戦国ジジイ・りりのブログ

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2013年12月09日
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カテゴリ: 上野と寛永寺
前回ちょっと収まりきりませんで(笑)、
良源さんのありがたい画像の続きですが、
「上野第二編(8)」 の両大師門前の写真の中に、
金文字で「両大師」と書かれた木の札がありますね。

これについて『寛永寺』に解説があって、

 【明治までは、両大師の画像が1ヵ月ずつ子院をめぐり、画像のある子院の門前に
  建てられたものである。そして10月1日に両大師に戻り、2日の天海僧正の
  命日には、本坊から輪王宮が輿に乗り、一山住職とともに盛大なお練りが行われ、
  この行事を見物するため江戸庶民が蟻のごとくむらがった、との記録がある。


だそうな。

宮のお練りかあ~。
上野でそんな華やかなイベントがあったなんてね。

江戸期の天海の人気は知らないけど、良源さんは古くから人気者だし、
宮は江戸っ子の誇りだったからね~。
(すいません、宮についてはもうちょっとお待ちください)
すごい人出だったってのは、容易に想像がつく。

スタートは本坊だろうけど、どのルートを通っていったんだろう・・・
根本中堂を一周ぐらいかな?
東照宮にも寄ったかな?(←現地でRPGしたい)
山同心たちも、さぞ警備が大変だっただろう・・・

「上野第二編(7)」 で彼らの制服について書きましたが、
ハッピの背中に染めぬいた「カスガイ山」ってどんなんだろうと思っていたんだけど、
『寛永寺』の裏表紙にあるこのマーク↓


カスガイ山


山っぽい形をしてるし、これのことかな~と思っていた。

思いがけずこのマークのことがわかった。

これはやはり「カスガイ山」で、なんと宮がご使用になられた紋らしい。
宮はもちろん宮様なので、天皇家の菊の御紋もあわせて使っておられて、
菊の下にカスガイ(鎹)の入った旗の画像がネットで公開されていた。
宮が遠出なさる時は、この旗を立てていったらしい。

てことは、山同心たちは宮印のハッピを着て山内を闊歩してたってことで、
さぞかし誇りを持って仕事してたんだろうなあ~と
しばし空想の世界に浸りました。



さて、ここからはいよいよ天海さんの話に移ります。
まずは両大師の門にあった解説文の続きから。


 【二、慈眼大師小史

  天海大僧正(1535~1643)は寛永寺開山、東叡・日光両輪王寺の
  開基であり、神儒仏の三教にわたってその神髄を会得された高僧である。

  大僧正は天正18年(1590)徳川家康公と相識り、江戸幕府が開かれるや
  仏教による平和政治を献言し、治国平天下の祈願寺として、また源平以来の
  戦乱犠牲者の冥福を追善する東叡山寛永寺を勅許により寛永2年(1625)に
  創建して開基となった。

  この寺名は天台宗祖伝教大師が比叡山を開いて延暦寺を建て、国家鎮護の道場と
  されたことにならわれたもので、関東の比叡山という意味である。

  また大僧正は将軍が江戸に住み政治の中心となったと同じく、東叡山を宗教の
  中心地として永く泰平の基礎を確立するため、正保4年(1647)後水尾天皇
  第三皇子尊敬法親王(後に守澄と改む)を勅許によってお迎えして、
  輪王寺門主と申し上げ、法親王は天台宗を管領して比叡東叡日光の三山を統括
  せられることとした。

  戊辰の役(1868)は第13世輪王寺宮公現法親王(のちの北白川能久親王)の
  ときである。

  これより先、大僧正は元和2年(1616)4月17日家康公の死にあい、
  遺命で葬儀の導師を勤めたが、翌3年家康公に山王一実神道による東照大権現の
  神号を賜わり、日光に東照宮を建てて奉祀した。日光山の今日あることは
  大僧正の偉業の一つである。

  その他大僧正の偉業として特筆されるものに、織田信長公によって焼土となった
  比叡山諸堂宇の再興があり、また天海版といって珍重される大蔵経の開版がある。
  なかでもこの上野に桜樹を吉野山から移植されたことや、不忍池を蓮の名所と
  したことは吾人の忘れてならないことである。

  大僧正は108歳の長寿を保って寛永20年(1643)10月2日東叡山で
  遷化されたので、その御遺徳を追慕して翌正保元年に慈眼堂が建てられ、
  また大僧正が生前とくに「われなきあとは慈恵大師の御影と共に天下をまもり
  万人に利益(りやく)を授けん」と語られた因縁により、慈恵大師を併せて
  おまつりし、日々不退に御供養することは変わらない。

  慶安元年(1648)後光明天皇から慈眼大師の謚号を宣下された。
  大僧正作の左の歌にあやかりたいものである。

    気は長く つとめは堅く 色うすく
           食ほそうして 心ひろかれ

    長命は 粗食 正直 日湯 陀羅尼(だらに)
           おりおり ご下風 あそばさるべし

  誠心もって両大師の御前にぬかずかれ、無限の福徳を得られんことを

  付記
  いま社寺で行なわれているみくじは、慈恵大師の創作をもととし、前述のように
  慈眼大師が慈恵大師を尊信して夢中に得たものと御伝記にある】
  (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換、句読点を適宜挿入)


あ~お~・・・
書くべきエッセンスは、ほとんど上の解説に凝縮されてるなあ。
もう私、書かなくていい?

いやまあ、各スポットで関連する話をおいおい書くとして、
最初の「東叡・日光両輪王寺の開基」ってとこは誤解を招きかねないので
ちょっとだけ補足しておくと、東叡山寛永寺の開基、
これは「上野第一編」の方でも書いてますが、ここはいいです。

日光輪王寺の開基・・・
こちらは 「輪王寺1」 で開山の状況について書いたように、
日光の寺の創建は奈良時代ともっと古いです。
寺伝通りではなかったとしても、寛永寺創建よりは確実に古いです。

なら何で日光輪王寺の開基と書くのか?

「紫雲立寺」としてスタートした日光の寺は、
後に「四本龍寺」と改称したとこまではわかるんだけど、
その後は江戸期まで商号変更した形跡は手持ちの資料では見当たらない。

だからいちおう「四本龍寺」のままだったんじゃないかと思うけど、
山内に堂宇などが増えると後の時代にはもう「日光山」って表現になってる。
何しろ一山すべてが同一法人だったんだから、
「四本龍寺」ってちっこい枠には収まらない・・・
収める必要もなかったのかもしれない。

江戸期に入って天海の死後、日光に「輪王寺」の号が下賜される。
寛永寺にも同じく「輪王寺」の名称が与えられるんだけど、
ひとまず寛永寺の方は置いといて、天海は寛永寺と日光山を統轄したから、
実際のところ天海存命中は日光に「輪王寺」は存在してなかったんだけど、
煩雑な説明はヌキにして、日光山の中興の祖、って感じのことを言いたいんだと思う。



さてと、南光坊天海。
家康のブレーンとして、名前だけは戦国ファンにも有名だと思うけど、
実際天海がどんな人だったのかということは、案外知られてないんじゃないだろうか。
かくいう私もほとんど知りませんでした。

特に、その前半生。
実は、現代の歴史ファンはもとより、天海と同時代の人にさえ
前半生はあまり知られていなかったらしい。

それもそのはず、天海自身が多くを語らなかったのだ。
『寛永寺』によると、「東叡山開山慈眼大師縁起」(通称:「胤海伝」)に
こんな話が載っているそうな。


  ある人が

 「師の生まれなどについてお聞かせください」

  と氏素性などについて大師に尋ねても、

  「もう生まれも育ちも忘れちゃったよ~。
   大体、一旦空門(仏門)に入ったら
   そんなのもう関係ないしさ」


  とおっしゃるばかりなので、実のところ詳しいことは何もわからない。


胤海(いんかい)さんは天海の直弟子で、幼い頃から天海に仕え、
常に寄り添うようにお側にいた方だそうな。

  【その胤海にして、なお大師の父母の名やその年齢を知らなかったのである。
   世間の人々が大師の俗姓や年齢を知らないのはむしろ当然というべきであろう。】
  (『寛永寺』より)


天海といえば異常なほど長生きした方ですが、別にボケが入った訳でも
すっとぼけた訳でもありません。
仏弟子となったからには、俗世のことを知ったからといって
何の意味もない・・・
そういうことらしいです。

ま、それはそれでいいんだけどね、
天海は相当な存在感があり、また後半生ではエネルギッシュに
華々しく活動された方なので、天海がおのれの事を語らなかったがために、
後世では実に様々な憶測を呼ぶことになった。


まず、年齢。
『寛永寺』によると、生年には12~15もの説があり、
享年は90歳から140歳まで、なんと50年もの開きがあるという
140歳説は、天海の存命中に書かれたものの中にあるそうで、
それでも下限は90歳だから、当時から年齢の謎についてちまたで囁かれていたものの、
どうやら

「すげえジジイらしい」

という認識だけはあったものと見える。

通常語られる天海の生年は、天文5年(1536年)で
隆景ちゃんの3歳下。

これは朝廷の記録係である小槻宿祢(おつきのすくね)が遺した日記から来ている。
もう誰も覚えちゃいないと思うけど、 「武将と僧侶のアルコール耐性・後編」 で
出てきた小槻伊治(これはる)の一族の方です。

この方が寛永9年(1632)家康の17回忌に日光に出張した際の記述に

  東照社(のちの東照宮)の薬師堂において、法華万部供養会の法要があった。
  導師は南光坊大僧正、今年97歳。


とある。

いくら天海が自分の生まれを明かさなかったとしても、
小槻宿禰の立場と公式な日記であることを考えあわせると、
この記述の信憑性は高いだろうってことで、
「97歳」はもちろん数えだから、逆算して天文5年生まれ、
享年は数えで108歳、実年齢で107歳という計算になり、
これが今日での定説なんだそうな。



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最終更新日  2014年08月02日 22時56分59秒


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