戦国ジジイ・りりのブログ

戦国ジジイ・りりのブログ

2013年12月08日
XML
カテゴリ: 上野と寛永寺
さて、良源さんのお力を示すエピソードとして、
死後600年以上も経ってから天海とタッグを組んで徳川家に貢献した話に
4代将軍・徳川家綱の誕生に関わるものがある。

これは前々回の解説の最後に書かれてるもので、
自分の記事の中でいつ書こうか考えてたんだけど、
別のところで書くとなるといつの公開になるかわからないので、
やっぱりここで書いておくことにしました。



ここまでの上野編で幾度となく本文を引用し、
また多く参考にさせていただいてる寛永寺教化部発行の『寛永寺』、


『寛永寺』には巻頭に、寛永寺所蔵の什宝の写真が結構載せられてまして、
その中に『伝民部法眼筆「元三大師御真影』というのがある。
写真に付いてる解説を抜粋してご紹介します。

 【(前略)形態は比叡山瑞応院本と類似するが、時代はそれより古く応永期頃の
  作であろう。本図には、織田信長の比叡山襲撃の際に横川から辛くも救出されて
  伊勢西来寺に蔵されたが、三代将軍家光の世子誕生祈祷に当って天海が借り受けて
  本尊とし、家綱が誕生したという来歴がある。

  以来、寛永寺は本図を秘蔵の一幅として相伝した。慈恵大師画像の逸品として
  よかろう。】
  (『寛永寺』より)


最初私はこちらの話しか知らなかったので、

「へえ~、なるほど・・・
てか、レンタル品がなんでここにあるの?
天下の寛永寺が300年以上も延滞してていいんですか!?」



先日日光に行ってからは、どうにもわからなくなりました。


そうなんです、日光にも関係があったんです。

日光輪王寺の本堂は、ご本尊様がおわす三仏堂。
現在もまだ工事中で、全面シートに覆われてる写真は
「輪王寺1」 で載せてます。

また 日光ですが、
メインタイトルと記事の中身がマッチしてないのは
神辺城シリーズで前科がありますしね
遠慮なく書かせていただきますね。


先月だったか、輪王寺から「もうすぐ1年経ちますよ~」のお知らせを戴いた中に、
三仏堂の進捗状況についての報告も入ってたのでちょろっとツイートしましたが、
そのお知らせでは三仏の阿弥陀様・千手観音様・馬頭観音様のうち、
現在堂内におられるのは阿弥陀様だけで、あとのお二方は修理のため
関西の特殊工房に出向いておられるとあったのに、
私が先日行った時には阿弥陀様もおられなかった。

3人が再びお揃いになるのはなんと5年後。
年末が近くなると、関東では毎年このデカい三仏のすす払いが
年末恒例行事としてニュースで放映されますが、
当分の間はこのニュースは見られそうにありません。


お堂の主の三仏が皆様お出かけになられて、
現在の三仏堂はすっかり工事現場と化している訳ですが、
工事のために物を移動させてたりするので、
通常は見られなかったり見にくいものがよく見えるという、
期間限定のお楽しみもあります。

日光におけるわたくしの行動は、二社一寺のうち、
二社(東照宮・二荒山神社)よりもだんぜん一寺(輪王寺)の比重の方が大きい。

ここ数年は三仏堂へは寄ってませんが、
それでもここには阿弥陀様(わたくしの守り本尊)や天海の像など
お気に入りも多くあるので、以前は毎回寄ってましたし、
内部は大体把握してます。

ので、何が工事期間中のラッキーなオプションなのかも
自分で探せる訳ですが、三仏を過ぎた奥に小さな護摩壇がある。

三仏はキンキラだし、まあ明るいところにあるのですが、
護摩壇の方は薄暗いせいもあってか、あまり寄る人はいない。

が、私はなぜかここが好きで、首が疲れるまで三仏を見た後は
必ずここに寄って大きなお鉢にこれまた大きなスリコギで

ご~~~~~ん・・・・・

と鳴らして、お参りする。
ここにも小さな賽銭箱があるので、もちろん別口で寸志を納めます。

ところが、好きといってもかなり漠然としたもので、
あんまり細部についてはこれまで見たことはなかったし、
そもそも暗いので護摩壇の構造を把握してはいなかった。

それが、今回は工事中につき堂内は明るく照らされていて、
護摩壇もよく見えた。
建築が好きになったこともあるし、今回は寛永寺萌え~してたので、
昔とは視点が違っていることが自分でもよくわかった。

