戦国ジジイ・りりのブログ

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2013年11月14日
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カテゴリ: 上野と寛永寺
で、めでたく綱吉が根本中堂建設に乗り出す訳ですが、

上野公園内のあのデカい噴水の場所に建てられました。

当時、噴水の場所には別の建物があったので、
根本中堂を建てるためにそれをちょっと不忍池(しのばずのいけ)の方へずらして
建てたんだそうな。

この辺りは「竹台」(たけのだい)と呼ばれ、
左右に竹が植えられていたことからこの名前が付いた。
植えられていた竹というのは、慈覚大師・円仁が唐入りした際、




え~っと、私の手元には『東叡山 寛永寺』という小冊子もあるんだけど、
これどうしたんだっけ・・・
もらったのかな?
いやでも、ゴーカ写真入りだから開山堂あたりで買ったのかもな。

綱吉が建てた根本中堂の規模は『寛永寺』の方にも書いてあるんだけど、
「間口何間」と言われても、柱を何本建てればいいか想像するぐらいで
実際の大きさはなかなかピンとこない。

が、小冊子の方はわかりやすく書かれていて、それによると
間口45.5m、奥行42m、高さ30mとある。

え~、45m!?
50m走のゴールって結構遠くなかったっけ・・・


と思って地図で測ってみたけど、はみ出るほどではないらしい。
ただ、噴水脇の広い道までめいっぱい使ったサイズにはなると思う↓。


上野・噴水広場



これは先日の、第3回目の訪問の朝の写真ですけどね。
普段はこんなテントは張られてないけど、


この辺はご覧の通り広々としてて、噴水もごく小さくしか写ってないけど、
手前にいくつかの堂宇があってその奥に根本中堂、
奥に見えてる建物がトーハクで、かつてはそこが本坊でした。

これだけの規模の建物なので、『東叡山 寛永寺』には
「江戸随一の建物でした」とある。


寛永寺の執事長さんが書いた『上野寛永寺 将軍家の葬儀』(浦井正明著)という本には
主要堂宇の初建年次が一覧表になっていて、
それによると寛永2年(1625)の本坊建設から
長い時間をかけて堂宇が次々新築され、その中では根本中堂は
なんと最後から2番目に遅く建立された。

根本中堂ができた同じ年には、宝蔵や吉祥閣なども建立され、
主要な堂宇はほぼこの時点で出揃ったといえるのだろう。



また、寺域も様々な出来事をきっかけとして次第に拡張され、
大きく5期に分けられるという。

そのうち、最後の大拡張が根本中堂のできた時期、
元禄~宝永年間(1686~1710)。


 【元禄期の拡張の目的は、主として元禄11年(1698)の竣工した根本中堂と
  その周辺に存在する主要伽藍を火災から守ることにあった。(中略)江戸期の
  火災発生件数はわれわれの想像を遥かにこえたものであった。したがって、
  当然のことながら火災に対する備えがきわめて重要な問題となってくるわけである。
  いわば元禄の拡張は、諸堂宇や子院を主要伽藍から隔離するための新たな境内地が
  必要になったことを意味している。】
  (『上野寛永寺 将軍家の葬儀』より)


火災・・・きましたね、私の好きな話題が(笑)。

いや、好きっていうか、なんか気になっちゃうんだよね~。
「江戸の花」っつったらもちろん火事と喧嘩ですが、
もしかしたら私の中に流れてる江戸っ子の血が騒ぐのかな~
なんて最近思い始めた。

ああ、私自身は雑談 「お受験終わり。そして東京から江戸へ 」 で書いた通り、
完璧な柏っ子ですけどね。

けど、母親が馬込(大田区)の出身で、母方のジイちゃんの母ちゃん・・・
つまりひいばあちゃんなんかは、キップのいいちゃきちゃきの江戸っ子だったらしい。

ま、それはともかく寛永寺は主要堂宇が出揃うまでも長い時間をかけてるし、
新しい建物を建てるのに子院を移動させたりとか、
あと寛永寺内でも火事があったらしく、
そうした出来事などをきっかけに、寺内ではかなり多くの変遷が繰り返されている。

時代と場所が近いために、ちょっと本などを見ただけで
江戸市中や寛永寺の古絵図が簡単に手に入り、
すでにいくつか手元に持ってはいるんだけど、
結構絵図ごとに子院の場所などが違っていて、
それら細部を正確に説明するのは難しい。

そうは言っても、根本中堂や本坊、東照宮などメイン中のメインは
移動がないので、現在の地図と同定はしやすい。

で、『寛永寺』の表紙になっている絵図は恐らく結構初期の頃のもので、
延宝8年(1680)以前と思われる。
根本中堂が描かれてないし、家綱の霊廟も描かれてないからね。

その絵図では、噴水広場辺りにはいくつかの伽藍が描かれていて、
敷地の横幅もおおむね現在の広場と同じくらいの規模だったと思われるものの、
その両脇には子院がびっしりと控えている。

それが、根本中堂ができた後の時代の絵図になると、
噴水広場脇にあった子院はかなり遠ざけられている様子がわかる。

おお~、なるほど、これ火除けなのか~と思ったね。

ただ、新しい方の絵図ではもと子院のあった場所には「松原」が広がっていて、
その奥に子院があるので、もし子院から出火して松原に延焼したら
やっぱりメイン部分も類焼するんじゃないかな・・・

