戦いの途中で慶喜は側近や妾などを連れて単身江戸へ退却してしまう。

ともかく江戸へ帰った。
すでにこの時、慶喜は将軍ではないので、
徳川家最後の将軍でありながら、将軍として江戸にいたことはなかったことになる。


ほどなく、慶喜を朝敵とする追討令が正式に下り、新政府軍が東征を開始。
旧幕府内にはもちろん抗戦を主張する者もいたが、
慶喜はこれを抑えて朝廷への恭順を主張。

2月には勝海舟に事態収拾を一任、
そして自身は12日、寛永寺大慈院に入り謹慎。
あわせて徳川宗家の家督を養子に譲った。

この間、寛永寺の宮や天璋院(篤姫:13代正室)、静寛院(和宮:14代正室)
などを通じて様々な嘆願や交渉が行われる。
ドラマなどでは篤姫と和宮の活躍がドラマティックに描かれるけども、
実のところ効果のほどはイマイチだったらしい。

そして、江戸城進撃が3月15日と決定される。


その後はあの有名な勝・西郷の会談が行われる訳ですが、
3月13日と14日の2回・・・
つまり、江戸城攻撃のまさに前夜。

西郷(せご)どんが慶喜の助命に応じたことでどうにか攻撃が回避され、
新政府側からは様々な条件が出されるものの、
4月4日、最終合意に達した。

新政府側が江戸城に入り、慶喜の助命と水戸での謹慎の命が正式に降りる。

4月9日、静寛院宮が清水邸に移る。
4月10日、天璋院が一橋邸に移る。
4月11日、新政府側が江戸城を接収し、いわゆる無血開城を迎える。


・・・という流れで、ケイキさんは2月からここ寛永寺の「葵の間」で
じっとおこもりしてた訳ですが、江戸開城の同じ日、
寛永寺を出て水戸へ出立した。

出発は午前3時。
「黒木綿の羽織に小倉の袴を著け、麻裏の草履を召さる」(『徳川慶喜公伝』)
という質素ないでたちで、供回りもごくわずかだった。

土地勘のある人には興味深いスケジュールですが、
その日のうちに松戸(千葉県)に入り、そこで一泊。
翌12日は藤代(茨城県)で一泊。
13日は土浦で、14日は堅倉で、15日に水戸に到着した。

わたくしの住む柏は松戸の東隣で、もちろん水戸街道も通ってるけど、
ケイキさんがこの辺を通って水戸まで帰ったなんて考えたこともなかったし、
知らなかったな~。
てか、柏から歩いて4日で水戸へ着けるの・・・
考えただけで気が遠くなりそう

てことで、ケイキさんが表舞台から一旦身を引いた、
その歴史を見届けた場所でもあるんです。
寛永寺は。

ちなみに、「葵の間」は例の団体様専用の特別参拝のコースに
入っているようです。
もちろんわたくしは見てませんが




で、敷石に沿って表側へと歩いていきますが、
なんかここにも気になるものが・・・↓。


上野・寛永寺・根本中堂33



あれも灯籠の台座だよな~。
霊園の方にも、山と積まれた台座があったけど、
本体はどうしたんだろう・・・
これも上野戦争などで戦災にあって壊れちゃったのかな?

台座だけこんなに残しておいてどうするって気がしないでもないけど、
どれも大名の奉納による、古くて由緒あるものではあるから
捨てるに捨てられないのかもな・・・


て、やけに現実的なことを考えながら進んで
やっと正面側へ。


上野・寛永寺・根本中堂38



 【寛永寺本堂

  旧本堂(根本中堂)は現在の東京国立博物館前の噴水池あたりにあったが、
  慶応4年(1868)彰義隊の兵火で焼失した。そのため明治9年(1876)から
  12年にかけて、埼玉県川越市の喜多院の本地堂が移築され、寛永寺の本堂と
  なったのである。寛永15年(1638)の建造といわれる。

  間口・奥行ともに7間(17.4メートル)。前面に3間の向拝と5段の木階、
  背面には1間の向拝がある。周囲は勾欄付廻縁をめぐらしており、背面の廻縁には
  木階を設けて、基壇面に降りるようになっている。

  桟唐戸(さんがらと:正面中央など)、蔀戸(しとみど:正面左右など)、板壁など、
  すべて素木のままである。屋根は入母屋造、本瓦葺、二重棰(たるき)とし、細部の
  様式は和様を主とする。

  内部は、内陣が土間で、外陣と同じ高さの須弥壇が設けられている。須弥壇の上に
  本尊その他の仏像を安置する。内陣を土間とする構造は中堂造(ちゅうどうづくり)
  と呼ばれ、天台宗独特のものである。現在は仮の床が張られ、内外陣ともにすべて
  畳敷になっている。】
  (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)