残念ながら、今回は護摩壇の回りにはロープが張られていて、
「ご~ん」はできなかったんですが、今さらながら

「へええ~~~・・・
こんなんなってたんだ~」


って興味深くしげしげと眺めておりました。

護摩壇の前にあるのは、黒塗りの大きな御厨子。
1m50cmくらいはあるかなあ・・・

堂内は撮影禁止なので写真はありませんが、
通常よりよく見える御厨子をじろじろ見ながらルートに従って回り込むと、
御厨子の背面が露出していて、朱で何やら書いてある。

これは通常は見えていなかったものじゃないかと思うけど、
あるいは暗くて気が付かなかっただけかもしれない。
それに、長年通ってるとはいっても、自分でも笑っちゃうくらい
日光に関しては歴史とか何かの由来とか知ろうともしなかったのでね。

ホントにねえ~、何も知らなくて、一体何が好きで
何しに通ってたんだろうと爆笑すらしたくなります


っと、それで御厨子。
朱書きの銘文は漢文ですが、わかりやすい説明文が貼ってあったので、
手書きで写してきました。


 【この慈恵大師画像の秘仏とされるゆえんは、ある時大師が比叡山横川で座禅された
  時の影が壁に消えずに残った。それを弟子の阿闍梨公が絵に写し留めたところ、
  影が消えたともいわれたもので、影大師と称する霊像である。

  信長の比叡山焼討の難を逃れ秘匿されていたものを、寛永17年将軍徳川家光の
  お世継ぎ誕生祈願のために関東に移し、その霊像を本尊として天海大僧正が
  日光で祈祷し、8月3日無事家綱公が誕生された。

  鎌倉・室町期の源家(将軍家)も祈り、また徳川将軍家も守られたもので、
  これを写して江戸の泰平と国家安寧を祈るために厨子を造ったとされる。

  江戸の棟梁鈴木氏が歴代修理(安永年間:1770年代、文久3年:1863)を
  重ねてきたことが記されています。】


で、厨子の最後にある日付は「寛永19年壬午天正月吉日」。

『寛永寺』の解説と読み比べてみて下さい。
「織田信長の叡山焼き討ちをかろうじて逃れた慈恵大師の画像に天海が祈り、
めでたく家綱が誕生した」という部分は一致してますが、
細部が違う。

『寛永寺』には、天海がどこで祈祷をしたのかは書かれてないけど、
三仏堂の厨子の銘によると日光で祈祷をしたことになっている。

また、厨子の文には「これを写して」とあるので、
寛永寺にあるのが原本で日光の厨子に納められてるのがコピーとも読めるけど、
寛永寺の画像は応永頃の作と推定されている。

一方の三仏堂厨子の画像は、良源さん存命中に描かれたものであり、
鎌倉の将軍家もお世話になったって話になっている。
ので、寛永寺所蔵と日光輪王寺所蔵の慈恵大師画像は
制作年代がズレる。

画像を見比べれば手っ取り早いんだけど、
『寛永寺』は写真が載ってるのに対し、三仏堂の御厨子は閉じられてて
画像は見られない。
秘仏ってあるしな・・・


日光山内で売ってる刊行物は、おととしあたりに東照宮で買った
『謎と不思議 東照宮再発見』ぐらいしか持ってなかったので、
いいかげん日光についてもちゃんと勉強しようと思って、
今回は買える刊行物はなるべくすべて買おうと思っていた。

しかし、今までは買うつもりがなかったから知らなかったけど、
いざ買おうとなると案外少なくて、輪王寺の大護摩堂(←色々売ってる)には
ホントの観光用パンフレットって類のものしかなかった。

