戦国ジジイ・りりのブログ

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2013年11月16日
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カテゴリ: 上野と寛永寺
さて、前回は現在の上野公園の噴水の場所にあった根本中堂の話でしたが、


まずは、正面側の風景。


上野・寛永寺・根本中堂39



上野・寛永寺・根本中堂40



上野・寛永寺・根本中堂44



上野・寛永寺・根本中堂45



上野・寛永寺・根本中堂47


上野・寛永寺・根本中堂48


上野・寛永寺・根本中堂49



上野・寛永寺・根本中堂51


根本中堂正面の鰐口↓。
これだけデコラティブなものは珍しい。


上野・寛永寺・根本中堂43



この鰐口の由来を知りたいと思ったけど、ちょっとわからなくて残念。
そんなに古いものではないのか、
あるいはお堂と共に川越から引っ越してきたものなのか・・・

寛永寺では、歴史を語る古い鰐口も保存されているけど、
そちらはまたおいおい・・・


鰐口の奥に掛かるのは


上野・寛永寺・根本中堂41



巣鴨にもこーゆーのあったし、建物保存のための鳥よけだろうとは思うけど、
できればない方がいいなあ・・・

都内の寺社めぐりはこれからになりますが、
他にもこんな寺が多くありそうな気がするな。

いやいや、ネットよりこの額です。



前々回の中堂の解説から一部引っ張ってきますと、この建物は

 【明治9年(1876)から12年にかけて、埼玉県川越市の喜多院の本地堂が
  移築され、寛永寺の本堂となったのである。寛永15年(1638)の建造と
  いわれる。】

というもの。

え~、川越ね・・・
行ったことないし、建築もいい感じだからぜひ行ってみたいとは思ってるんだけど、
「小江戸」と呼ばれる川越は人気の観光スポット・・・

いつ行っても観光客が多そうだしな~。
真冬なら少しは減るんでしょうけど、冬は私も忙しいしなあ。
それにあそこは、戦国時代にも色々とあった歴史の濃い場所なので、
気軽に行くにはちょっと・・・

ま、いずれ行くには行くつもりだし、詳しい説明はここでは控えますが、
なんでわざわざ川越から移築してきたかって理由について述べてくれてる
人はいないんだけど、喜多院も天海とゆかりの深い寺だそうな。


天海の前半生についてはあまり細かいことはわかってないらしいが、
11歳で仏門に入り、20代の頃に7年ほど、叡山と園城寺(三井寺)、
それと奈良の興福寺で勉強した以外はほとんどが関東+甲斐での活動らしい。

その前半生のラストの時期にあたる慶長4年(1599)、
63歳で当時の無量寿寺、今の喜多院に入ってそこで名を「天海」に改めた。
ウィキペディアでは天海が喜多院に入ったのは天正16年(1588)だとあるが、
少なくとも慶長4年には喜多院にいたといえるだろう。

天海と家康の出会いの時期についても様々な説があってはっきりしないが、
ともかく慶長18年(1613)には徳川秀忠の関東天台法度により
関東天台総本山と定められ、その後も幕府重鎮や徳川家光などの庇護により発展、
喜多院には現在も家光や春日局ゆかりの建造物などが残る。

喜多院の創建自体はかなり古いものだけど、
江戸期にはこのように徳川家との関わりが深かったので、
そうしたことから喜多院の建物をもらってきたのだろう。

元号を寺名に戴いた「寛永寺」にとっては、寛永期に創建された建物というのも
ポイント高かったかもね。

ただ、個人的にはよくこの時期に新政府が移築を認めたな~って
気もするけどね。


え~と、それで扁額ですが、「瑠璃殿」というのは、
かつての根本中堂の別名。

「浄土」については過去のシリーズで何度か書いた記憶がありますが、
うち 「山口編(10)」 では薬師如来様の浄土について書きました。

宗教オンチになってしまった現代人には浄土=極楽の
単純な図式ぐらいしか思い浮かばないかもしれませんが、
実際には浄土はいくつもあります(と仏教では言われてます)。