歴史・建築・宗教的部分とに分けて
それぞれをしっかり解説してるとは思いますが、
あまり長い文章にすると誰も読まないからね~

ので、これだけの内容にとどめているのは致し方のないことだと思います。
私のブログを読んで下さってる方は、長文は慣れっこでしょうし(笑)、
歴史の好きな方々ばかりだと思いますので、
ここから再び『寛永寺』をもとに若干の(←予定)補足をさせて頂きます。

ちなみに、寛永寺の歴史はいくつかの側面で
それぞれ重い歴史を背負ってますので、
歴バナを一気に書くのは私も大変だし、読む方も忘れちゃうかもしれない。

ので、本シリーズでは各スポットで関連する歴史を
ちょぼちょぼ書いていこうと思います。
話が前後してわかりにくい箇所もあるかもしれませんが、
ご了承ください。



「上野第一編(4)」 では、天海が元和8年(1622)に
徳川秀忠から上野の地を与えられ、翌元和9年(1623)に
徳川家の別殿と白銀3万両をもらって、これを基に寛永寺の建立が進められ、
その2年後の寛永2年(1625)、3代将軍・家光の代になって
現在のトーハク(東京国立博物館)の場所に本坊が建立され、
この年をもって寛永寺の創建とされた・・・ってとこまで紹介しました。


寛永寺の正式名称は「東叡山 寛永寺」。

「東叡山」はあの比叡山に対応する山号で、「東の叡山」を意味する。
「寛永寺」は比叡山延暦寺が元号を寺名としたのにならい、
創建された「寛永」の元号を取って「寛永寺」としたとされる。


そもそも元号を寺の名に戴くというのが特別なことらしく、
他には弘仁寺・建仁寺・長禄寺・仁和寺などがあるが、数は少ない。

延暦寺の場合は勅許によって寺名を決めたということで、
寛永寺も同じく勅許を取り付けて寺名を決定している。

そうしてスタートした「東の叡山」寛永寺は、
名前だけ延暦寺に対抗したものではなかった。

まず寺地の選定。
上野は確かに秀忠からもらったけども、

「どこでもお好きな場所に寺を建てますから~」

って選地を秀忠に丸投げするハズもなく、
最澄が御所の鬼門(北東)・比叡山に鎮護国家のための寺・延暦寺を建てたように、
江戸城の鬼門にあたる上野を天海自身が選定したといわれる。

その後増えていく堂宇や付近の名称なども延暦寺に対応したものであり、
各建物などはおいおい紹介していきますが、




ってぐらい、初めて知る叡山との関連性に驚いたことは多かった。

『寛永寺』でも、

 【天海僧正の比叡山への固執ぶりは尋常なものではなかった。】

って書いてるぐらいだし


で、藤堂・津軽・堀の各大名から土地を巻き上げて・・・
(は冗談です。この3者はちゃんと優遇されてます。)
まずは本坊から取りかかったようだけど、元和9年に秀忠から拝領した御殿というのは、
家康が駿府と江戸を行き来していた頃、
秀忠が家康を送迎した御殿だったそうな。

だから、秀忠からも相当な扱いを受けてたってことだよね。


本坊ができると、そこから2年のうちには諸大名の寄進によって
色んな建物が建てられ、その後も堂宇は増え続けていった。

ところが、延暦寺の根本中堂っていえば山内の中心でしょ?
ってイメージがあるのに、寛永寺に根本中堂が建立されたのは元禄10年(1697)、
落慶はその翌年の元禄11年(1698)・・・
なんと綱吉の時代に入ってからだった。

何でそこまで遅れたのか、あまり詳しいことはわからないけど、
寛永寺に根本中堂を建てる前に、天海は比叡山に大講堂(寛永13年:1636)、
根本中堂(寛永17年:1640)を家光から寄進させ、
その他にも文殊楼・四季講堂などの建物を建立したとある。

 【そこには大師(天海)の無私の心と比叡山への崇敬の念が強く感じられるのである。】
  (『寛永寺』より)


ただでさえ天海ジイさんて普通の人の2倍生きてるし、
前半生はあまりよくわかってないみたいなのに、
その上こうした不可解な事実があるともう混乱してきます

イメージ的には、天海さんて叡山への対抗心バリバリなんだけど・・・


それはともかく、天海がエネルギッシュに活動した結果が、
自分とこに根本中堂の建立が遅れた一因になったようであります。



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最終更新日  2014年03月13日 21時46分05秒


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