で、護摩堂の若い坊様とちょっと話をしてた時についでに
なるべく詳しい歴史とか書いてあるものがないか聞いてみたら、
宝物殿の方に置いてあると教えてくれたので、
お護摩の後で宝物殿に行って『輪王寺 宝ものがたり』(東京美術)なる本をゲットした。

それには「慈恵大師画像」の写真が載っていたので、
『寛永寺』のと見比べてみた。

う~ん・・・
良源さんのポーズとか、着物の感じなんかはほぼ同じなんだけど、
着物の柄が違うし、持ってるものもちょっと違う。
脇侍に至っては、全然違う。

画像自体は、日光輪王寺の方が状態がいいし新しいカンジ。
だから寛永寺のをコピーした絵かなって気もするけど、
『宝ものがたり』に掲載されてる画像が「影大師」だとは一言も書いてない。

画像の掲載されている同じページには、こんな解説が載っていた。


 【もと天狗堂と呼ばれたお堂がありました。慈恵大師堂が正式な名称で、
  本尊は慈恵大師、それと将軍地蔵・大天狗・役行者・牛若丸も祀られていたと
  いいます。

  このお堂は家光公の若君誕生(寛永17年:1640)の祈願のため天海大僧正が
  指揮して建てたものです。翌年自らここに籠り日光山の僧と寛永寺の僧、それに
  日光山伏らがともに修法を凝らして祈念を込め、そのかいあって家綱公が無事
  誕生されたといわれます。】
  (『輪王寺 宝ものがたり』より)


寛永寺・日光輪王寺それぞれの解説を見てると、
それぞれに別の話が伝わっていて、双方が

「ウチが祈祷して、慈恵大師画像もウチにあるんだよ~!
ウチが!ウチが!」


って競ってるような印象があって

「どっちが正しいんじゃい!!」

ってイラついてきたんだけど、『宝ものがたり』を読んでちょっと納得した。

つまり、誕生祈願は日光で天海が行ったんだな。
画像の由来に違いはあるけど、「影大師」の写しが横川から流れて
日光で期待に応えたあと、おそらく江戸へ移されて、
それが現在の寛永寺所蔵の画像なのだろう。

日光輪王寺の御厨子は家綱誕生後に造られたものだから、
寛永寺所蔵の画像を写したものを納めたんじゃないか・・・
そんな風に、自分の推測をまとめました。
まあ、「影大師」の確実な絵を見てないので何とも言えない部分はあるけどね~。


こうして、良源さんのお力を借りて子宝祈願に臨んだ天海だったが、
この願いが叶わない時は二度と山菅の橋(現在の神橋)を渡ることはない・・・
つまり、江戸へは戻らず、日光で隠遁するとの決意をもって挑んだともいう。

そして見事4代将軍の誕生に貢献した天海は、
世継ぎである幼子に「竹千代」と命名したとされる。

「竹千代って、徳川家の世子に付けられる幼名でしょ?
天海が名付けたっておかしくない!?」


ってほとんどの人が思うでしょうが
そんな話もあるってだけのことです。
あるいはここから以後の世継ぎに
竹千代の名が与えられるようになったのかもしれないし。



にほんブログ村





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2014年08月02日 22時57分14秒


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

PR

×

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

りりじい

りりじい

カレンダー

コメント新着

王島将春@ Re:浅草&寛永寺法要編(8) 東国の成熟(01/08) はじめまして。福井市在住の王島将春(お…
よー子@ 墓参り2014(2) 慈眼寺~芥川龍之介と小林平八郎の墓(08/02) 前略 初めてお便りします。 質問ですが、…
伊藤友己@ Re:上野第三編(12) 寛永寺105/清水観音堂~越智松平の灯篭(06/20) 越智松平家が気になって詳しく拝見しまし…

サイド自由欄

よみがえる江戸城 [ 平井聖 ] 価格:2916円(税込、送料無料)






PVアクセスランキング にほんブログ村

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: