戦国ジジイ・りりのブログ

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2013年12月11日
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カテゴリ: 上野と寛永寺
生まれ年の次は生まれた場所。


『寛永寺』では会津・蘆名氏の一族だとし、
その中の三浦氏か船木氏だという説を紹介している。
ウィキペディアによると、船木氏説が現在では最も有力らしい。

前回紹介した「胤海伝」では陸奥は会津の生まれだとあるそうだが、
蘆名氏の一族だとしていながら同時に

「室町11代将軍・足利義澄の末子だって言ってる人もいるよ」

なんて紛らわしい文章まである。

将軍のご落胤説の原因のひとつに、天海が用いた紋があるそうで、
「上野第二編(8)」
沢山付いてる写真を載せましたが、
一般的に蘆名氏の紋は「二」じゃなくて「三」・・・
「丸に三引」といわれてるらしい。

上記リンクで、「丸に二引」を蘆名氏が使用していたという
『閾(いき)ペディアことのは』様の考察を紹介しましたが、
まあ別に無理はないと思う・・・
というか、反論できるだけの材料を持ってない。

が、やはり「丸に二引」で最もメジャーなのは足利家であり、
ゆえに天海=丸に二引=足利将軍家という単純な図式が成立し、
将軍のご落胤という俗説が生まれたのではないかという。


それから、宇都宮氏の系図に「下野守正綱の女が古河高基に嫁し、永正七年天海を生む」



そして、おそらく誰もが一度は聞いたことがあり
最も有名、かつ最もうさん臭い天海=明智光秀説。

まあご存知の方も多いでしょうが、いろは坂を登った上にある明智平の名称だとか、
東照宮におわす随身さんの付けてる紋が明智の桔梗紋だとか、
徳川秀忠・家光親子から一字を抜き出すと「光秀」になるとか、


光秀だと年齢的に無理があるから、その娘婿の秀満じゃないかと言ってみたり、
明智説の世界は元気だなあ~と思うものの、『寛永寺』では
「どれも信ずるに足りないものである」と一蹴している



では、蘆名氏出身説で天海の前半生をざっと見ましょうか。

わたくしの手元には、1枚のリーフレットがある。
前々回、日光で大護摩堂の若い坊様に教えられて『輪王寺 宝ものがたり』を買いに
宝物殿へ行ったことを書きましたが、ここへ入ったのはじ~つ~に久しぶり。
てか、過去1度か2度しか入ったことないかもしんない・・・(笑)。

だって、相当昔に行った時は書画が多くて、
よくわからないしあんまり興味もなかったからさ・・・

それに、まだ日本史を好きになる前の話だから、
徳川家に特別の関心があった訳でもなかったし。

あ、ここでいう宝物殿は、東照宮の宝物館とは別モノなんですよ。
現在では東照宮と輪王寺は分かれてますのでね、
輪王寺にも宝物殿があるんです(輪王寺の配置図は こちら )
最後に行った時からは、もう10年ぐらい経ってるかもしんない(笑)。

今回の宝物殿のお目当ては『宝ものがたり』ただ一つだったんだけど、
どうせ私ここもタダで入れるんだし(通常は有料です)、
せっかく寄ったので内部も見学していった。
で、宝物殿に置いてあったリーフレットを戴いてきた訳です。

タイトルは『天海大僧正生誕の地 会津美里』。
発行元は福島県大沼郡会津美里町の観光協会。

これまで私の中での日光における天海というのは、
三仏堂の暗い隅っちょにおわす天海坐像と、
そこに書かれているありがたいお言葉。
これに尽きていた。

が、今回は寛永寺モードで日光に行っていたので、
このリーフレットを見つけて

「おお~、こんなのあるのか!」

とすかさず手を伸ばしました。


リーフレットはタイトルの通り、天海生誕およびゆかりの地として
見どころを紹介しているもので、地図には天海の両親の墓とか
誕生地(舟木氏館跡)などが描かれている。

天海の生誕地についての寛永寺の公式見解は『寛永寺』にあるように
会津の蘆名氏出身説になるんだと思うけど、
日光輪王寺に会津美里町のリーフレットが置かれてるってことは、
日光サイドでも寛永寺と同じ立場を取ってる訳だよな。

で、リーフレットでは天海107年の歩みを簡潔に紹介している。
前回紹介した両大師にある解説は、天海の事蹟を中心に書かれたものだったけど、
リーフレットの方は人生そのものを子供でもわかるようなスタイルで
書かれていてなかなかいいものだと思うので、
リーフレットの「天海大僧正一大絵巻」に沿って紹介したいと思います。
・・・ただし、当然簡潔すぎるきらいもあるので、
一部黒字で補足していきます。



◆文殊菩薩の申し子生まれる・・天文5年(1536)1歳

  天海さまは両親が文殊堂にお祈りをして授かったといわれ、幼い頃から
  とても知識欲が旺盛だったと言われております。幼名は兵太郎といいました。


 ◆龍興寺にて11歳で得度す・・天文15年(1546)11歳

  天海さまは龍興寺で、11歳のときに仏門へ向けて修行に入ったのです。
  天台宗の寺として名高い龍興寺で、名僧で知られる弁誉舜幸(べんよしゅんこう)
  法印のもと、随風(ずいふう)という僧侶になりました。得度とは、
  世俗の生活から離れて、僧となって仏道の修行をすることをいいます。


 ◆長い修行の旅へ・・天文18年(1549)14歳

  天海さまは、14歳のとき故郷を離れて、仏教だけでなく儒学(中国古代の学問)や
  史学(歴史を勉強する学問)、易経(古代中国から伝わった占い)などを
  学ぶために、各地を巡り歩くのです。


随風の他、「無心」と名乗ったともされる。
「天海」に改めるまでが50年。
随風時代に蒐集した写本の中には、「随風」の直筆サイン本が現存しているものもある。

天文18年、まずは宇都宮で天台の教義を学ぶ。
在籍した粉河寺は当時、関東の天台の寺では興隆をきわめており、
全国から雲水が集まっていたという。
1年も経つと「名器」と言われるほどに頭角を現していたそうな。

天文22年(1553:18歳)、叡山に登り天台三大部を修める。
弘治2年(1556:21歳)、山門(延暦寺)から寺門(三井寺)へ移り、
仏教哲学や法相宗などを学ぶ。

同じ頃、奈良の興福寺において仏教のほか、
神道家から日本書紀の神代巻を習っている。

永禄元年(1558:23歳)、母の病気により帰郷。
母の死にあたって2年の喪に服する。

永禄3年(1560:25歳)、足利学校にて儒学を学ぶ。
当時の足利学校は、トップレベルの総合教育期間。
儒学だけでなく、幅広い知識を得たという。
永禄7年(1564:29歳)上州で易経などを修める。

5年の上州滞在を経て再び叡山での修学を希望するが、
時は織田信長による叡山攻めにより甲斐の武田信玄の下へ赴き、
甲斐でも勉学に励む。


◆会津に戻り、稲荷堂の別当に・・天正元年(1573)38歳

  天海さまは会津の領主・蘆名盛氏に切望されて帰郷すると、黒川城(今の鶴ヶ城)
  内にある稲荷堂を、10年近く守り通しました。ここでいう別当とは、僧侶と
  神職を兼務することをいいます。


稲荷堂に10年とあるけど、会津にはもっと長くいた。
この間にも会津や上州・世良田などで研鑽を積む。


◆蘆名義広を護り、常陸へ・・天正17年(1589)54歳

  磐梯山麓の磨上原の合戦で、蘆名義広は伊達政宗に敗れました。天海さまは
  甲冑に身を包み、義弘を護って常陸の国(茨城県北東部)へ落ち延びました。


東北の歴史はあまり知らないけど、磨上原くらいなら知ってる。
が、天海にも関係があったとは知らなかったなあ~。

この逃避行について、『神君家康の誕生』(曽根原理著・吉川弘文館)では
こんなエピソードを紹介している。

 【伊達政宗との戦いに敗れた蘆名盛重は会津から逃亡を図るが、敵の追手に阻まれる。
  同行した天海は、一族であり檀家でもある盛重のため、敵に向かってそれまでの
  不義をなじり「自分は僧侶の姿をとっているが血縁を捨てず檀那の恩を忘れない。
  ただ義のために命をかけるのみ」と大声で呼ばわった。敵はその剣幕を恐れ、
  殺生の報いを思い自ら退いたという。】


「殺生の報い」って、つまり相手が

「坊主を殺したら後味悪い」

って思ったって意味?
それに、すでにこの時点では、普通の人なら「晩年」と言っていいぐらいの年齢。
まあ天海は普通の人じゃないので、ここがちょうど折り返し地点だけどね


実は、大阪城天守閣に天海所用といわれる甲冑が所蔵されている。

私が大阪城に行ったのは史跡めぐりを始めて間もない頃だったんだけど、
天守閣では過去の企画展の図録も結構販売されていて、
重量も考えず沢山買って帰った。

その中の一冊に『武装』という武具展の図録があり、
天海の甲冑載ってるかな~と思って久々に開いてみた。

そしたら、あった!
載ってました!!

図録の写真を転載するのはマズいかなと思うので、
お見せできないのが残念ですが、一度見たら絶対忘れないだろってぐらい
インパクトのある見事な甲冑。

「銀小札萌黄糸威二枚胴具足」(ぎんこざね もえぎいとおどし にまいどうぐそく)。

前立には金の麒麟、脇立に朱の水牛。
赤い水牛のツノだけでもかなりのものだけど、
とにかく目立つのが脇立を包み込むように背に付けられてる
ビッグサイズの繰半月の指物。

さすがに大阪城の所蔵品だけあって、一緒に図録に掲載されてる甲冑は
真田信之とか藤堂高虎とか後藤又兵衛とか仙石秀久とか片桐且元とか
浅野長政、脇坂安治・・・きりがねえ(笑)。
とにかくメジャーな方々や、その子孫、あるいは有名人から拝領したという、
実にゴーカな顔ぶれの甲冑ばかり。

そういう甲冑を押しのけて、この中では1・2を争うインパクト度だと思います。

指物がとにかくデカくて、これでホントに歩けるのか!?ってカンジはありますが、
少し色あせた若草色で統一された、シックで品のいい甲冑です。


これが常陸への逃避行の際に使用された甲冑かはわからないけど、
図録の解説には天海の遺品だとある。

武家の家に生まれたといっても、世俗を捨ててもう40年にもなるのに、
故郷で城主の近くの寺に住まううち、周囲の環境の変化を受けて
もしもの時のために備えておいたのだろうか。

あるいは、元々は天海のものではなかったけど、
一族であり領主でもある蘆名義広(常陸へ移った頃、盛重と改名)のために
ムラムラと侠気が湧いてきて、みずから甲冑をまとったのかもしれない。


ちなみに、蘆名義広は佐竹義重の次男だったため、
実家である常陸を目指したようですね。

兄の佐竹義宣が関ヶ原で所領を没収された後は、
父・兄とともに秋田に移り、角館(かくのだて)を与えられる。
義広が現地で城を移転してあらたな城下町を造り上げた。

これが現在観光地でもある角館城下町の始まりだそうで、
もし逃亡中に追手に討たれていたら、
角館は重要な観光資源を失っていたかもしれない。
してみれば、天海もみちのくの小京都・角館の繁栄に一役買ったともいえる。



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最終更新日  2014年08月02日 22時56分43秒


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