で、薬師如来様の支配する浄土が「東方瑠璃光浄土」なので、
本尊に薬師如来像を戴く寛永寺根本中堂は「瑠璃殿」とも呼ばれたそうな。


そして前回、かつての根本中堂を飾った勅額について

 【これら豪華な品々を収めたお堂の外側には後水尾天皇および
  東山天皇の勅額が掲げられるという、規模から中身から
  すべてが豪勢なものだった、とな。】

とあえてさらっと書きましたが、
このうち中堂正面を飾った東山天皇の宸筆による「瑠璃殿」の勅額が
上の写真の扁額です。



とある先人の訪問記では、この勅額は上野戦争で中堂が燃えた際に
落っこちてしまったものを再び掲げたとあった。

おお、すげえ歴史だなあ~!!
と読んで感動したものの、『寛永寺』には全く別のことが書いてあった。


 【瑠璃殿の勅額が江戸に到着した日、新橋方面から出火した火事があり上野まで類焼、
  本坊、厳有院病・子院13宇を焼失したが、中堂は危うくまぬかれたのであった。

  その後火災を心配して、公弁法親王の勅額の複製を造り中堂に掲げ、本物の額は
  勅額倉を建て保管してあったので、上野戦争で根本中堂が焼失しても、
  勅額は無事で、現在本堂に掲げられている。】


アハハハハ、全っ然違うじゃ~ん!!

「落っこちたものを再び掲げた」より
「火事対策に最初からレプリカを造っておいた」の方が
いかにも江戸ってカンジだし、妙なリアル感があるよな。

それに、わざわざ勅額蔵まで建てたってことまで書かれてるし、
なにより寺の記録だから、どこから仕入れた情報かわからない「落っこちた」説より、
レプリカ説の方が誰が見ても信憑性は高いだろう。

私のも含め、歴史ファンの書く記事にはちょっと注意が必要ですよ


それにしても、根本中堂だって火よけに敷地を確保した上で建てられたんだし、
火事が多いなんてのは初めからわかってるんだから、
レプリカを造るぐらいなら勅額なんてもらってこなけりゃよかったんじゃ?
ってツッコミ入れたくなるのは私だけじゃないだろう(笑)。

レプリカを書いた公弁法親王というのは、時の寛永寺門跡。
「親王」が付いてることからもわかるように、宮様です。
公弁法親王は能筆家でもあったらしいんだけど、
いくら字がうまいからって、さすがに勅額のレプリカを
ただの人が書ける訳もないでしょうしね。

しかし、ここからもやっぱり中堂の火よけの効果には疑問があるな。
松原を周りに置かない方がよかったんじゃ・・・


てことで、この額は300年ちょっと前の勅額な訳ですが、
元禄11年(1698)の落慶から明治12年(1879)の移築あたりまで、
180年ぐらいずっと大事に保管されてた割には、
保存状態はイマイチ・・・
まあ、修復とかなければこんなもんなのかな。

江戸に来たその日にそんな出来事があったのなら、
場合によっては一度も綱吉の建てた中堂には
この額は掲げられなかったのかもしれない・・・

でも、蔵に長いこと閉じ込められず、中堂に華々しく飾られてたら
今頃この勅額はこの世に存在していなかったかもしれない・・・
実に数奇な運命を経て、平成の世では現役として
拝観者を迎えてくれます。

ちなみに、後水尾天皇の勅額の方には「寛永寺」と書かれているそうで、
「院」じゃなく「天皇」だからおそらく在職中に書かれたもので、
根本中堂のできる以前に寛永寺に贈られたのだろう。
こちらは見た覚えがないので、現在どうなっているのかはわかりませぬ。



さて、中堂を降りて向かって右側にある・・・これ、何て言うんだ?↓


上野・寛永寺・根本中堂53



写真じゃ大きさはわからないかもしれませんが、
すごくデカイのだ~。
あまりにデカいので、背伸びしてつい中を覗きこみました。

そしたら、五右衛門風呂としてもいけるよな・・・
ってぐらいのサイズでした。
よい子はそんな想像しないでね

銘には明治12年9月23日とあるので、
寛永寺が再興されてからあらためて中堂に奉納されたものらしいけど、
まだまだビミョ~な時期だよな
奉納者は連名になってるんだけど、一体どういう人達だったんだろう。



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最終更新日  2014年08月09日 23時58分42秒


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