ホントに火除けになんのか、これ!?
ってちょっとツッコミ入れました

根本中堂のあった場所は現在では噴水になってますが、
ここは子供はもちろん、大人もゆったりと憩う場所。

この場所が根本中堂だったことを知ってる歴史ファンは多くいますが、
なにしろ多くの美術館・博物館や動物園を擁する場所でもあり、
上野の山を訪れる人は多い。
ので、全訪問者数の比率でいえば、噴水広場で寛永寺の歴史に浸る人は少ない。

ですが、あのだだっ広い噴水付近を通る時には
そんな歴史もあったんだな~ってことを思い浮かべていただくと、
また違った感慨があるのではないかと思います。



あ・・・
結局、火事に食いついている(笑)。
話を根本中堂の歴史に戻しましょう。



元禄期の拡張は火災対策だったらしいが、
宝永の拡張は綱吉の霊廟建設のためだったという。
そして、これをもって寛永寺の寺域はほぼ固定化したとある。

空前の大伽藍・根本中堂の建設には松平薩摩守が任命された。
『寛永寺』によると、「含み状を頭髪に結びつけ、決死の覚悟で
中堂の建設に当たったという」とあるから、
名誉なお役目以上に責任重大だったんだな。
可哀想に・・・

ただ、 綱吉の霊廟勅額門 のところにあった解説では
奉行は柳沢吉保が勤めたとなってたけどね。

松平薩摩守って誰よ?と思って調べたら、
時期と官職からどうやら島津綱貴(つなたか)のことらしい。
あの島津忠恒のひ孫にあたる方ね。

ウィキペディアの島津綱貴のページには、

 【幕命による寛永寺本堂造営の普請手伝い、金銀採掘の手伝いなどを命じられ、
  薩摩藩の財政は逼迫した】

とお手伝いさんだったように書かれてるけど、
どっちの立場だったにせよ、綱貴は根本中堂で苦労したってことだな。



本尊は薬師如来。

これもね~、堂宇なら何やらにはそれぞれ色んな意味が込められているので、
『上野寛永寺 将軍家の葬儀』などのちょっと詳しい本を読むと、
シロートの手にはおえんな・・・とげんなりしてくるんだけど、
まあかいつまんで説明しますと、まずここにも叡山との対応が見受けられる。

延暦寺根本中堂の本尊は薬師如来像。
「東の叡山」だから当然ともいえる。
が、それだけじゃなく、東照大権現として神格化されていた家康の本地仏も
薬師如来。

『上野寛永寺 将軍家の葬儀』では、家康が江戸に入府して以来、
徳川家の祈祷寺としては浅草寺があったのに、
なぜあらたに寛永寺が建てられたのかという疑問について論じていて、
その理由のひとつにこの点を挙げている。

つまり、薬師如来を祀りたいダブルの理由があるのに、
浅草寺の本尊は観世音菩薩だったから、ちと具合が悪かったのだろうとしている。
明快だな。

しかも、ただの如来像じゃない。
わざわざ近江の石津寺から勧請した。
近江という場所もポイントだけど、なんで石津寺の像が狙われたかというと、
延暦寺根本中堂の薬師如来像と同じ木材で、伝教大師・最澄が自ら刻んだという
言い伝えのある像だったのだという。

脇侍には、日光・月光の両菩薩像。
こちらは山寺として有名な出羽・立石寺から勧請されたもので、
慈覚大師・円仁の作と伝えられるもの。

以上の三尊は上野戦争の際には運び出され、幸いにして現存し
今も根本中堂におわすという。
いずれも重要文化財。


寛永寺根本中堂の名作仏像コレクションはまだ続く。

中央須弥壇には他に十二神将もおり、これまた立石寺からのもの。

須弥壇左右の脇壇には、智証大師・円珍作の不動明王と
定朝 作の毘沙門天がおわした。

不動明王と毘沙門天については、
どこから来たのかは『寛永寺』には書いてないけど、
これだけのメンツを揃えてるのだから、
やっぱりどこぞの寺から奪って・・・いへ、勧請したのだろう。


 【堂内は、天井の中央に狩野永叔の竜、左右には狩野探信、探雪の天人、
  後方の壁には狩野探叔の十六羅漢など幕府奥絵師狩野派の豪華絢爛たる
  障壁画で彩られていた。】
  (『寛永寺』より)


で、これら豪華な品々を収めたお堂の外側には後水尾天皇および
東山天皇の勅額が掲げられるという、規模から中身から
すべてが豪勢なものだった、とな。

これだけのお堂、島津綱貴だけじゃなく絵師やら大工やら関係者は
そりゃ大変だったろうと思うけど、一方で資材調達にあたった
紀伊国屋文左衛門などは大もうけしたっていうんだから、
やっぱり公共工事ってのは儲かるんだなあ・・・


その後、安永5年(1776)と文久2年(1862)に大修築がなされたが、
慶応4年(1868)5月15日、焼失。

この日は上野戦争の日で、戦火にかかったのかと思ったら、
『寛永寺』には

 【上野戦争は午後2時頃には官軍の勝利となり、彰義隊は山内から追われてしまったが、
  山内を巡回した鳥取藩士堀正等が、ずっと警固しているのも面倒とばかり、
  中堂に火を放った結果だというのだから、残念なことであった。】

とある。

これ、ホントの話でっか・・・

しかし、贅を尽くした、まさに徳川家と一体だった寛永寺の中堂が
幕府崩壊とともに灰燼に帰したことは、実に象徴的だと思うのは
私だけではないだろう。


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最終更新日  2014年08月09日 23時59分00秒


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